(承前)エアル音楽祭でのブラームスのツィクルスがフランクフルターアルゲマイネ紙で評じられた。開催時間変更を余儀なくしたショーソンのオペラと音楽祭自体の紹介と三等分弱の記事であるが、通常は演奏会はこの新聞では取り上げられない。1月にペトレンコが第二交響曲を振っても報じられない、ブラームスツィクルスはガーディナー指揮の其れしか記憶にない。しかし最終日の交響曲四番には触れられていないので筆者も私と同じように翌日はザルツブルクへと回ったか。
幾らかは広報にも寄与した自負はあるが、フランクフルトの支配人が音楽監督であるとか様々な事情もあって、そしてもしかするとバイロイトへデビューも内々に出ているのかもしれない。
さてその批評を先ずは読む。そのあとにより詳細を付け加えれば、その演奏内容を報告できることになるのではないか。
引用始め:
中略。ショーソンとは異なりブラームスはしばしば腑分けされ、引き出しに整理されている、当然の事ながら、あらゆる重要な芸術においては、それは勘違いであるのを兎も角認識すべきである。全くを以て、その意味において指揮者ティテュス・エンゲルとカメラータザルツブルクとの協調を聴く。その中心には、北ドイツ人の四つの交響曲が合唱交響曲部類との烙印が捺されている。同時代音楽の秀逸なプレパラートの作成者であり紹介者であり、同時により多くの従来の世紀のレパートリーへと参入しているエンゲルは、当然、隅から隅まで何千回も繰り返された様な作品に於いて容易に流す筈はなく、四日間に全曲を通すという機会を利用して、それら独自の精神的、音響的なアトモスフェアーを各々対峙させる。
最初に持ってくるという方法で、交響曲一番の荒ぶりをまるで歯を食いしばったように一息で、救いようのないから徒労迄を、しかしそこでは目標が定まり苦悩の祭典とはしない。三交響曲の重ねられたアコードのアウフタクトを全体の動きに於いて、高木が揺れ動く様のように若しくは波の砕波の様相を示すことになるのは、各声部が分析的にその主張が透明に描かれ、テムピが自在に息づきながら流されるからであり、贅肉の無いしばしば殆ど菜食的に、憧憬に満ちたオーボエやクラリネット、ホルンソロによって繰り返し重ねられるからである。
この演奏実践にあたって、指揮者は晩年のブラームスによるマイニンゲンでの演奏実践の資料を調べた。その耳に知覚可能な室内楽的な伝統は、三十人にも至らない弦楽陣での活き活きとした透明性だけではなくて、濁って渦巻くよりも寧ろ軽く終わる交響曲二番のフィナーレでのまるでエリカの薫る夏の風の雰囲気と、それとは全然異なる三交響曲のアンダンテの渋く美しく夢見る心地を想定を超えて近づけた。一時たりとも発見の無い所がない、最高級に快適な聴学習だった。
引用終わり。(続く)
参照:
Heidekrautmusik in den Tiroler Alpen, GERALD FELBER, FAZ vom 3.8.2022
オペラ賞ノミネート推薦 2022-08-04 | 文化一般
ムード溢れる環境 2022-07-29 | 音
幾らかは広報にも寄与した自負はあるが、フランクフルトの支配人が音楽監督であるとか様々な事情もあって、そしてもしかするとバイロイトへデビューも内々に出ているのかもしれない。
さてその批評を先ずは読む。そのあとにより詳細を付け加えれば、その演奏内容を報告できることになるのではないか。
引用始め:
中略。ショーソンとは異なりブラームスはしばしば腑分けされ、引き出しに整理されている、当然の事ながら、あらゆる重要な芸術においては、それは勘違いであるのを兎も角認識すべきである。全くを以て、その意味において指揮者ティテュス・エンゲルとカメラータザルツブルクとの協調を聴く。その中心には、北ドイツ人の四つの交響曲が合唱交響曲部類との烙印が捺されている。同時代音楽の秀逸なプレパラートの作成者であり紹介者であり、同時により多くの従来の世紀のレパートリーへと参入しているエンゲルは、当然、隅から隅まで何千回も繰り返された様な作品に於いて容易に流す筈はなく、四日間に全曲を通すという機会を利用して、それら独自の精神的、音響的なアトモスフェアーを各々対峙させる。
最初に持ってくるという方法で、交響曲一番の荒ぶりをまるで歯を食いしばったように一息で、救いようのないから徒労迄を、しかしそこでは目標が定まり苦悩の祭典とはしない。三交響曲の重ねられたアコードのアウフタクトを全体の動きに於いて、高木が揺れ動く様のように若しくは波の砕波の様相を示すことになるのは、各声部が分析的にその主張が透明に描かれ、テムピが自在に息づきながら流されるからであり、贅肉の無いしばしば殆ど菜食的に、憧憬に満ちたオーボエやクラリネット、ホルンソロによって繰り返し重ねられるからである。
この演奏実践にあたって、指揮者は晩年のブラームスによるマイニンゲンでの演奏実践の資料を調べた。その耳に知覚可能な室内楽的な伝統は、三十人にも至らない弦楽陣での活き活きとした透明性だけではなくて、濁って渦巻くよりも寧ろ軽く終わる交響曲二番のフィナーレでのまるでエリカの薫る夏の風の雰囲気と、それとは全然異なる三交響曲のアンダンテの渋く美しく夢見る心地を想定を超えて近づけた。一時たりとも発見の無い所がない、最高級に快適な聴学習だった。
引用終わり。(続く)
参照:
Heidekrautmusik in den Tiroler Alpen, GERALD FELBER, FAZ vom 3.8.2022
オペラ賞ノミネート推薦 2022-08-04 | 文化一般
ムード溢れる環境 2022-07-29 | 音