当夜のプログラムでのヴォルガンク・リームに関する記述は興味深かった。そしてそれを聴くだけに出かけた価値もあった。それには少し突っ込んで書きたいが、後半のブルックナー交響曲九番に関しては簡単に覚書としておきたい。この曲はやはりとても面白い、しかし頻繁に聴ける曲ではない、先ずは超一流の管弦楽団が演奏しない事にはやはり真価は聴けないからだ。だから今回は価値があった。それでも全てを音化していたかどうかは疑わしく、結論じみたことは言えないからだ。
そこでどうしてもこのアメリカの人口比でも第五十位にも入らないクリーヴランドの管弦楽団が、その伝統と共にアメリカで一番のブリリアントな管弦楽団とされていて、今回のブルックナーの曲を演奏したハムブルクでは世界一とされたが、果たしてそれが正しいのかどうか。
結論からすると、今回のツアーは音楽監督ヴェルサーメストの掲げたホールに合わせた演奏は出来ていたと思う。要するに金管も木管もよく鳴っていた。前回聴いた時はヤナーチェックの「賢い女狐」だったので、正確な判断はできないかもしれないが、恐らくホームグランドよりもゆったりとなっていたと思う。しかし最終的にはそのアンサムブルの枠組みがあって、それを逸脱することはない。丁度昔の名指揮者セルが指揮したブルックナーの録音などにも似ている張りのある響きとなっていた。しかしそれでもニューヨークフィルやフィリーなどに比べるまでもなく、その総奏は音量は小さい。先日聴いたベルリーナーフィルハーモニカーの様には到底鳴らない。
The Cleveland Orchestra | Franz Welser-Möst
なるほど、そのシカゴ程ではないと感じたが、ピッチも安定しているようで、響き自体も落ち着いていて瀟洒な響きであるのだが、前半のリームの「変身」第三番冒頭でも放送では音量が分からなかったのだが、大分想定よりも小さかった。ベルリナーフィルハーモニカーが音を割らない様に留意したとされているが、まさしくそれ以前のところでリミッターが働いている。今年のツアーではフィリーはそのプログラミングを含めてあまり評価されなかったようだが、木管群を中心に和声の核があり、そこにサラサラと弦が乗る。そうしたサウンドがないのはクリーヴランドでありながら、アメリカン配置ではない通常配置のアンサムブルからは中欧的な音楽が汲み出る。
三楽章の対位法的な扱いも素晴らしく、管も各々がフィリーとは反対に対位法的に色を添えるのでとても多彩である。どうしてもペトレンコ指揮のマーラー作曲七番の響きを思い出す。両者の年齢もなにもかも違うのだが、こうした音楽の作り方は決して似ていなくはないのである。ペトレンコがブルックナーを指揮したらと思うと、やはり同郷のメストが、第一の主題のスタカーティシモを強調するのを聴いていて、やはりこれは聴いてよかった。ブルックナー指揮に関しては近々エンゲルも振ると予想しているので、こちらにも大変期待している。大管弦楽団との関係を含めて、ブルックナーの大曲をこの様に振れるのは超エリートであり、先日のハーディング指揮などを聴くとそこ迄至らない指揮者が殆どなのである。
それにしてもやはり現在のベルリナーフィルハーモニカーはその弦の表現力をしてもやはりずば抜けている。あれだけ音楽芸術的に鳴らし切れるのもペトレンコ指揮ゆえである。改めてその価値、そして市場価値を殆ど売れなかったビックファイヴの二つの楽団演奏会の惨憺たる客の入りで思い知らされるのである。仕方がない。(続く)
参照:
細い筆先のエアーポケット 2017-11-03 | 音
そこでどうしてもこのアメリカの人口比でも第五十位にも入らないクリーヴランドの管弦楽団が、その伝統と共にアメリカで一番のブリリアントな管弦楽団とされていて、今回のブルックナーの曲を演奏したハムブルクでは世界一とされたが、果たしてそれが正しいのかどうか。
結論からすると、今回のツアーは音楽監督ヴェルサーメストの掲げたホールに合わせた演奏は出来ていたと思う。要するに金管も木管もよく鳴っていた。前回聴いた時はヤナーチェックの「賢い女狐」だったので、正確な判断はできないかもしれないが、恐らくホームグランドよりもゆったりとなっていたと思う。しかし最終的にはそのアンサムブルの枠組みがあって、それを逸脱することはない。丁度昔の名指揮者セルが指揮したブルックナーの録音などにも似ている張りのある響きとなっていた。しかしそれでもニューヨークフィルやフィリーなどに比べるまでもなく、その総奏は音量は小さい。先日聴いたベルリーナーフィルハーモニカーの様には到底鳴らない。
The Cleveland Orchestra | Franz Welser-Möst
なるほど、そのシカゴ程ではないと感じたが、ピッチも安定しているようで、響き自体も落ち着いていて瀟洒な響きであるのだが、前半のリームの「変身」第三番冒頭でも放送では音量が分からなかったのだが、大分想定よりも小さかった。ベルリナーフィルハーモニカーが音を割らない様に留意したとされているが、まさしくそれ以前のところでリミッターが働いている。今年のツアーではフィリーはそのプログラミングを含めてあまり評価されなかったようだが、木管群を中心に和声の核があり、そこにサラサラと弦が乗る。そうしたサウンドがないのはクリーヴランドでありながら、アメリカン配置ではない通常配置のアンサムブルからは中欧的な音楽が汲み出る。
三楽章の対位法的な扱いも素晴らしく、管も各々がフィリーとは反対に対位法的に色を添えるのでとても多彩である。どうしてもペトレンコ指揮のマーラー作曲七番の響きを思い出す。両者の年齢もなにもかも違うのだが、こうした音楽の作り方は決して似ていなくはないのである。ペトレンコがブルックナーを指揮したらと思うと、やはり同郷のメストが、第一の主題のスタカーティシモを強調するのを聴いていて、やはりこれは聴いてよかった。ブルックナー指揮に関しては近々エンゲルも振ると予想しているので、こちらにも大変期待している。大管弦楽団との関係を含めて、ブルックナーの大曲をこの様に振れるのは超エリートであり、先日のハーディング指揮などを聴くとそこ迄至らない指揮者が殆どなのである。
それにしてもやはり現在のベルリナーフィルハーモニカーはその弦の表現力をしてもやはりずば抜けている。あれだけ音楽芸術的に鳴らし切れるのもペトレンコ指揮ゆえである。改めてその価値、そして市場価値を殆ど売れなかったビックファイヴの二つの楽団演奏会の惨憺たる客の入りで思い知らされるのである。仕方がない。(続く)
参照:
細い筆先のエアーポケット 2017-11-03 | 音