半年ぶりに走れなかった。九月はコロナ.2にやられて発疹が出ていたころだ。それ以降は週に最低10キロメートル、高度差1000メートルをこなしていたが、今回は駄目かもしれない。腰のぎっくり腰も効いたが、微熱感がいけない。無理すると心臓にでも炎症が起きそうだ。症状は軽く安静にしていれば中々気が付かないが、既に一週間寒気があるので、オミクロンにその頃に罹ったに違いない。殆ど可能性がなかったので如何に空気感染力が強いかということかもしれない。但し裸で走っていたので風邪を引いても不思議ではないのだが、コロナ禍以降全くそのようなことがなかった。空咳などもおかしい。
兎に角、今週の病院の状況などによれば脱コロナの工程表が明白になる筈だ。保健相も心配事に絡んで、今後は接種に関してアドヴァイスを発信しないとしていて、五月以降に話が、秋からの予防へと目標が移ってきた。要するにオミクロンに関してはもはや接種の有無は関係ない。その一方来週月曜日の改正ではブースターをしていなければ生きていけなくするとして、接種義務とは三本を指すと前夜に話していた。刻々と状況は変わって来て、科学的にあまり意味のないブースターよりも目的に合わせた接種を勧めていくということのようである。更に一般的接種義務からは遠ざかった。英国は今後あらゆるコロナによる隔離を撤廃する方向に動き出した。余程医療システムにゆるぎない自信があるのだろう。
なるほど上の様な風邪症状も一部の健康弱者にとっては命取りになる可能性があるが、少なくとも基本免疫を獲得している向きには軽い風邪症状でしかない。なるほど微熱が続くのはおかしいと思うのだが、無理をしていたら容易に治らないのも風邪である。ロベルト・コッホ研究所は、罹患証明の有効期限を三か月にすると発表した。オミクロンの接種期間を三か月に短縮した時から予想された短縮である。ある種の人にはそれを以て注意を促し警告するのは責任ある当局の立場でもあろう。
デジタルコンサートホールの一週間券があるので、まだハイレゾでは流していないものをどんどんとBGMで流していく。もう一度一週間券を使うので今回はロシアものを中心にさらっていった。週末の「イオランテ」で各紙絶賛しているのはフィナーレのフォルテの天井まで響き渡る管弦楽の豊饒さである。これを例えば日本で最も人気のあるスクリャビンの交響曲を客演でペトレンコが棒無しで指揮するものと比較するとよい。その時の鳴り方はどんなに軽く底が浅いかが分かる。あれがラトル音楽監督時代のベルリナーフィルハーモニカーだった。全く別団体と言っても構わないほどの鳴りの違いである。それでいてカラヤン時代のような鈍重ではなくどこまでも運動性が高い。
昨年冬のチャイコフスキープログラムなども無観客ながら今聴き直すと今回の成果が帰納される。それが分かり難いのも無観客でどうしても乗らないからだ。この間の流れを実演で追っていると、ハイレゾの音響で振り返る形で実感が可能となる。
ドイツの批評ではオペラ云々との差異を書く者は流石になくなってきたが、ライヴにおける感興というのはそれはオペラでも演奏会でも同じで、相違は具象性と抽象性であって、それだけ上質の観客が必要とされるというだけの差である。
復活祭で明らかな新たな時代の幕開けとなるのだが、その後の関心事は翌年の「影の無い女」に向けての新たな歩みだと思う。特にリヒャルト・シュトラウスやエロイカなどが今週の米国ツアーにマーラーの七番などと共に準備されるとすれば、やはり楽器配置をどこで独伝統型に戻すのか、そしてその音響はとなってくる。
参照:
鈍器でドンの音の密度 2022-01-16 | 音
健気に霜月を待つ七夕 2021-07-09 | 暦
兎に角、今週の病院の状況などによれば脱コロナの工程表が明白になる筈だ。保健相も心配事に絡んで、今後は接種に関してアドヴァイスを発信しないとしていて、五月以降に話が、秋からの予防へと目標が移ってきた。要するにオミクロンに関してはもはや接種の有無は関係ない。その一方来週月曜日の改正ではブースターをしていなければ生きていけなくするとして、接種義務とは三本を指すと前夜に話していた。刻々と状況は変わって来て、科学的にあまり意味のないブースターよりも目的に合わせた接種を勧めていくということのようである。更に一般的接種義務からは遠ざかった。英国は今後あらゆるコロナによる隔離を撤廃する方向に動き出した。余程医療システムにゆるぎない自信があるのだろう。
なるほど上の様な風邪症状も一部の健康弱者にとっては命取りになる可能性があるが、少なくとも基本免疫を獲得している向きには軽い風邪症状でしかない。なるほど微熱が続くのはおかしいと思うのだが、無理をしていたら容易に治らないのも風邪である。ロベルト・コッホ研究所は、罹患証明の有効期限を三か月にすると発表した。オミクロンの接種期間を三か月に短縮した時から予想された短縮である。ある種の人にはそれを以て注意を促し警告するのは責任ある当局の立場でもあろう。
デジタルコンサートホールの一週間券があるので、まだハイレゾでは流していないものをどんどんとBGMで流していく。もう一度一週間券を使うので今回はロシアものを中心にさらっていった。週末の「イオランテ」で各紙絶賛しているのはフィナーレのフォルテの天井まで響き渡る管弦楽の豊饒さである。これを例えば日本で最も人気のあるスクリャビンの交響曲を客演でペトレンコが棒無しで指揮するものと比較するとよい。その時の鳴り方はどんなに軽く底が浅いかが分かる。あれがラトル音楽監督時代のベルリナーフィルハーモニカーだった。全く別団体と言っても構わないほどの鳴りの違いである。それでいてカラヤン時代のような鈍重ではなくどこまでも運動性が高い。
昨年冬のチャイコフスキープログラムなども無観客ながら今聴き直すと今回の成果が帰納される。それが分かり難いのも無観客でどうしても乗らないからだ。この間の流れを実演で追っていると、ハイレゾの音響で振り返る形で実感が可能となる。
ドイツの批評ではオペラ云々との差異を書く者は流石になくなってきたが、ライヴにおける感興というのはそれはオペラでも演奏会でも同じで、相違は具象性と抽象性であって、それだけ上質の観客が必要とされるというだけの差である。
復活祭で明らかな新たな時代の幕開けとなるのだが、その後の関心事は翌年の「影の無い女」に向けての新たな歩みだと思う。特にリヒャルト・シュトラウスやエロイカなどが今週の米国ツアーにマーラーの七番などと共に準備されるとすれば、やはり楽器配置をどこで独伝統型に戻すのか、そしてその音響はとなってくる。
参照:
鈍器でドンの音の密度 2022-01-16 | 音
健気に霜月を待つ七夕 2021-07-09 | 暦