街道筋の閉鎖が除去された。その一日前に数日ぶりに走った。前回水曜日は足の調子が悪かったが、休んだお陰で全く問題がなかった。やはり疲れると駄目なのだと分かった。
新ホールへの訪問は週末に迫った。曲目等は様々なのでと思ったが、改めてプログラムを見るとそんなに悪くないと気が付いた。時間を作ろうと思う。杮落としに関する評が載っている。音響が大絶賛されている一方、その環境にやさしいコンセプトなど全てが成功しているようだ ― 抑々、ホールの音響なら計算(と恐らく経験)で誰でもいいホールは作れると書いている。
そこから世界の有名室内楽会場、フィラデルフィアの1726ローカスストリート、ロンドンの36ヴィグモア―ストリート、マサチューセッツリノックスの297ウエストストリートの横にベートーヴェンプラッツのカザルスフォールムが置かれるだろうとしていて、カーティス、ウィグモアー、タングルウッドとカザルスフォールムとされるだろうとしている。
確かにここで書かれている通り、件のシフ指揮のバルトーク作曲ディヴェルティメントの演奏もその稀に聴く密な印象にも拘らず四声部の構造が拡大鏡で覗くように聴こえ、しかしその不協和音はあくまでもシャープであり、丸められていることはない、それが指揮者演奏家の腕だけとは聞こえずに、付け加えることのなく削られることもなく響いたと分かるとしている。
まさしく放送で響いたそのものであり、殆どぼけ老人の様なシフの指揮も楽団のアンサムブルの上に乗って、それでも自らの音楽となしていたが、それ程素晴らしい音響だった。それがこのホールでの最大規模の編成のチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲では無指揮者で演奏されたことでも証明されていた。
いい演奏というのは、いい演奏家だけが為すものでなくて、聴衆が為すものではない、その環境が大切なのである。音楽に限らず、芸術を作るのは環境なのだ。故に当地の駅からの開発と組み合わされたようで、環境開発としても視察が楽しみである。
上の批評で思いつくのはやはり夏のツアープログラムのマーラーの七番である。如何に細部の楽譜を音化しながら同時に全体の響きとしてその音響構造に注意を向けるか、もしくは作曲家が意図したその音を聴かせるかでしかない。そういう音の構造自体が現在の交響楽団などが成立した時、つまりそれらが伝統とか個性とかするようなメインレパートリーでの演奏では要求されないアンサムブルなのである。尚の事、より歴史のある劇場の座付き管弦楽団の世界とは大きく異なる。
しかし、こうした室内楽のアンサムブルにおいてはよりその創作に迫れるというのはそういう意味合いもある。今回でも室内管弦楽団が演奏したハイドンにおいても、その弦の奏法とかで、比較的容易にありうるべきバランスのアンサムブルに近づけるというのはそういうことなのである。エアール音楽祭でそうしたブラームスの交響曲の演奏が叶った背景でもあり、個人的にも十年以上は大管弦楽団など眼中にはなかった理由でもある。
参照:
クロンベルク再訪へと 2022-09-26 | 文化一般
並行した空間からの響き 2006-02-03 | 音
新ホールへの訪問は週末に迫った。曲目等は様々なのでと思ったが、改めてプログラムを見るとそんなに悪くないと気が付いた。時間を作ろうと思う。杮落としに関する評が載っている。音響が大絶賛されている一方、その環境にやさしいコンセプトなど全てが成功しているようだ ― 抑々、ホールの音響なら計算(と恐らく経験)で誰でもいいホールは作れると書いている。
そこから世界の有名室内楽会場、フィラデルフィアの1726ローカスストリート、ロンドンの36ヴィグモア―ストリート、マサチューセッツリノックスの297ウエストストリートの横にベートーヴェンプラッツのカザルスフォールムが置かれるだろうとしていて、カーティス、ウィグモアー、タングルウッドとカザルスフォールムとされるだろうとしている。
確かにここで書かれている通り、件のシフ指揮のバルトーク作曲ディヴェルティメントの演奏もその稀に聴く密な印象にも拘らず四声部の構造が拡大鏡で覗くように聴こえ、しかしその不協和音はあくまでもシャープであり、丸められていることはない、それが指揮者演奏家の腕だけとは聞こえずに、付け加えることのなく削られることもなく響いたと分かるとしている。
まさしく放送で響いたそのものであり、殆どぼけ老人の様なシフの指揮も楽団のアンサムブルの上に乗って、それでも自らの音楽となしていたが、それ程素晴らしい音響だった。それがこのホールでの最大規模の編成のチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲では無指揮者で演奏されたことでも証明されていた。
いい演奏というのは、いい演奏家だけが為すものでなくて、聴衆が為すものではない、その環境が大切なのである。音楽に限らず、芸術を作るのは環境なのだ。故に当地の駅からの開発と組み合わされたようで、環境開発としても視察が楽しみである。
上の批評で思いつくのはやはり夏のツアープログラムのマーラーの七番である。如何に細部の楽譜を音化しながら同時に全体の響きとしてその音響構造に注意を向けるか、もしくは作曲家が意図したその音を聴かせるかでしかない。そういう音の構造自体が現在の交響楽団などが成立した時、つまりそれらが伝統とか個性とかするようなメインレパートリーでの演奏では要求されないアンサムブルなのである。尚の事、より歴史のある劇場の座付き管弦楽団の世界とは大きく異なる。
しかし、こうした室内楽のアンサムブルにおいてはよりその創作に迫れるというのはそういう意味合いもある。今回でも室内管弦楽団が演奏したハイドンにおいても、その弦の奏法とかで、比較的容易にありうるべきバランスのアンサムブルに近づけるというのはそういうことなのである。エアール音楽祭でそうしたブラームスの交響曲の演奏が叶った背景でもあり、個人的にも十年以上は大管弦楽団など眼中にはなかった理由でもある。
参照:
クロンベルク再訪へと 2022-09-26 | 文化一般
並行した空間からの響き 2006-02-03 | 音