Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

芸術を通した天才の共感

2022-08-26 | 文化一般
承前)華美なネオロココ景で描かれたチャイコフスキーの心象はモーツァルトを通して描かれる。モーツァルトの楽曲が歴史的に偉大な芸術として輝くのは、または天才作曲家の仕事として輝くのは、その内心の描き方である。取り分け評価される楽曲は、後期のオペラ作品とピアノ協奏曲である。とくに後者において天才作曲家の生涯がその心象風景として記録されている。その手紙でも有名な身辺への気遣いの社会の中での自身とその内面心理を対置させ乍ら、客観化から高度な芸術へと高めている。勿論チャイコフスキーが魅了されたのもその芸術性であったことが復活祭の制作によって明白になっていた。それゆえにこの作品がチャイコフスキーにおいて欠かすことが出来ない作品となっている。

言及した様に二幕に描かれているのは、弟のモデストによってテキスト化され劇中劇で描かれるのは、まさしく少年モーツァルトが大人の世界を見ながら自己の振る舞いを定めて行ったのと対応するかのように、バイセクシャルなチャイコフスキーにおいてはフェークな家庭環境があり、そうした虚構の社会に生きていたという客観が描かれている。そうした境遇にあるのが運命であるとするのはチャイコフスキーの一貫した芸術表現であった。

だから、指揮者のペトレンコが批判するように、お涙頂戴の西欧的なチャイコフスキー解釈ではその音楽表現の本質は描かれないとなるのは当然なのである。改めて悲愴交響曲の二楽章でどうしてあのような瀟洒なカフェーの笑いが描かれているのかなど幾つもの謎を解く鍵がここにある。

そこにはチャイコフスキーの天才モーツァルトに対するその芸術を通しての共感があるのだが、我々としてはここまで深堀りしているこれまた天才指揮者ペトレンコの共感のありかたがとても気になる所でもある。

ペトレンコの劇場指揮者としての力量は、その職人的と言われる才能と経験、教育から生じている実力は、万人が認める様に否定しようがない。同時に命題でもあったペトレンコ指揮のこうして実現化したスーパーオパーとしか名付けられないようなオペラを超えた音楽劇場表現をどのように評価するかである。世界的に評価を受けたミュンヘンの音楽監督としてのそこでの指揮活動での成功とその一方演出への不満など溢していたのを耳にするにあたって、今回のように音楽に徹底して対応して尚且つその内容を強化したり明晰化する舞台づくりが必要とされたということになる。謂わば理想の舞台化と音化がそこで目されていて、その舞台によって、劇場的な効果によってこそ初めて、今回の様にチャイコフスキーの芸術の心情へと直截に触れることになる。

オペラ作品はどの作曲家においても歌を伴うことから器楽における抽象的な表現とは異なる。その作曲家の独自の具象的で言語的な表現への理解に近づくことが可能となる。ただそこには作曲家特有の劇場表現法が存在する。それを如何にして音化して舞台表現と矛盾なくお互いに補えるようにするかということでしかない。

兎も角、チャイコフスキーの音楽をここまで深入りして読み込んで音化出来る人は他にいなかった。しかしこうした表現形態が一度示されると続いて来る人はいるに違いない。でもそこまで出来るのが天才であるから、今後もなかなか簡単には出ないだろう。(続く)



参照:
真正ハイカルチャー 2022-05-29 | 音
マイオーケストラとの日々 2022-05-03 | 暦
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