Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

作曲家の心象風景を表出

2022-08-22 | 文化一般
承前)二幕が起承転結の転となっている。まさしくこの幕がフェークであるネオロココの為に作品自体の価値をはかり難くしてある。なぜならばチャイコフスキーによるモーツァルトのパロディであるからだ。しかしそれに初公開された中継映像で更にその音楽的なハイライトをも確認した ― 祝祭劇場初の公共放送TV初の中継録画放映となるようで大きな宣伝効果に沸き返っているが、同時に有料の祝祭劇場とベルリナーフィルハーモニカーのサイトでの公開がオンデマンド終了時にでも準備されているので、地域ブロックも掛かっているようだ。

その華美な場面の間に挟まれる愛の表現もフェークとなっていて、ここではセックスプレーに続いてヘルマンのカードへの固執が示されることでその虚構性が強調される ― そもそも「スペードの女王」のカードの極秘などがフェークであり、今回の演出においてそれは抜かりなく、上下の二層構造で上手に繋がれていた。

正直なところ娼婦の館のサロン場面があまりに大きかったのでその劇中バランスがよく呑み込めなかったが、カメラの近接による演技の細部やらに注目するとプロポーションは大分よくなった。出演者など総勢300人規模の制作となったようだが、二晩8台のカメラを回した。つまり初日と第三夜となる。

二幕の「ドンジョヴァンニ」や「魔笛」のパロディーでチャイコフスキーの代表的な舞台作品を評価するのには抵抗があるのは当然だろう。しかしそれゆえに今回の制作で取り分け大きな意味合いを持った。そしてそれが大きな感動を呼んだ。

演出としては、勿論その虚構構造がプーシキンにおけるニヒリズムとして表現されるという劇場効果のドラマテュルギーがある。飽く迄も論理的な構造として、50年前の原作に描かれた女帝カタリーナの百年前を映し出す創作である枠組みの中に、主人公ヘルマンによる上の場面で語られる賭博によって富を得ることで全てが解決されるという幻想、そして性的な虚構における享楽である。

しかしこの点だけならば演出上のアイデアの域を出ないので感動には繋がらない。そもそも一幕における長机はその後ろで歌手の声を反射させてマイクへの集音を悪くしている様でもあり、実際に会場においても奈落の管弦楽の表出力に比して若干距離感を持って感じられた。その効果が収録としても映像としてもここで捉えられている。但し冒頭にあるヘルマンの影は後の場面から切り取られて張り付けられており、その価値は制作映像評価としてまた別に論じられるべきであろう。

今回の演出の核は上下二段構造における使う枠の制限であり、明らかに抑圧的な印象を与え続けた。最も大きな空間がサローンであり、廻り階段で繋がる上段のやりて婆の寝室若しくはヘルマンの部屋が最も小さな空間だった。それより狭いリーザの部屋のバスルームで部屋の主は後に殺害される。それに対して舞台横幅一杯ながらも長机で下部が更に上下に区切られた冒頭景のヘルマンの座る酒場と最終幕の賭博場。それに対して中間におけるこの場は上からは抑えられているものの上手へと開かれた感じになっていて奥では花火が為されるとする虚構の空間が広がっている。それは其の儘チャイコフスキーの心象風景であったのだ。(続く


ロシアの手早い全切り取り職人の仕事ぶり



参照:
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