Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

名文引用選集の引用評

2006-04-02 | 文学・思想
山-西洋人のアンソロジー」と題する先ほど発刊された日本の出版物を頂いた。ホメロスから近代までの古典的文献の山に関する文章を引用をした書物である。それを編集・翻訳・注記したのは、三年ほど前に中世詩人ジェフリー・チューサー作「カンタベリー物語」の全日本語訳を遂行した専門を英古典とする英文学学者である。そのような事から、当然ながら西洋人といっても英国からみた文学的なアンソロジーとなっている。

後書きにあるように、参考とした書籍“Mountains - An Anthology, John Murray, 1991"が存在する。その著者については一切の記載が無いが、アンソロジーと言う限りはその引用の基準や視点などが知りたいと思った。1931年生まれのサー・アンソニー・ケニー教授は、カソリック神父でもあって、オックスフォード大学の副総長を務め、英国アカデミーのプレジデントでもあった大物哲学者である。英国で評価の高いヴィーン出身のヴィットゲンシュタインの専門家でもあるので、恐らく本書にも大きく影響しているその引用への見解に、眉に唾して注意してみたい。

しかし残念ながら、本書からはその参考とした書籍自体の前書きなどは一切省かれている。それ自体が元々文献を引用したタペストリーであるからだろう。断り書きに、著作権等の障害を取り除くべく取捨選択したとある。よって、必要ならば元の参考文献にあたらなければならない。

僅か15年前の引用であるとしても如何にも彼の地のアカデミズムらしい些か浮世離れしたアンソロジーを感じる。それを本書の編者は、今日の感覚から、訳者解説として正常な枠組みへと戻すかのように其々の引用の再位置づけを試みている。つまり、ギリシャ神話と旧約聖書のみに 止 ま る 古典の引用の  導 引 を、ローマ帝国から中世時代の 先 史 を、ルネッサンスから近代・現代へとの流れへの中での 勃 興 と度重なる 発 展 を、ここ最近250年ほどの登山活動(近 代 社 会)を定義する観点からの枠組みを定めて、その視界の向こう奥深くに映る対象として、焦点を当てている。それは、時系的なものだけでなくて、地理的にもその活動の主要舞台である大陸文化にも言及する事でアンソロジーとしての体を整えている。

特に重要と思われる言及は、18世紀のスイスの解剖学者で、その著「アルプス」で有名なアルブレヒト・フォン・ハラーと、その甥であるジュネーブの地学者で、その著「アルプスの旅」で有名なオラス・ベネディック・ド・ソーシュールの 思 想 を同時代のルソーと並べた事ではないだろうか。

解説は、アルプスの最高峰モンブランに「ド・ソシュール自身は彼ら(1786年の初登)に続いて一年後に登り、…中略…山はもう物質化し、いわば自然研究の対象となった。」と断定する。

余談ながらド・ソシュール家は、後年の言語学者で構造主義の祖と見做される有名なフェルディナンなどを含めてロートリンク地方出身のカルヴァン派の家系のようである。

そして解説は、13世紀初頭における聖フランシスのラ・ヴェルナ山での聖痕の奇跡を述べるまでも無く、ダンテの「神曲」の煉獄の山の登山情景や、ペトラルカ自身のヴァンテュー登山時の感動がアウグスティヌスの「告白」の教えへ収斂している事を、典拠や典礼を求める典型的な中世アカデミズムの範疇を超えていないとして一括している。またギリシャ人の「人間中心」の世界と旧約聖書の「全能の神」の世界を、新約聖書の否定的な山の概念をローマ人の砦としての山と共に比較対照する。絶壁の上に聳える修道院や聖アクナスの山を挙げて、創世記の世界観から抜け出せない「陽の落ちる領域」の自然観を、ルネッサンス以後の自然科学の発展と対置させる。ガリレオの望遠鏡による月の観察は、「発見」から「崇高」の概念への橋渡しでもあり、アルプス旅行の恐怖は「畏敬」となり、ダーウィンの「種の起源」で創世記を突き破った不可知論者に「新たなモラル」を与えたとする。

その発展の中で上述の「大陸の思想」は重要な原動力となっているのだろうが、「政治的・経済的な歴史で見れば、十八世紀後半は西ヨーロッパ(アメリカ合衆国を含む)では実質的な近代の始まりだった。千六百八十八-八十九年のイギリスの市民革命たる名誉革命に始まって、千七百七十六-八十三年のアメリカ独立革命、千七百八十九-九十九年のフランス革命…」と併記する事で、「近代」に正統的な角度から対峙して、このプロジェクトの入れ子のような構造に謂わば3D的な影を与えて、プレゼンテーションの為の有意義な視点の軸変換を行っている。

この解説の文中にアルピニスムと云う用語が用心深く使われていないのは、英語圏固有の言語文化以上に、こうした見解が根底にあるからだと認識出来るだろう。つまり、英国のアルパインクラブなどに使われる英国から大陸への遠征を指すグランツーリズムの「アルパイン」に代表されるような、大陸で指す「アルピニスム」との文化的相違がここで示唆されているのである。

先ずは、本書の紹介の目的で、解説を掻い摘んだが、其々の章にある短な紹介文と共に選択されて・引用された文献のその選択方法や基準だけでも更に充分に吟味していかなければならない。そのまた引用された文献自体にも訳者による注釈が付けられているので、僅か324頁のこの一冊の資料としての価値は高い。

このような、時系軸に添って並べられた山中での出来事に対して、様々な時代からの視野の投影を伴った引用を重ねてそれを更に引用した書籍は、読み始めるにあたって、前書きや紹介文が大変参考になるべきであった。しかし本書にはそれが存在しないので、ここに紹介した解説を最初に読まなければいけないであろう。なるほど左から頁を捲って行く英文学が基礎となっているのである。

充分に衒学的な紹介となったが、タペストリーを編んで行くように其々の美しい名文を読んで行けば良いだけなのである。しかしそれを容易にさせない文化史がここに存在して、本来ならばフィールドワークなどを必要とする分野において文献にこそ典拠を求める方法論自体に、その責任を転嫁して纏めとしたい。

またこの内容の逐一については、ここでの「アルピニスムの考察」の中で参考資料として新たに紹介して行く心算である。その際の第一節に来るような重要な問題定義がこの書の解説の最後の節にあるので引用する。

「….二十世紀中頃まではまだ支配的であった、人間が山を未知の要素として見たり、神秘のものとして見たりして、山を探るというような山と何か係わりをもちながら山に登るということはほとんどなくなった。その結果、山を称揚したり、山について深く省察するということは、今では少なくなり、そういう類の文もほとんどなくなったと言えそうな気がする。」。



参照:
煙と何かは高い所へ昇る [ 文学・思想 ] / 2006-01-22
木を見て森を見ず [ アウトドーア・環境 ] / 2006-01-28
慣れた無意識の運動 [ 雑感 ] / 2006-03-07
涅槃への道 [ 文学・思想 ] / 2004-11-23
コメント (2)
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