(承前)ブラームスの交響曲三番は1883年に作曲初演された。その年の二月にヴァ―クナーがヴェニスで客死した。ブルックナーが推されたのはその後である。そのような時代背景であった。2007年にハムブルクで同じようにツィクルスを指揮したフォンドナーニのインタヴューと練習風景が残っている。
そこでもまさしく交響曲三番一楽章の動機の扱い方を念を入れて練習している。そのエンゲルの指揮が見事だった三和音の露払い動機から、同音進行の四分音動機が弦から木管へと、和声外音が挟まれる長短和声の移ろい感が全てだ。それがヨーデルとして吹かれ、そしてコントラプンクトの中で解決されるときにこの作品のそして恐らくブラームスの歴史的な評価へと繋がる。
木管に受け継がれると明らかに里社会的である。より具体的にはヴィーナーのユーゲントシュティールへのビーダ―マイヤー風となる。その通り弦の上に撥ねる音形、またはこれまた重要なA菅クラリネットの音形の必然性も生じてくる。つまり、シュタインバッハ若しくはブルーメのコメンタールにおいても明確にされていないコントラストとは、明らかに「ブレヒテスガルテンの雷」と「グリュンダーツァイト*の里」の対照だろう。ここがこの交響曲演奏の最大のポイントだと思う。そして移り行きの最も素晴らしいアンダンテと有名なポコアレグレットが「ファウスト」の情景としての草案であったとなると成程と思う。そしてそこに流れるウィットな表情と作られたロマンティズム。
来る復活祭ではハイドンの主題による変奏曲とシェーンベルクの変奏曲が並べて演奏されるが、今回のエンゲル指揮が示したものはまさにその歴史的な音楽であった。だから上でもフォンドナーニの語る二番と三番の繋がり、そしてヴァ―クナーからシェーンベルクへと繋がるのである。
更に名指揮者は、文献を研究したりその当時の楽器を使ったりで音楽に迫ろうとしたら余計に分かり難くなるだろうとしている様に、エンゲルは実際的な判断で立奏を止めただけではなく、決してそうした耳に新しい響きを作ろうとしたのではないことは明らかだった。その傍証として例えば評価の高いフルトヴェングラーがその死の前の1954年にベルリンで指揮した録音がある。やはりそうした和声の繋がりとアーティキュレーションの明晰さはそこでも見事である。惜しむらくは耳が聞こえているときの録音ではないことだろうか。
キリル・ペトレンコがベルリナーフォルハ―モニカーとブラームスのツィクルスを始めているが、残念ながらフィルハーモニカーとマイニンゲンの伝統の折衷として成果を残せていない。その伝統がカラヤン時代以降の伝統であることはフルトヴェングラー指揮の録音の数々で明らかなのだ。要するにそのサウンドでしかないブラームスの演奏実践を指しているに過ぎない。ティテゥス・エンゲルの名曲レパートリーは限られたものでしかないが、悉く大成功をしている。カルロス・クライバー並みの準備をしているからに違いないのだが、勿論その活躍の場も限られている。しかし十年単位で見るならば、音楽劇場の場だけでなくこうした名曲演奏会においてもとてもユニークな位置で活躍していくことは明らかとなった。個人的にもまさか名曲の演奏を友人の指揮で聴くことになるとは考えもしなかった。(終わり)
*グリュンダーツァイト:ビーダ―マイヤーとユーゲントシュティルを繋ぐエポック
参照:
音楽劇場指揮者の実力 2022-08-01 | 文化一般
ムード溢れる環境 2022-07-29 | 音
そこでもまさしく交響曲三番一楽章の動機の扱い方を念を入れて練習している。そのエンゲルの指揮が見事だった三和音の露払い動機から、同音進行の四分音動機が弦から木管へと、和声外音が挟まれる長短和声の移ろい感が全てだ。それがヨーデルとして吹かれ、そしてコントラプンクトの中で解決されるときにこの作品のそして恐らくブラームスの歴史的な評価へと繋がる。
木管に受け継がれると明らかに里社会的である。より具体的にはヴィーナーのユーゲントシュティールへのビーダ―マイヤー風となる。その通り弦の上に撥ねる音形、またはこれまた重要なA菅クラリネットの音形の必然性も生じてくる。つまり、シュタインバッハ若しくはブルーメのコメンタールにおいても明確にされていないコントラストとは、明らかに「ブレヒテスガルテンの雷」と「グリュンダーツァイト*の里」の対照だろう。ここがこの交響曲演奏の最大のポイントだと思う。そして移り行きの最も素晴らしいアンダンテと有名なポコアレグレットが「ファウスト」の情景としての草案であったとなると成程と思う。そしてそこに流れるウィットな表情と作られたロマンティズム。
来る復活祭ではハイドンの主題による変奏曲とシェーンベルクの変奏曲が並べて演奏されるが、今回のエンゲル指揮が示したものはまさにその歴史的な音楽であった。だから上でもフォンドナーニの語る二番と三番の繋がり、そしてヴァ―クナーからシェーンベルクへと繋がるのである。
更に名指揮者は、文献を研究したりその当時の楽器を使ったりで音楽に迫ろうとしたら余計に分かり難くなるだろうとしている様に、エンゲルは実際的な判断で立奏を止めただけではなく、決してそうした耳に新しい響きを作ろうとしたのではないことは明らかだった。その傍証として例えば評価の高いフルトヴェングラーがその死の前の1954年にベルリンで指揮した録音がある。やはりそうした和声の繋がりとアーティキュレーションの明晰さはそこでも見事である。惜しむらくは耳が聞こえているときの録音ではないことだろうか。
キリル・ペトレンコがベルリナーフォルハ―モニカーとブラームスのツィクルスを始めているが、残念ながらフィルハーモニカーとマイニンゲンの伝統の折衷として成果を残せていない。その伝統がカラヤン時代以降の伝統であることはフルトヴェングラー指揮の録音の数々で明らかなのだ。要するにそのサウンドでしかないブラームスの演奏実践を指しているに過ぎない。ティテゥス・エンゲルの名曲レパートリーは限られたものでしかないが、悉く大成功をしている。カルロス・クライバー並みの準備をしているからに違いないのだが、勿論その活躍の場も限られている。しかし十年単位で見るならば、音楽劇場の場だけでなくこうした名曲演奏会においてもとてもユニークな位置で活躍していくことは明らかとなった。個人的にもまさか名曲の演奏を友人の指揮で聴くことになるとは考えもしなかった。(終わり)
*グリュンダーツァイト:ビーダ―マイヤーとユーゲントシュティルを繋ぐエポック
参照:
音楽劇場指揮者の実力 2022-08-01 | 文化一般
ムード溢れる環境 2022-07-29 | 音