ワールドカップドイツ大会フィナーレから一夜明けた。イタリアの勝利に対して、フランスの敗北。中でも特にジダンの暴力退場に、真夏の暑いブルーマンディーに胸のわだかまりの様なものを感じた人は多いのではないか?
フランツ・ベッケンバウワーは、「フランス人は人一番センシブルだから、キャプテンを探しても何処にも居ない事で、ジダンの退場はチームを弱体化させた。」と試合直後独第一放送の中継スタジオで語っていた。
チームの構成やリーダーシップ、そしてここまで持ち上げてきたモティヴェーションを指して言ったのだが、こうした精神的な様相が今回の大会の随所に散見された見所ではなかったかと思う。勿論スポーツとしての技術・体力などの秀逸を前提としている。
そしてこの精神的な様相は、其々の勝敗を左右する決定的なシーンで、良く観察すればするほど通常考える以上に大きな要素となっている事に気がついたであろう。
その点からしてもジダンの活躍は、その経験や才能と言うだけでなくて、我々観ているものに大きな感動を与える精神的強靭に飾られていたと言ってもよい。ライプチッヒで行われた試合で、ドアを蹴り壊したとか、それを保存するとかの豪傑なエピソードとして語られた。
それだからこそ、こうした終焉はなんとも受け入れがたい。ベッケンバウワーは、ジダンを評して、「彼は控えめで、無邪気な人間だから、マテラッツィがなんか彼に言ったに違いない。」と続けた。そして、「これで観られなくなると非常に残念でたまらないからバイエルン・ミュンヘンに招聘したい。」と慰めた。
それでもどうしても理解しがたいのが、あれほどまでに自信に溢れ、冷静さを保った人間が、暴力行為と言う蛮行に出てしまった事でしかない。この二つは、人間の能力を測る時に、肯定的に働くか、否定的に発散されるかの同じエネルギーに他ならないからである。
今回の大会では、既に触れたように、試合後にヴィデオ判定されることが真実となり、今回の最終戦では審判の見落としがヴィデオによる判定となったことの意味は大きい。ヴィデオなどの物的証拠が審判や観衆の目よりも尊重される訳には簡単にいかない事も、永遠のテーマなのである。スポーツを遥かに超えて、報道をも超えて、これは人間の認知の問題でもある。
さて、事の真相は分からないが英ガーディアン紙が伝えるとする、テロリスト呼ばわりしたと言うのも滑稽な憶測と言うしかない。なぜならば、ジダンをイスラム原理主義者と呼んでも何の真相みが無いばかりか、冗談にもならないからである。ムスリムの青少年たちの鑑となってフランス共和国にジダン効果を齎した選手である。こうした言動が如何に教養の無いサッカー選手と言っても出てくる筈が無いのではないだろうか。ジダンが如何なる宗教感や世界観を持とうが、それは極プライヴェートなものであって、彼が宗教家で無い限りそれを主張することも詮索する事も大きな誤りである。
そしてブッシュ政権による反テロリストキャンペーンにおいて、こうした伝統への悪影響を恐れたフランス共和国であったことも決して忘れてはいけない。
また、人種差別的な発言があるとすれば、それは直前に交代したアンリ選手へのものだったかもしれない。もし、イタリア人得意の悪知恵が働いて、挑発しようとするならば、相手の身近にいる者を嘲笑すれば事足りる。これは、大会にイタリアチームによっても宣言されていたような宣誓に反するので、ありえないだろうし信じたくもない推測である。
こうして書き出して行くと、胸のつかえの原因が明白になってきた。どうも昨日述べたようにジダンと言う選手の存在は、結局はフランス共和国の一部であり、間髪入れずにシラク大統領がジダンを支持した姿勢にもそれが表れている。
共和国の統一と言う非常に繊細な問題に対して、予想される諸外国からの無配慮な憶測や好奇な眼に対する不快感が淀みとして心理的に影響しているような気がした。
FAZでの「イタリアは優勝に値するか?」へのネットアンケート調査結果は面白い。39%の「値しない、輝きの無い勝利。」が一位、二位には「値しない。フランスがゲームを決めた。」の25%、三位に15%で「値する。優秀な守備と強靭な神経。」、四位に16%が「値する。最強のドイツを破ったから。」、最後に「ジダンのファールでフランスは勝つことは許されなかった。」に5%の回答と、全8200票からの集計である。
フランツ・ベッケンバウワーは、「フランス人は人一番センシブルだから、キャプテンを探しても何処にも居ない事で、ジダンの退場はチームを弱体化させた。」と試合直後独第一放送の中継スタジオで語っていた。
チームの構成やリーダーシップ、そしてここまで持ち上げてきたモティヴェーションを指して言ったのだが、こうした精神的な様相が今回の大会の随所に散見された見所ではなかったかと思う。勿論スポーツとしての技術・体力などの秀逸を前提としている。
そしてこの精神的な様相は、其々の勝敗を左右する決定的なシーンで、良く観察すればするほど通常考える以上に大きな要素となっている事に気がついたであろう。
その点からしてもジダンの活躍は、その経験や才能と言うだけでなくて、我々観ているものに大きな感動を与える精神的強靭に飾られていたと言ってもよい。ライプチッヒで行われた試合で、ドアを蹴り壊したとか、それを保存するとかの豪傑なエピソードとして語られた。
それだからこそ、こうした終焉はなんとも受け入れがたい。ベッケンバウワーは、ジダンを評して、「彼は控えめで、無邪気な人間だから、マテラッツィがなんか彼に言ったに違いない。」と続けた。そして、「これで観られなくなると非常に残念でたまらないからバイエルン・ミュンヘンに招聘したい。」と慰めた。
それでもどうしても理解しがたいのが、あれほどまでに自信に溢れ、冷静さを保った人間が、暴力行為と言う蛮行に出てしまった事でしかない。この二つは、人間の能力を測る時に、肯定的に働くか、否定的に発散されるかの同じエネルギーに他ならないからである。
今回の大会では、既に触れたように、試合後にヴィデオ判定されることが真実となり、今回の最終戦では審判の見落としがヴィデオによる判定となったことの意味は大きい。ヴィデオなどの物的証拠が審判や観衆の目よりも尊重される訳には簡単にいかない事も、永遠のテーマなのである。スポーツを遥かに超えて、報道をも超えて、これは人間の認知の問題でもある。
さて、事の真相は分からないが英ガーディアン紙が伝えるとする、テロリスト呼ばわりしたと言うのも滑稽な憶測と言うしかない。なぜならば、ジダンをイスラム原理主義者と呼んでも何の真相みが無いばかりか、冗談にもならないからである。ムスリムの青少年たちの鑑となってフランス共和国にジダン効果を齎した選手である。こうした言動が如何に教養の無いサッカー選手と言っても出てくる筈が無いのではないだろうか。ジダンが如何なる宗教感や世界観を持とうが、それは極プライヴェートなものであって、彼が宗教家で無い限りそれを主張することも詮索する事も大きな誤りである。
そしてブッシュ政権による反テロリストキャンペーンにおいて、こうした伝統への悪影響を恐れたフランス共和国であったことも決して忘れてはいけない。
また、人種差別的な発言があるとすれば、それは直前に交代したアンリ選手へのものだったかもしれない。もし、イタリア人得意の悪知恵が働いて、挑発しようとするならば、相手の身近にいる者を嘲笑すれば事足りる。これは、大会にイタリアチームによっても宣言されていたような宣誓に反するので、ありえないだろうし信じたくもない推測である。
こうして書き出して行くと、胸のつかえの原因が明白になってきた。どうも昨日述べたようにジダンと言う選手の存在は、結局はフランス共和国の一部であり、間髪入れずにシラク大統領がジダンを支持した姿勢にもそれが表れている。
共和国の統一と言う非常に繊細な問題に対して、予想される諸外国からの無配慮な憶測や好奇な眼に対する不快感が淀みとして心理的に影響しているような気がした。
FAZでの「イタリアは優勝に値するか?」へのネットアンケート調査結果は面白い。39%の「値しない、輝きの無い勝利。」が一位、二位には「値しない。フランスがゲームを決めた。」の25%、三位に15%で「値する。優秀な守備と強靭な神経。」、四位に16%が「値する。最強のドイツを破ったから。」、最後に「ジダンのファールでフランスは勝つことは許されなかった。」に5%の回答と、全8200票からの集計である。