(承前)オペラの読み替え演出って何だろう?恐らく、舞台設定を変えて、ト書きやテキストやその配置などを変える事なのだろう。「魔弾の射手」は同じジングシュピールとされる「魔笛」などのメルヘンオパーにも影響を受けているのだろうが、その内容はシカネーダーにおける啓蒙的なものではなく、当時のグリム童話などにも通じる昔話に近いかもしれない。但しその音楽的内容はオペラとして、「フォデリオ」を通してそれらを継ぐ作品として、死の一年前のETA・ホフマンによっても評価されている。同時に劇場作品として問題点が指摘されている。
まさしくマルタ―ラーのこのオペラ作品に対する原点がそこにあって、永く演出のアイデアを温めていたようだが、其の儘今回の演出の核になっている。その批評点は後世のアドルノの論文に扱われている通りであって、その具体例は少なくとも今回の演出の舞台を見ていればプログラムに掲載されている両小論文を読むまでもなく直感出来た筈である。
ホフマンによっても批判点となっているのは、その深く民族的なまでに訴えかけるその劇の在り方であり、アドルノはそれをして、ビーダ―マイヤー的な日常の厨房からの前世への謎の風景のようなものとしている。湿気った調度が透視されたような塩梅で、後年のポーの「アッシャ―家の崩壊」とかジャンパウルのようだとしている。
更にそうしたメルヘンの世界は、当時の独文化屈指の「魔弾の射手」において開かれていて、紙一重だとある。それは、性衝動が市民性と紙一重なのと同様に、「魔弾の射手」においてカタストロフをやり過ごしているとなる。それが所謂歌芝居でのと変わりなく、とても危険な芸術であったと語る。
マルタ―ラーの舞台設定はいつものように進行役となるような芝居の人たちが舞台上で何かを営んでいる。具体的にはマルタ―ラーチームと呼ばれるような人たちとその小道具や大道具なのだが、今回の場合はまさしく上にあった重要な局面を準備していて、芝居と歌の世界を繋ぐお膳立てとなっている。全く日常生活の一瞬であるような、例えば首の方向け方からもう既にそこには形而上の世界が開いて来る。まさしく紙一重の世界の深い淵が一瞬で開くのである。
これで、なぜ200年間もこの作品が上演されているのか、またはその上演が必ずしも容易ではないかの説明に適っている。同時に、こうしたファンタジーでそのト書き通りにまたテキスト通りに芝居をして魅せることが出来るとすれば、子供向きの商業演劇とか其れでは足りなくて、完全映画化とか、否ディズニー映画化となるのである。その様にまでしなければ誰にも相手にされない。しかし一寸考えれば直ぐに分かるように肝心のヴェーバーの音楽がそのようなところで本来の効果を発揮することなどはないのである。
流石にここまで紐解けばオリジナルの上演とか読み替えの演出とかの議論は本質的な事では無いことは理解されると思うが、逆にこうした全体像を制作として貫徹して描くことの困難さも理解されるだろう。一方にはキリル・ペトレンコが復活祭で行う様に飽く迄もその音楽的な追求からスーパーオペラとしての上演を目指す、一方でエンゲルらが音楽劇場としてその作品の劇場的な効果を徹底的に引き出す劇場上演を目指す試みがあるのだ。なぜ、オペラとして創作されたものの本質が劇場舞台でしか再現されないかの回答にもなっていると思う。(続く)
参照:
独墺核レパートリー 2021-12-02 | 音
何時の間にドイツの森に 2022-09-15 | 文化一般
まさしくマルタ―ラーのこのオペラ作品に対する原点がそこにあって、永く演出のアイデアを温めていたようだが、其の儘今回の演出の核になっている。その批評点は後世のアドルノの論文に扱われている通りであって、その具体例は少なくとも今回の演出の舞台を見ていればプログラムに掲載されている両小論文を読むまでもなく直感出来た筈である。
ホフマンによっても批判点となっているのは、その深く民族的なまでに訴えかけるその劇の在り方であり、アドルノはそれをして、ビーダ―マイヤー的な日常の厨房からの前世への謎の風景のようなものとしている。湿気った調度が透視されたような塩梅で、後年のポーの「アッシャ―家の崩壊」とかジャンパウルのようだとしている。
更にそうしたメルヘンの世界は、当時の独文化屈指の「魔弾の射手」において開かれていて、紙一重だとある。それは、性衝動が市民性と紙一重なのと同様に、「魔弾の射手」においてカタストロフをやり過ごしているとなる。それが所謂歌芝居でのと変わりなく、とても危険な芸術であったと語る。
マルタ―ラーの舞台設定はいつものように進行役となるような芝居の人たちが舞台上で何かを営んでいる。具体的にはマルタ―ラーチームと呼ばれるような人たちとその小道具や大道具なのだが、今回の場合はまさしく上にあった重要な局面を準備していて、芝居と歌の世界を繋ぐお膳立てとなっている。全く日常生活の一瞬であるような、例えば首の方向け方からもう既にそこには形而上の世界が開いて来る。まさしく紙一重の世界の深い淵が一瞬で開くのである。
これで、なぜ200年間もこの作品が上演されているのか、またはその上演が必ずしも容易ではないかの説明に適っている。同時に、こうしたファンタジーでそのト書き通りにまたテキスト通りに芝居をして魅せることが出来るとすれば、子供向きの商業演劇とか其れでは足りなくて、完全映画化とか、否ディズニー映画化となるのである。その様にまでしなければ誰にも相手にされない。しかし一寸考えれば直ぐに分かるように肝心のヴェーバーの音楽がそのようなところで本来の効果を発揮することなどはないのである。
流石にここまで紐解けばオリジナルの上演とか読み替えの演出とかの議論は本質的な事では無いことは理解されると思うが、逆にこうした全体像を制作として貫徹して描くことの困難さも理解されるだろう。一方にはキリル・ペトレンコが復活祭で行う様に飽く迄もその音楽的な追求からスーパーオペラとしての上演を目指す、一方でエンゲルらが音楽劇場としてその作品の劇場的な効果を徹底的に引き出す劇場上演を目指す試みがあるのだ。なぜ、オペラとして創作されたものの本質が劇場舞台でしか再現されないかの回答にもなっていると思う。(続く)
参照:
独墺核レパートリー 2021-12-02 | 音
何時の間にドイツの森に 2022-09-15 | 文化一般