「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県南城市 「 知名埼灯台 」

2013-11-21 05:11:41 | 沖縄の灯台











知名埼海岸の青がきれいな海







地上から頂部までの高さが12mの灯台







単閃白光で毎3秒に1閃光の灯器







入り口の屋根にシーサーが乗った珍しい灯台







初点、昭和29年とある知名埼灯台のプレート







平成8年改築されたに新しいハッチ









海野地区からの遠望







灯台の下にある 「 テダ御川 ( テダウッカー ) 」





灯台表番号 / 7050
ふりがな / ちなさきとうだい
標識名称 / 知名埼灯台
所在地 / 沖縄県南城市(知名埼)
北緯  / 26-11-21
東経  / 127-49-17 
塗色 / 白色
灯質 / 単閃白光 毎3秒に1閃光
光度 / 実効光度 390カンデラ
光達距離 / 7.5海里
地上~頂部の高さ / 11m 
平均水面上~灯火の高さ / 35m 
地上~灯火の高さ / 11.1m
業務開始年月日 / 昭和47年5月15日
光源 / LED(発光ダイオード)
電源 / 自然エネルギー(太陽電池



知名埼灯台は、旧・知念村の知名埼にある高さが12mの灯台で、
昭和29年に初めて点灯している。
灯台の入り口の軒先には沖縄の守り神のシーサーが飾られている。
また、灯台下には太陽神が降臨したといわれる霊泉 「 テダ御川 ( テダウッカー ) 」があり、
国王・聞声大君(きこえおおきみ)が久高島行幸の時は、ここで飲み水を補給し、
航海の安全を祈ったといわれている。
知名埼灯台の反対側の小丘には、知名地頭(領主)の内間大親が築いた知名グスクがある。
ここは国王の参拝の時には休憩所として利用したとされ、
グスク内には知名ヌ比屋の墓や拝所などがある。


知名埼灯台へのアクセス
知名埼灯台へは、国道331号線を佐敷より知念に向けて走ると
安座真集落の手前に板馬のバス停がある。
その手前を左に入った亀甲墓の間を海に向かって降りて行くと右手に灯台がある。
分からない時はグスクの知名グスクを参考にして頂きたい。
駐車は、国道331号線沿いに4台ほど停められる駐車スペースがある。
そこから徒歩で約7分。





福岡県みやこ町勝山 ・ 国指定史跡 「 橘塚古墳 」

2013-11-21 05:11:04 | 古墳・ 遺跡




















国指定史跡の 「 橘塚古墳 」 は、福岡県京都郡みやこ町勝山黒田にある古墳で、
周防灘に面する京都平野の内陸部、平尾台の麓から派生する低台地に所在する。
綾塚古墳の東方約500mのみやこ町立黒田小学校の校庭の一角にあり、
巨石を使った巨大墳墓であることから、1970年 ( 昭和45 ) に国の史跡に指定された。
古くから開口していたため、副葬品や出土品は発見されていない。
使用している巨石は花崗岩。従来は円墳と考えられていたが、
1995年 ( 平成7 ) からの調査によって、南北37m、東西52mの方墳とみられ、
長さ16.3mの横穴式石室の玄室部分は長さ4m、幅3.2m、高さは3.8mある。
この古墳は、近くにある綾塚古墳と石室の構造がよく似ていることから、
ともに豊前地方を代表する古墳とされ、石室の構造などから綾塚古墳より少し古く、
6世紀終わりごろの構築と推定されている。
JR日豊本線ほか行橋駅から太陽交通バス「黒田小学校前」下車、徒歩約3分。



佐賀県唐津市 「 唐津くんち・五番曳山 『 鯛 』 」

2013-11-21 05:10:41 | 日記 ・ イベント




















唐津くんち・五番曳山 「 鯛 」
魚屋町 弘化2年 ( 1845年 )










「 唐津くんち 」 といえば、すぐに想像するのが 「 鯛 」 の曳山で、
くんち = 鯛のイメージが強いのである。
テレビでよく見かけたということもあるが、
とりわけあの大きな目の鯛が印象に残っているのである。


唐津神社の神職を務める戸川家の口碑によると、
神輿の御神幸は寛文年間 ( 1661年-1672年 ) に始まったとされる。
今日の神幸行列のように曳山がこの祭りに登場するのは、
一番曳山の 「 赤獅子 ( あかじし ) 」 が
文政2年 ( 1819年 ) に奉納されてからのことである。
以後、曳山は明治9年 ( 1876年 ) までに15台が製作されているが、
うち1台は消失し、今日奉納されているのは14台である。
消失した曳山は紺屋町が製作した 【 黒獅子 】 で、
明治22年 ( 1889年 ) が最後の巡行となった。
この原因には諸説あり、宵宮に提灯の火がつき消火のために堀に落としたところ、
損傷が激しいために廃棄したという説もある。
しかし、その時代に現在のような宵曳山行事はなく、真相はハッキリしない。