コスプレを楽しんだ。これの正体を全く知らなかったのだが、インタヴューや補足説明を聞いて幾らかは解って来た。マンガやアニメのキャラクターを肉体化して、演じるのは何も新しい事ではないと思うが、実写の月光仮面や忍者赤影のようなキャラクターを真似るのとセーラームーンやNANAを真似るのとは違う。これは結論のようになるが、これが重要な相違であるのを直感した。
さて、機会があったのでコンテストを観戦して、その前から会場近くの路上をコスチュームで闊歩して、会場の中庭で振りを合わせるティーンエイジャーを観ていると、どうしてももう少しその心理を知りたくなった。ミドル・ティーンを中心にロウティーンから子供連れの若いお母さんまでがコンテストに参加していた。
「天上天下」、「ちょびっツ」、ちぃ、ユズキなどなど、先ずはインタヴューして、未知のタームから、一体コスプレとは何なのかと云う疑問から少しずつ解いていく。何故ならばキャラクターさえ違えばカーニヴァルの仮装とあまりかわらないからである。
各々のキャラクターへの関心を除いて、最も違うのは何だろうかと考えても、なかなか特定し難い。強いて云えば、欧州のカーニヴァルの場合は冬季に近いので、遥かに肌の露出が少ない事と主役となる世代が違う事だろうか。しかしこれも、アニメの実体を見れば、学生ユニフォーム張りの服装や極端なミニスカート、パンクファッションに至らない革の衣装など、オリジナルのキャラクターに忠実なのが理解出来る。つまり演じたり歌ったりする内容を、コスプレの特徴とする事は出来ない。内容に付いて語るならばティーンエイジャーの娯楽としてのアニメの質を批評すべきものなのである。
面白かったのは、こう云う人気キャラクターの衣装などは販売されてもいるのだが、自分で絵から掘り起こして、材料を集め、衣装を作ってしまう能動的な行ないである。これはどうもカーニヴァルの安易な衣装に比べて、作る楽しみなどが満載されている。何しろ、文字通り絵に描いたキャラクターを肉体化させるという点では感心する。
一人の女の子は、「自分はオタクでない」と話してくれた。自分で裁縫して、着るまでに勇気が要って、半年ほどは箪笥に眠っていた事、何回かあるコンテストに出場するが、パーティーとかにはコスプレで出ない事など、歌や芝居もある程度はプレーに含めれる事など本人なりの弁えを語ってくれた。
もう一つのグループは、舞台での構成なども大変優れていて感心したが、キャラクターも自分らのオリジナルなものを加えていて、出番前に何度も型を稽古していた。彼女らにするとコスプレの衣装などは只の意匠で、彼女らは本質的に演じる事を楽しんでいる。
コスプレを演じる少年少女達は一部の極端な層とする見方も強いが、コンテストに集まったような彼ら彼女らは自己表現意欲が強い若者と見做すのが正しい。だからこそ、余計にアニメの影響は無視出来ない。特にユニホーム状のファッションが無意識の内に受け入れられて、嘗てTV番組であったような「権威への服従」の憧れのようなものが蔓延するとすれば害でしかない。反対に、子供達の批判精神のようなものを充分に育成していく必要も感じる。現にファッションセンスへの影響に教育的配慮したアニメもあるそうだ。
これも重要なインターナショナルな媒体とすると、そのアニメの質を社会が充分に議論して行く必要性を強く感じた。コスプレの能動性を評価するだけでなく、ネットの能動性同様、何事にも能動的に対処すべきである。
参照:原理主義のアンチテーゼ [ 文化一般 ] / 2005-09-25
さて、機会があったのでコンテストを観戦して、その前から会場近くの路上をコスチュームで闊歩して、会場の中庭で振りを合わせるティーンエイジャーを観ていると、どうしてももう少しその心理を知りたくなった。ミドル・ティーンを中心にロウティーンから子供連れの若いお母さんまでがコンテストに参加していた。
「天上天下」、「ちょびっツ」、ちぃ、ユズキなどなど、先ずはインタヴューして、未知のタームから、一体コスプレとは何なのかと云う疑問から少しずつ解いていく。何故ならばキャラクターさえ違えばカーニヴァルの仮装とあまりかわらないからである。
各々のキャラクターへの関心を除いて、最も違うのは何だろうかと考えても、なかなか特定し難い。強いて云えば、欧州のカーニヴァルの場合は冬季に近いので、遥かに肌の露出が少ない事と主役となる世代が違う事だろうか。しかしこれも、アニメの実体を見れば、学生ユニフォーム張りの服装や極端なミニスカート、パンクファッションに至らない革の衣装など、オリジナルのキャラクターに忠実なのが理解出来る。つまり演じたり歌ったりする内容を、コスプレの特徴とする事は出来ない。内容に付いて語るならばティーンエイジャーの娯楽としてのアニメの質を批評すべきものなのである。
面白かったのは、こう云う人気キャラクターの衣装などは販売されてもいるのだが、自分で絵から掘り起こして、材料を集め、衣装を作ってしまう能動的な行ないである。これはどうもカーニヴァルの安易な衣装に比べて、作る楽しみなどが満載されている。何しろ、文字通り絵に描いたキャラクターを肉体化させるという点では感心する。
一人の女の子は、「自分はオタクでない」と話してくれた。自分で裁縫して、着るまでに勇気が要って、半年ほどは箪笥に眠っていた事、何回かあるコンテストに出場するが、パーティーとかにはコスプレで出ない事など、歌や芝居もある程度はプレーに含めれる事など本人なりの弁えを語ってくれた。
もう一つのグループは、舞台での構成なども大変優れていて感心したが、キャラクターも自分らのオリジナルなものを加えていて、出番前に何度も型を稽古していた。彼女らにするとコスプレの衣装などは只の意匠で、彼女らは本質的に演じる事を楽しんでいる。
コスプレを演じる少年少女達は一部の極端な層とする見方も強いが、コンテストに集まったような彼ら彼女らは自己表現意欲が強い若者と見做すのが正しい。だからこそ、余計にアニメの影響は無視出来ない。特にユニホーム状のファッションが無意識の内に受け入れられて、嘗てTV番組であったような「権威への服従」の憧れのようなものが蔓延するとすれば害でしかない。反対に、子供達の批判精神のようなものを充分に育成していく必要も感じる。現にファッションセンスへの影響に教育的配慮したアニメもあるそうだ。
これも重要なインターナショナルな媒体とすると、そのアニメの質を社会が充分に議論して行く必要性を強く感じた。コスプレの能動性を評価するだけでなく、ネットの能動性同様、何事にも能動的に対処すべきである。
参照:原理主義のアンチテーゼ [ 文化一般 ] / 2005-09-25