Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

塗り潰されていた感興

2022-08-10 | 
承前)所謂名曲をあまり耳にすることはない。耳にタコが出来てしまうからだ。それでもここぞという時に機会を逃さないようにはしている。最近では半世紀ぶりぐらいの「運命」交響曲があった。その他「悲愴」交響曲とかそういう愛称が付いているような大名曲は大演奏でしか聴かないようにしている。既に決定版的な演奏が録音されていたり過去に定評がある演奏が存在して、それ以上のものが期待できないからだ。

それでもそんな機会があれば新たな出合いとなって、今迄の意識が覆されるような体験に繋がる。名曲とされるにはそれだけの内容がある。だから新聞評は楽しい聴学習が可能となったとしたが、なにも会場の周りの環境が素晴らしいからではない。

そして記者が伝えた核心の様に交響曲二番ニ長調の特にフィナーレが快活に晴れやかに終わって休憩に入った。そのトロンボーンら金管の掛け合いが上手く嵌まった時に会場の鼓動は一気に高まった。同時にそれが決して轟とはなっていないのが素晴らしいとしていたのだが、その背景には指揮者エンゲルのテムポ設定と同時に上手さが開花していた。それは会場の聴衆にも分かり、それがフィードバックした。その様な瞬間は交響曲演奏会でもそれ程経験していない。同様な例は昨年のフランクフルト「サロメ」再演公演でも後半に入ると一瞬に空気感が変わったのを感じた。

そして後半に交響曲三番ヘ長調を持ってくる。全ての楽章が静かに終わる異例の交響曲である。だからこの曲で演奏会が終わるのは珍しいと思う。しかし違和感がなかった。

先ずは一楽章の「ライン」のテーマも若しくは雷の動機とされるもので、そしてそれに続く動機の扱いが味噌だったのだ。第二主題の三拍子系のヴィーナー調は明確なのだが、そこへの繋がりである。それによって最初の英雄的な色合いが去勢されると同時にコントラストとなる。

ここがシュタインバッハのコメンタールにも書いてある様にブレヒテスガルテンのヨーデルとして、それは丁度第一交響曲の終楽章のアルペンホルンの様に作曲者自らが採譜したようで、ドルツェへのつまり続く里への流れへと通常は不明確に演奏されていると思う。この交響曲はラインに近いヴィ―スバーデンに1883年5月からの滞在中に作曲されている。そして有名な三楽章の落葉感はまさしくそこの秋の風情である。

この交響曲の二楽章アンダンテの長短調への揺れ動きや半音階的な進行が、新聞評で交響曲二番の終楽章と比較されたように、方々で鳥が囀り、大気の揺れがその断章が美しく靡く。

至る所でエピソードのような上昇動機のウィットが華を咲かせるのは、リズム的な精査とそこからのアーティキュレーションに配慮することでのみ音化されるからだ。特にこの楽章に拘わらないのではあるが、ブラームスに於けるムードの多様性と変化は我々が知っている、恐らく「ブラームスがお好き」的なものより遥かに精妙で多様ではないか。

そのような事をブラ―ムス厳選の中欧における風光明媚な自然の中でのスケッチのその当時の創作に近づくことでより、より身近に感じるのではないかというのが、まさしく記者が言及した快い聴学習なのである。(続く



参照;
お品書きから推敲 2022-07-26 | 料理
ブラームスが歩いた風景 2022-04-24 | アウトドーア・環境
コメント
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