Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

鈍器でドンの音の密度

2022-01-16 | 
ベルリンからの中継を観た。アスミク・グリゴーリアンの独唱部は限られるが、それでも満足した。出かけていても満足だったろう。しかしこの生中継で必要なことは殆ど得られた。

先ずはグリゴーリアンの生の声を知っていれば、その声がフィルハーモニーでどのように通っているかはよく分かる。最後にペトレンコが天井桟敷の喝采を覗いてそれを確かめていたのに違いない。声を抑えて殆どもぞもぞ発声しているときにもどれほど聴こえるか、これは生で聴くまではなかなか想像がつかない。そこで彼女の発声と身体から鳴っているのを確認するだけなのである。少なくとも私が聴いた大歌手でこのような発声が出来る人は知らない。フレーニでもジェシー・ノーマンでもこのようには鳴らない。これだけでも世紀のソプラノなのである。

同時にベルリナーフィルハーモニカーの音響もペトレンコ指揮で何回か経験していれば今回の鳴りがまさしく「悲愴」から一歩一歩作ってきたその音響だと分かると思う。完全に鳴り切っていて、それでいてフォンカラヤン時代のような鈍重さはなくどこまでも繊細に鳴る反面、音の密度の高さは圧倒的で、鈍器でドンと頭蓋骨に当てられる質量感がある。まさしくこの演奏の為に時間を掛けて作ってきた様な音響だった。そしてそれが声にぴったりと寄り添うのはフィナーレの合唱を聴けば納得するだろう。

初日の絶賛の批評でも、静かに始まって最後に静まるアーチ状の構造なんてあったのだが、どうして最後の盛り上がりの素晴らしいこと。舞台上演でなくても感動した。そしてその重唱の中でも通るグリゴーリアンの声で、復活祭の「スペードの女王」の上演であのフォンカラヤンが為しえなかったスーパーオペラの実現が近づいてきたと確信した。

準備のためにバーデンバーデンでのネトレブコ主演のペテルスブルクの劇場の巡業公演のヴィデオをを流した。指揮は親分のゲルギーエフで、この領域では第一人者である。しかし音楽の芯を支えているのはネトレブコだと思った。ゲルギーエフは劇場経験も長い分独自の上演のコツを得ているようで、練習を殆んどしないでも纏めてしまうノウハウがあるのだろう。それでも音楽自体はネトレブコがしっかり歌っているものだから骨組みがしっかりしているようでものになっている。彼女は、若い時からドラマティックな声で、先ごろのミラノでのマクベス夫人同様に、このイオランテ役も声に合っていないかもしれない。しかしそ歌唱技能は一晩の公演を支えるだけの骨太のもので、流石に金の取れる歌手である。もしこの声がなければよれよれの指揮ではやはり90分ほどの短いオペラでも何が何だか分からなくなる。

我々世代は大宅政子のお陰でロシアオペラに散々退屈な経験をしたのだが、ゲルギーエフのオペラはその流れを汲んでいる。あまりにもオペラのドラマを作ろうとしてデフォルメが激しく拍節が更によれよれになっていて、全くヴェクトルがなくなりそうになる。多くのオペラファンがロシアのオペラはそうしたものと考えている典型の一寸高品質版であって、盛り上がりがあって拍手するバーデンバーデンの聴衆がおたんこなすにしか思えない。

復活祭の「スペードの女王」はスーパーオペラの開花であると同時にロシアオペラのルネッサンスになると思う。キリル・ペトレンコが自らいいと思う演出にも期待したい。



参照:
オミクロンの格安感 2022-01-15 | 料理
輝かしい満天の星 2022-01-14 | マスメディア批評
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