「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

ブルーインパルスが描く 「 空の華 」

2013-11-24 07:28:34 | 戦闘機 ・ 自衛隊関係



ブルーインパルスが描く 「 空の華 」











ブルーインパルスが描く 「 空の華 」。
飛行演技の名前は分からないが、
レインウォールを逆さにしたような華麗な演技を観て、
沖縄の八重山に咲くユリの花を思い出した。





熊本県美里町 「 妙見橋 」

2013-11-24 07:28:12 | 熊本の石橋



白石野川に架かる妙見橋








現役の橋として活躍している妙見橋







妙見橋の路標






橋の下流は、白石野川と釈迦院川が交差する





架橋 / 不明
石工 / 不明
長さ / 23.40m
幅  /  4.00m  高さ / 不明


妙見橋は、小筵方面からの道路と国道443号線が交差する場所付近にある橋で、
白石野川の上に架けられている。上流側は明治期に拡幅されているが、
当時の姿のままの丸いアーチと草木が茂る石組みは、懐かしさがあり、
どこかほっとする風景である。


妙見橋へのアクセス
妙見橋へは、松橋インターより国道218号線を砥用方面に向かい、
443号線を経由し、約30分。
機織橋から釈迦院方面に約1~2分で到着する。
駐車場なし。


福岡県みやこ町綾野 「 秋桜の径 」

2013-11-24 07:27:56 | 花・鳥・虫・魚・猫



福岡県みやこ町綾野 「 秋桜の小径 」


















両親が眠るお墓参りをしてから、
毎週土曜日に通う 「 介護職員初任者研修 」 へ行く途中にコスモスが咲いていた。
一瞬通り過ぎたが、 「 おっ! 」 と思って車を停めた。

お年寄りが作る田舎の手づくりの花道に 「 こころが和んだ 」 。




佐賀県唐津市   『 呼子大橋 』

2013-11-23 07:37:39 | 橋 ・ 鉄橋 ・ ダム ・ 隧道・道



佐賀県唐津市 『 呼子大橋 』



















橋長:727.8m
中央支間:250
主橋梁部構造:斜張橋
幅員:車道部2車線、歩道部片側
1989年(平成元年)4月開通


呼子大橋(よぶこおおはし)は、佐賀県唐津市の離島である加部島と九州本土を結ぶ道路橋で、
どちらも唐津市になる。
見た目には有料道路のように見えるが通行料は無料となっている。
呼子大橋が出来る以前は、加部島から船で渡っていたが、
加部島から唐津市街地へ行く路線バスが走っている。



福岡県みやこ町勝山 ・ 国指定史跡 「 綾塚古墳 」

2013-11-23 07:37:27 | 古墳・ 遺跡



高さ7mのこんもりとした墳丘








綾塚古墳の遠望 ( 全景 )








古墳内の石棺







入り口に立つ案内板





綾塚古墳は全国でも有数の石室をもつ古墳であり、
豊前地方を代表する古墳時代後期の横穴式石室古墳である。

古墳は観音山 ( 鹿ヶ峰 ) から延びる丘陵の先端に築かれており、
墳丘は直径約40m、高さ7mを測る円墳で、山側部分のU字形に削って堀を造り、
その土を盛り上げて墳丘を築いたと思われる。

石室の開口は古く、江戸時代から信仰の対象とされており、
別名 「 女帝神社 」 とも呼ばれている。
石室は橘塚古墳と同様に花崗岩の巨石を用いて築かれた複室構造の横穴式石室である。
石室の全長は19mを測り、複室構造の横穴式石室としては国内でも最大規模に位置付けられるものである。
玄室は長さ3.5m×幅3.5m、前室は長さ2.4m×幅2.2mを測る。
また玄室と前室との天井の高さにはほとんど差がない。
石室内には祭壇とご神体とされる石棺があり、石室の入り口には鳥居が立てられている。
副葬品は不明であるが、石室の構造などから6世紀後半から7世紀初頭の構築と推定されており、
国指定史跡になっている。



沖縄県南城市糸数 「 根石グスク 」

2013-11-22 05:46:41 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



沖縄気象台の観測所の左がグスクになる








グスク入り口にある拝所







香炉が置かれてある森の中の拝所








城壁らしき石のかたまり







根石グスクの手前にある石積み





根石グスクは、糸数グスクの北の山の上に築かれたグスクである。
グスクには 「 沖縄気象台のレーダーと観測所 」 が隣接されている。
その手前の森の中に拝所が点在し、ところどころに城壁と思われそうな石のかたまりがあるが、
どれほどの規模のグスクだったのか、また手前にある石積みがグスクの物なのか等、
グスクの興亡についても定かではない。


根石グスクへのアクセス
根石グスクへは、途中まで糸数グスクを参考にしてもらいたい。
その糸数グスクの北側に見える気象レーダーの入り口になるため、
気象レーダーを目指して行けばいい。
駐車は、レーダー付近の広場に駐車することが出来る。


「 2013 ・ ボジョレーヌーボー 」

2013-11-22 05:45:41 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒








今年も11月の第3木曜日のヌーボー解禁の日がやって来た。

2013年のボジョレ地区は天候に恵まれ、香り豊かで、
フルーティーな味わいに仕上がっているという。
今年は円安などの影響で、一部の国内メーカーがボジョレ・ヌーボーを値上げすることなどから、
サントリーでは、2013年の輸入量を2012年と横ばいか、数%減少するとみている。

そんなサントリーから出ている物を買って、善は急げ?ではないが、早速飲んでみた。
ワインは白が好きだが、たまに飲む赤ワインもいいものである。






11月22日 「 小雪の朝 」

2013-11-22 05:44:55 | 朝の風景とその他の風景
















月は真上というよりもやや西に在り、その上に星が瞬いていた。
昨日も日中は温かかったが、朝はやはり冷える。
そんな今日は 「 小雪 」 である。

小雪 ( しょうせつ ) は、二十四節気の第20で、十月中(通常旧暦10月内)となる。
現在広まっている定気法では太陽黄経が240度のときで11月22日ごろ。
暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。
恒気法では冬至から11/12年 ( 約334.81日 ) 後で11月21日ごろ。

期間としての意味もあり、この日から、次の節気の大雪前日までである。
西洋占星術では、小雪を人馬宮 ( いて座 ) の始まりとする。


わずかながら雪が降り始めるころ。
『 暦便覧 』 では 「 冷ゆるが故に雨も雪と也てくだるが故也 」 と説明している。




沖縄県南城市 「 知名埼灯台 」

2013-11-21 05:11:41 | 沖縄の灯台











知名埼海岸の青がきれいな海







地上から頂部までの高さが12mの灯台







単閃白光で毎3秒に1閃光の灯器







入り口の屋根にシーサーが乗った珍しい灯台







初点、昭和29年とある知名埼灯台のプレート







平成8年改築されたに新しいハッチ









海野地区からの遠望







灯台の下にある 「 テダ御川 ( テダウッカー ) 」





灯台表番号 / 7050
ふりがな / ちなさきとうだい
標識名称 / 知名埼灯台
所在地 / 沖縄県南城市(知名埼)
北緯  / 26-11-21
東経  / 127-49-17 
塗色 / 白色
灯質 / 単閃白光 毎3秒に1閃光
光度 / 実効光度 390カンデラ
光達距離 / 7.5海里
地上~頂部の高さ / 11m 
平均水面上~灯火の高さ / 35m 
地上~灯火の高さ / 11.1m
業務開始年月日 / 昭和47年5月15日
光源 / LED(発光ダイオード)
電源 / 自然エネルギー(太陽電池



知名埼灯台は、旧・知念村の知名埼にある高さが12mの灯台で、
昭和29年に初めて点灯している。
灯台の入り口の軒先には沖縄の守り神のシーサーが飾られている。
また、灯台下には太陽神が降臨したといわれる霊泉 「 テダ御川 ( テダウッカー ) 」があり、
国王・聞声大君(きこえおおきみ)が久高島行幸の時は、ここで飲み水を補給し、
航海の安全を祈ったといわれている。
知名埼灯台の反対側の小丘には、知名地頭(領主)の内間大親が築いた知名グスクがある。
ここは国王の参拝の時には休憩所として利用したとされ、
グスク内には知名ヌ比屋の墓や拝所などがある。


知名埼灯台へのアクセス
知名埼灯台へは、国道331号線を佐敷より知念に向けて走ると
安座真集落の手前に板馬のバス停がある。
その手前を左に入った亀甲墓の間を海に向かって降りて行くと右手に灯台がある。
分からない時はグスクの知名グスクを参考にして頂きたい。
駐車は、国道331号線沿いに4台ほど停められる駐車スペースがある。
そこから徒歩で約7分。





福岡県みやこ町勝山 ・ 国指定史跡 「 橘塚古墳 」

2013-11-21 05:11:04 | 古墳・ 遺跡




















国指定史跡の 「 橘塚古墳 」 は、福岡県京都郡みやこ町勝山黒田にある古墳で、
周防灘に面する京都平野の内陸部、平尾台の麓から派生する低台地に所在する。
綾塚古墳の東方約500mのみやこ町立黒田小学校の校庭の一角にあり、
巨石を使った巨大墳墓であることから、1970年 ( 昭和45 ) に国の史跡に指定された。
古くから開口していたため、副葬品や出土品は発見されていない。
使用している巨石は花崗岩。従来は円墳と考えられていたが、
1995年 ( 平成7 ) からの調査によって、南北37m、東西52mの方墳とみられ、
長さ16.3mの横穴式石室の玄室部分は長さ4m、幅3.2m、高さは3.8mある。
この古墳は、近くにある綾塚古墳と石室の構造がよく似ていることから、
ともに豊前地方を代表する古墳とされ、石室の構造などから綾塚古墳より少し古く、
6世紀終わりごろの構築と推定されている。
JR日豊本線ほか行橋駅から太陽交通バス「黒田小学校前」下車、徒歩約3分。



佐賀県唐津市 「 唐津くんち・五番曳山 『 鯛 』 」

2013-11-21 05:10:41 | 日記 ・ イベント




















唐津くんち・五番曳山 「 鯛 」
魚屋町 弘化2年 ( 1845年 )










「 唐津くんち 」 といえば、すぐに想像するのが 「 鯛 」 の曳山で、
くんち = 鯛のイメージが強いのである。
テレビでよく見かけたということもあるが、
とりわけあの大きな目の鯛が印象に残っているのである。


唐津神社の神職を務める戸川家の口碑によると、
神輿の御神幸は寛文年間 ( 1661年-1672年 ) に始まったとされる。
今日の神幸行列のように曳山がこの祭りに登場するのは、
一番曳山の 「 赤獅子 ( あかじし ) 」 が
文政2年 ( 1819年 ) に奉納されてからのことである。
以後、曳山は明治9年 ( 1876年 ) までに15台が製作されているが、
うち1台は消失し、今日奉納されているのは14台である。
消失した曳山は紺屋町が製作した 【 黒獅子 】 で、
明治22年 ( 1889年 ) が最後の巡行となった。
この原因には諸説あり、宵宮に提灯の火がつき消火のために堀に落としたところ、
損傷が激しいために廃棄したという説もある。
しかし、その時代に現在のような宵曳山行事はなく、真相はハッキリしない。




左肩痛で整形外科へ・・・

2013-11-20 05:54:21 | 日記 ・ イベント








昨日の午前中、雨の中を縁石を据えて、モルタルを煉って目地鏝で仕上げていった。
一気に襲ってきた寒波は遠くの山肌を白く装いさせ、着ている物を防寒着に変えた。

そんな寒さの影響もあるのか?3週間ほど前から調子が悪かった左肩が悲鳴を上げた。
動かすだけで痛みが走った肩は、じっとしている状態でも疼いた。
夜中も寝返りを打つ度に痛くて眠気を妨げた。

それで昨日は、午後から休みになったので整形外科へ行って来た。
左肩は、武雄競輪で落車して肩鎖関節と腱板を損傷しているので、
「 古傷が痛んだ 」 といえば、それまでだが・・・

バリバリになった左肩に血行を良くする注射を打ち、
夕べは寝る前に ” ホッカイロ ” を2カ所に貼って寝たら気にすることなく眠れたが、
今日は、朝イチで生コン打ちだから、また痛みが再発しそうである。
これ以上、痛みが出ないことを願っている。




久留米市・柳坂曽根の 「 ハゼ並木 」

2013-11-20 04:55:23 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣


久留米市柳坂曽根の 「 ハゼ並木 」



















先週、近くのハゼの木が紅く色づいていたので、
久留米のハゼ並木も色づいているだろうと思って行ってみたものの、
色付きにはほど遠いものだった。
今週末くらいが見ごろかも知れないけれど、もう行くのは止そうと思う。

ぶどうの房のような黒い実がたわわにぶら下がると木枯しが吹き始め里は冬支度を急ぐ。
かつては、木蝋(もくろう)生産のために筑後地方の至る所で見られたハゼ並木は残り少なくなった。
柳坂曽根のハゼ並木は、久留米市山本町の耳納連山北麓にあり、
谷川の高曽根川に沿って、里から山に向かって約200本のハゼ並木が1.1キロも続いている。
ハゼは今から約250年前、灯明用のろうの原料として久留米藩が植樹したもので、
全国街路樹100選にも選ばれている。


名称ハゼ並木
所在地 : 福岡県久留米市山本町豊田2287


福岡県みやこ町豊津 ・ 「 秋月藩士の墓 」

2013-11-20 04:54:52 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )














斗南藩の郡 長正の墓から100mほど離れた場所に 「 秋月藩士の墓 」 がある。


この墓 ( 向かって左側 ) は、明治9年(1876年)10月に起きた 「 秋月の乱 」 の
戦死者17名の墓である。
明治初期、新政府による 「 秩禄処分 」 や 「 廃刀令 」 といった諸政策は、
かつて武士であった人々には大変不満が募るものであった。
とりわけ西日本では彼ら 「 不平士族 」 が武力による反乱を起こしたが、
「 秋月の乱 」 もそういった士族反乱のひとつであった。

明治9年10月27日、旧秋月藩士200余名は、肥後の神風連に呼応して挙兵。
旧豊津藩士に同調を求めるため、さらには長州の前原一誠と合流するため、
同29日に豊津台地に入った。
しかし、秋月の期待とは裏腹に、豊津側が政府軍に協力したことで、
圧倒的に劣勢となった秋月側は、17名の戦死者を出して撤退したのである。

遺骸はこの場所に葬られ、翌年遺族らによって墓標が建てられたものである。




福岡県みやこ町豊津 ・ 斗南藩士 「 郡 長正の墓 」

2013-11-19 05:14:41 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )






















この墓は、福岡県みやこ町豊津の甲塚墓地の中にある。

郡 長正 ( こおり ながまさ ) は、会津藩の家老萱野権兵衛長修の次男として生まれ、
明治元年の会津戦争の敗北により会津藩二十八万石は、青森県下北半島の斗南藩に移された。
長正の父、長修は責任をとって自刃。
そのため萱野家は断絶し、遺族は「郡」の姓を名乗ることとなった。

藩の再興を託した斗南藩は、長正ほか六名の若者を同じ佐幕派として官軍と戦った小笠原藩の
藩校育徳館 ( 現在の県立育徳館高校 ) に留学させた。
留学生たちは熱心に勉強に励んだが、その中でも長正は文武にわたって特に優れていた。

明治四年五月一日、長正は育徳館寮南の一室で切腹し、十六年の短い生涯を閉じることになる。
一説によると、あるとき彼が故郷にあてた手紙の中に寮の食事に関することが書かれてあり、
それをたまたま他の生徒の目に触れて問題になった。
ついには会津武士の精神をなじられるまでになり、
長正はその精神を守るため切腹に及んだとも言われている。

この墓は、誇り高く若い魂を抱き、遠く四百里離れた故郷会津へ正面を向けて建っている。