Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

プッチーニの純効果

2022-08-16 | 文化一般
承前)週末の生中継を堪能した。想定以上の出来だった。先ずはディレーの時間差も感じさせなかった。バイヤー監督以下が入念に準備していたのだろう。カメラのスイッチも見事だった。更に殆どドロップアウトもなく18時始まりの二回の20分の休憩を挟んで殆ど会場に出入りするように楽しめた。TVで感動することなども無くなったが、中継映像で引き込まれたのも珍らしい体験だった。

音響は舞台に近いメインのマイクロフォンの集音なのだろうが、会場にいるよりも反響が多く長くあった。恐らく扇の中心だからそうなるのだろう。演奏者が舞台の上と下で聴いている音に近いのだろう。結構ジューシーなのだ。その音で思い起こしたのはカラヤンが振っていたころのザルツブルクからの中継だ。

指揮者のヴェルサーメストも晩年のカラヤンの練習を備に見ていて沢山の事を盗んでいる。彼が素晴らしいオペラ指揮者になって愈々ザルツブルクにおいて中心的な指揮者になってきたことを示す指揮であった。勿論昨今のエンゲル指揮などの活動も観測しているには違いないのだが、ヴィーナーフィルハーモニカーの力を出し切ってここまでの舞台とその効果を出してくるとは、先の「エレクトラ」でもその前の「サロメ」でもなかった。その背景には様々な要因があるのだろうが、プッチーニとリヒャルトシュトラウスを履き違いしているという批判とは正反対で、まさしくここに来てアスミク・グリゴーリアンとの協調の果実がこの効果だったとしても然程違わないであろう。

「私の愛しいお父さん」でまたしても泣かされてしまった。その朴訥な印象の娘の衣装もいいのだが、その表情や演技にも益して、歌がその心情を余すことなく表し、管弦楽がまさしくカラヤン指揮ばかりにつける。そそもそもこの歌自体はとても有名なのだが、演出によっては様々な色付けが可能である。例えば2017年のミュンヘンでは、親父を騙す娘の演技として歌われた。ローザ・フェオーラのその敢えて作り物の心情とした歌唱もペトレンコの指揮と共に見事であったが、今回の演出ではその真摯な娘心こそが三部作を繋ぐ。それをどのようにそこで表現するかの芸術なのだ。

舞台芸術のまたはオペラの神髄はそうした心情を表現して伝えることに意味があって、それをどれだけ見事に効果的に表現できるかが芸術家の音楽家の仕事である。誰かが書いていたが、グレゴリアンの歌声は平素は音楽やオペラなどには無関係な人の心も打つ力があるとされている。芸術が広く社会に影響を与えるとすればそういうことを指すのであって、市場が大きいから影響力が大きいというのは本末転倒なのである。

上の歌の拍手の呼吸からして、明らかにこの中盤のハイライトにおいてその聴衆の質が落ちるかは分かった。やはり間が違うのである。会場のそれがフィードバックすることで劇場空間が芸術が形成される。今更断ることもないであろうが、無観客公演中継として全ての人がその差を如実に感じたコロナ禍下の公演の数々だったのだ。

プッチーニのオペラがそうした大衆性に負っているとか今でも絶えない議論である。それゆえに反面教師的な上の批判でもあったのだろう。しかしそれゆえに今日劇場にてプッチーニのオペラが本当に心を揺さぶったりするような効果を上げるのは難しいということにもなる。(続く)


ロシアのサイトのコピーから:「私の愛しいお父さん



参照:
ミラノの紅白歌合戦 2020-12-09 | 女
百年祭記念の映像制作品 2021-02-25 | 音
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