この墓は、福岡県みやこ町豊津の甲塚墓地の中にある。
郡 長正 ( こおり ながまさ ) は、会津藩の家老萱野権兵衛長修の次男として生まれ、
明治元年の会津戦争の敗北により会津藩二十八万石は、青森県下北半島の斗南藩に移された。
長正の父、長修は責任をとって自刃。
そのため萱野家は断絶し、遺族は「郡」の姓を名乗ることとなった。
藩の再興を託した斗南藩は、長正ほか六名の若者を同じ佐幕派として官軍と戦った小笠原藩の
藩校育徳館 ( 現在の県立育徳館高校 ) に留学させた。
留学生たちは熱心に勉強に励んだが、その中でも長正は文武にわたって特に優れていた。
明治四年五月一日、長正は育徳館寮南の一室で切腹し、十六年の短い生涯を閉じることになる。
一説によると、あるとき彼が故郷にあてた手紙の中に寮の食事に関することが書かれてあり、
それをたまたま他の生徒の目に触れて問題になった。
ついには会津武士の精神をなじられるまでになり、
長正はその精神を守るため切腹に及んだとも言われている。
この墓は、誇り高く若い魂を抱き、遠く四百里離れた故郷会津へ正面を向けて建っている。