「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

福岡県鞍手町 「追われゆく坑夫たち」 上野英信

2013-11-29 04:44:31 | 文学・文化・映画作品



鞍手町歴史民俗博物館








鞍手町で開かれている 「 炭坑 ( やま ) の仕事 」 展





24日の日曜日、みやこ町の寺田川古墳を皮切りに、
田川市ー直方市ー中間市ー鞍手町ー小竹町ー飯塚市ー嘉麻市ー川崎町をめぐった。
その行程の中で立ち寄った鞍手町の 「 鞍手歴史民俗博物館 」 で、
「 炭坑 ( やま ) の仕事 」 展が開かれていた。

鞍手。そして炭鉱といえば・・・
昭和39年 ( 1964年 ) に 「 筑豊文庫 」 を鞍手町に創設し、
坑夫の記録と資料を集成した上野英信 ( うえのえいしん ) であろう。

上野英信は昭和22年 ( 1947年 ) 、京都大学を中退して炭鉱の坑夫となり、
その後一貫して炭鉱労働者の生活と労働を負い続けたルポルタージュ作家である。
中間市で谷川 雁、森崎和江らと 「 サークル村 」 運動の中核を担い、
その後、鞍手郡鞍手町に移った。

『 追われゆく坑夫たち 』 は、昭和35年 ( 1960年)に岩波新書から刊行されたもので、
上野の代表作のひとつである。
筑豊炭田は、ほぼ一世紀近く全国の半分の石炭を産出し、日本の近代化を支えて来た。
大資本経営の炭鉱の陰で中小炭坑では非人道的労働がまかり通り、
エネルギー革命によりそれはますます苛酷になっていった。

「 苛烈きわまりない地底の 『 奴隷労働 』 は、彼らの持てる限りの財産と健康と生活を
収奪し去ったばかりではなく、彼らの人間としての微かな欲望のすべてを残酷無慙に
叩き潰してしまった 」

上野は昭和23年 ( 1948年 ) から28年 ( 1953年 ) まで、
各地の炭鉱を転々としながら、最低辺で呻吟 ( しんぎん ) する坑夫たちの叫びを記録し続けた。
「 追われゆく坑夫 」 は、自らの体験をもとに書かれたもので、
あまりに厳しいリアルな現実が各方面に衝撃を与えた。

その後も上野は、晩年まで文学運動や記録活動を続け、
昭和59年(1984年)から61年(1986年)にかけて
『 写真万葉録・筑豊 』 ( 昭和62年、日本写真協会賞受賞 ) を刊行した。


主な著書、 「 せんぶりせんじが笑った! 」 「 地の底の笑い話 」
「 どきゅめんと・筑豊 」 「 天皇陛下萬歳ー爆弾三勇士序説 」 「 出ニッポン記 」 などがある。

昭和62年(1987年)64歳で没した。




佐賀県唐津市 「 唐津くんち・十二番曳山 『 珠取獅子 』 」

2013-11-29 04:43:41 | 日記 ・ イベント




十二番曳山 珠取獅子
京町 ・ 明治8年 ( 1875年 )





14町の曳山に共通する基本的な構造は、曳山の主要部分である獅子頭や兜などの巨大な工芸品を、
車輪のついた、樫造りの台車の上に載せるものである。
台車の前方には100mほどの長さになる2本の綱に数十人の曳子がついて曳山を前方に曳いていく。
また、台車の後方には2本の梶棒(かじぼう)が突き出ており、
この棒を操作することで曳山の進行方向を操作する。
※ ( 大石町の鳳凰丸には台車の前方にも2本の梶棒がある ) 。
各曳山には製作順に番号が付されており「○番曳山」あるいは「○番ヤマ」と呼ばれている。
14町の曳山は以下の通りである。

1 刀町の赤獅子(製作 1819年・文政2年) 
2 中町の青獅子(1824年・文政7年)
3 材木町の亀と浦島太郎(1841年・天保12年)
※製作当初は浦島太郎ではなく宝珠が乗せられていた。
4 呉服町の九郎判官源義経の兜(1844年・天保15年)
5 魚屋町の鯛(1845年・弘化2年)
6 大石町の鳳凰丸(1846年・弘化3年)
7 新町の飛龍(1846年・弘化3年)
8 本町の金獅子(1847年・弘化4年)
9 木綿町(きわたまち)の武田信玄の兜(1864年・元治元年)
10 平野町の上杉謙信の兜(1869年・明治2年)
11 米屋町の酒呑童子と源頼光の兜(1869年・明治2年)
12 京町の珠取獅子(1875年・明治8年)
13 水主町(かこまち)の鯱(1876年・明治9年)
14 江川町の七宝丸(1876年・明治9年)
消滅 紺屋町の黒獅子

なお、唐津市の子供たちがこの曳山の順番を覚えるのに
「10人のインディアン」の曲の替え歌を用いる。
その歌詞は以下のとおり。
「赤獅子青獅子浦島太郎、義経鯛山鳳凰丸(この歌ではほうまる、と発音する)
飛龍、金獅子武田上杉頼光、珠取鯱七宝丸」 となる。



福岡県みやこ町犀川 ・ 林酒造 『神楽山』

2013-11-29 04:42:21 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒






















ラベルに 「 豊前国を愛した宇都宮の始まりの地 」 と書かれている。
それは戦国の世、秀吉が九州平定を行うために黒田官兵衛に馬ヶ岳城を与え、
豊前の国をおさめさせたが、もともとこの地を治めていた宇都宮氏との戦が始まる。

その宇都宮氏の始まりの地である築上町。
それにちなんだ米焼酎 「 神楽山 」 である。

「 神楽山 」 は、米焼酎であるが、
清酒 「 九州菊 」 で有名な林酒造の米焼酎は焼酎というよりも、清酒に近い味わいであった。


福岡県京都郡崎山、京築管内唯一の造り酒屋である 「 林酒造 」 。

福岡県に住んでいても崎山と言っても解かる人は非常に少ないのは残念である。
「 福岡県に住んでいてもこんなに知られていないのかぁ 」 と、思う。
崎山は、英彦山を源とする今川のほとりに位置し、川を挟んで建屋が見える。

この地は、西の赤村を経て秋月また大宰府へ、
東は行橋から瀬戸内各所へつながり豊前国における重要な交通路として、
江戸時代には 「 秋月街道 」 と呼ばれ賑わっていた。
北九州市から香春町、田川市、山田市、嘉穂町、甘木市を経由して久留米市へ通じ、
江戸時代初期までは豊前と筑前、筑後を結ぶ天下道であった。
同じく豊前小倉から筑前、肥前方面へ至る長崎街道が整備されていなかったころ、
秋月街道は古い 「 長崎街道 」 の役割も担っていた。


「 若草 」 誕生。そして 「 九州菊 ( くすぎく ) 」 へ ・・・
 
創業は1837年 ( 天保8年 ) 。
この頃、日本各地では天候異変が続き、小倉藩内でも飢饉の状態となった。
さらに、追い打ちをかけるように天保8年正月小倉城本丸、天守閣を火災で焼失させる事件が勃発。
当然、藩の情勢も苦しく、幕府から藩の窮状には構いなく大規模な河川工事の名が下るなど、
大変な時代であった。
奇しくも、この小笠原藩小倉城の焼失の年に、藩内の仲津郡に 「 林酒造 」 が誕生した。

林酒造の創始者は林熊太郎とされ、林平作の娘、カツの夫にあたり、
林平作は、庄屋兵右衛門の次男として生まれ性格は温厚で、親切な人であったらしい。
人と争うこともなく、若くして家の資財を分けてもらい、
この資財を生かして自ら諸雑貨を担い商いをしたところ、
たちまち人の信頼を集めて、数年も経たずに町の豪商となって行った。
また商売の規模も多岐にわたり、その当時は、酒造、しょうゆ、蝋の3業を営んでいた。