
小倉北区堺町公園内にある 「 花衣ぬぐや纏はるひもいろいろ 」 の句碑

小倉の飲み屋街がある堺町の一角に杉田久女の句碑が建っている。
久女はこの界隈で暮らし生活をしていた。
そのとき詠まれた句が多くあり、その中でも代表的な二句を紹介したい。
「 足袋つぐやノラともならず教師妻 」
季題は<足袋>で冬。久女の夫は美術学校(現、東京芸術大学)出の画家。
実業家でもなければ政治家でもない。
いわば未知数の芸術家をあえて夫と定めた久女には、
それなりに新生活に期するところが大きかっただろう。
しかし、その夫は彼女の思惑に反して、教師としての生活のみに明け暮れ、
自分の芸術活動は全く忘却し去ってしまう。
一方、教師としての生活は楽ではない。
この頃出入りして俳句の手ほどきをしていた橋本多佳子の家の暮らしぶりを目のあたりにして、
その大きなギャップを思わざるを得なかったであろう。
「 朝顔や濁りそめたる市の空 」
久女の代表作。既に二女の母だった三十八歳(1927)の作である。
「市(いち)」は、彼女が暮らしていた小倉の街だ。
このころの久女は、女学校に図画と国語を教えに行ったり、
手芸やフランス刺繍の講習会の講師を勤めるなど、充実した日々を送っていた。
そうした生活が反映されて、まことに格調高く凛とした一句となった。
今朝も庭に咲いた可憐な朝顔の花。
空を見上げると小倉の街は、はやくも家々の竃(かまど)からの煙で、うっすらと濁りはじめている。
朝顔の静けさと市の活気との対照が、極めてスケール大きく対比されており、
生活者としての喜びが素直に伝わってくる。
朝顔は夏に咲く花だけれど、伝統的には秋の花とされてきた。
ついでに言えば 「 ひるがお科 」 の花である。
久女は虚子門であり当然季題には厳しく、秋が立ってから詠んだはずで、
「 濁り初めたる市の空 」 には、すずやかな風の気配もあっただろう。
当時の小倉の空は、濁り初めても、かくのごとくに美しかったと思われる。
杉田久女は、高級官吏である赤堀廉蔵と妻・さよの三女として鹿児島県鹿児島市で生まれる。
父の転勤に伴い沖縄県那覇市、台湾嘉義県・台北市と移住する。
1908年(明治41年)東京女子高等師範学校附属高等女学校
(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)を卒業。この間に一家が上京する。
1909年(明治42年)旧制小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)の美術教師で、
画家の杉田宇内と結婚し、夫の任地である福岡県小倉市(現・北九州市)に移る。
1911年(明治44年)長女・昌子(後に俳人・石昌子となる)誕生。
1916年(大正5年)兄で俳人の赤堀月蟾が久女の家に寄宿する。
この時に兄より俳句の手ほどきを受ける。それまで久女は小説家を志していた。
『ホトトギス』に投句を始め、1917年(大正6年)ホトトギス1月号に初めて出句。
この年5月に飯島みさ子邸での句会で初めて高浜虚子に出会う。
1922年(大正11年)夫婦揃って洗礼を受けクリスチャンとなる。
1931年(昭和6年)帝国風景院賞金賞を受賞。
1932年(昭和7年)女性だけの俳誌『花衣』を創刊し主宰となる。しかし、5号で廃刊となった。
1934年(昭和9年)中村汀女・竹下しづの女などとともにホトトギス同人となる。
1936年(昭和11年)虚子よりホトトギス同人を除名される。
除名の理由は現在も明らかになっていない。
しかし除名後も虚子を私淑しホトトギスへの投句を続けた。
太平洋戦争後の食料難により栄養障害をおこす。
1946年(昭和21年)1月21日、栄養障害に起因した腎臓病の悪化により
福岡県筑紫郡太宰府町(現・太宰府市)の福岡県立筑紫保養院で死去、享年57。
愛知県西加茂郡小原村(現・豊田市松名町)にある杉田家墓地に葬られた。
戒名は無憂院釈久欣妙恒大姉。1957年(昭和32年)長野県松本市の赤堀家墓地に分骨される。
ここに記された「久女の墓」の墓碑銘は長女・昌子の依頼で虚子が筆を取った。