水曜日のルツェルンでの演奏会の批評が地元紙ノイエズルヒャーに出ている。本質に触れるジャーナルとなっている。流石に独語圏最古の高級紙だけのことはある。先ずは記事を前日のレゾナンス演奏会即ちジーメンス財団の現代音楽振興の企画ものと半分づつに割っている。第一印象として、その様な扱いが正しいかどうかわからなかった。しかし、この書き方が詳しく内容を吟味することでより多くのことを示唆した。
その演奏会とはフィンランドの指揮者マルキ女史がリゲティや地元アーラウのアムマンの曲をスイス初演した演奏会である。ピアノ協奏曲のピアノは音楽祭支配人の弟のヘフリガーが受け持ちヘルシンキの楽団の客演となっていた。
先ずはそのリゲティ作「コンティニウム」では最後にはBPMつまり分で1080もの音が出される ― 楽譜上では秒に18らしい。音楽の速度記号ではプレストでも200ぐらいか。そうなると最早音として別れては聞こえずに漂う連続音として認識されないと報じている。
サリアホの新しい曲ではそこではネオイムプレッショニズムとして認識に関しての挑戦は無いもののアムマンの曲においてはそのヴィブレートされた音のパルスなどの認識は限界域にあるとしている。
さてここからである、翌晩のマーラーの七番の演奏について触れるのは。当夜現場でコメントしたのだが、ベルリンでの演奏ではその一楽章のテムポにおいてもその序奏からしても重要な動機が刻まれる時に端折り気味に過ぎてややもすると楽譜の音が認識されない可能性があったのだが、kklの音響に合わせたサウンドチェックもされて修正されたと聞いた。まさしく音の認識とその色彩と、ここで言及されていることなのである。
筆者のヴィルトハーゲン氏は、これだけ徹底的にコンセプショナルに演奏されることでのつけは情動性の欠如を招いているとしているが、これには其の儘反対意見をしておきたい。ベルリンの初日に比較して為されたのはその情動性の強化となって表れていたからだ。
なるほど、そこでは泣き笑いのマーラーは存在せずその様なものは楽譜にはどこにも書かれていない。それが導き出されるのは、マーラーが楽長として君臨したヴィーンのその時の音楽文化的なコンテクストの中からでしかない。キリル・ペトレンコのマーラ―解釈の基本はそこにある。勿論そうした前提条件無しには楽譜などは正しく読めないからだ。決して作譜技術的なことだけではないという事である。
更に、その音響に触れて、ペトレンコはポストアバドで強化され続けた技術的に瑕疵がなくともクールな管弦楽団の輝きを自ら潰そうかとしているかに見えると書いている。これも一際興味深い言及であって、恐らく今回の演奏実践の本質に迫っている。そして筆者は容易にそれに対しての判決は下していない。
如何に今回の演奏が何かを齎した若しくは齎す大きな契機になっていることを示してはいないだろうか。(続く)
参照:
An den Grenzen der Wahrnehmung schillert die Musik, Christian Wildhagen, NZZ vom 4.9.2022
米国お披露目ツアーへの弾み 2022-09-04 | 文化一般
終わらないドタバタの一日 2022-09-01 | 生活
その演奏会とはフィンランドの指揮者マルキ女史がリゲティや地元アーラウのアムマンの曲をスイス初演した演奏会である。ピアノ協奏曲のピアノは音楽祭支配人の弟のヘフリガーが受け持ちヘルシンキの楽団の客演となっていた。
先ずはそのリゲティ作「コンティニウム」では最後にはBPMつまり分で1080もの音が出される ― 楽譜上では秒に18らしい。音楽の速度記号ではプレストでも200ぐらいか。そうなると最早音として別れては聞こえずに漂う連続音として認識されないと報じている。
サリアホの新しい曲ではそこではネオイムプレッショニズムとして認識に関しての挑戦は無いもののアムマンの曲においてはそのヴィブレートされた音のパルスなどの認識は限界域にあるとしている。
さてここからである、翌晩のマーラーの七番の演奏について触れるのは。当夜現場でコメントしたのだが、ベルリンでの演奏ではその一楽章のテムポにおいてもその序奏からしても重要な動機が刻まれる時に端折り気味に過ぎてややもすると楽譜の音が認識されない可能性があったのだが、kklの音響に合わせたサウンドチェックもされて修正されたと聞いた。まさしく音の認識とその色彩と、ここで言及されていることなのである。
筆者のヴィルトハーゲン氏は、これだけ徹底的にコンセプショナルに演奏されることでのつけは情動性の欠如を招いているとしているが、これには其の儘反対意見をしておきたい。ベルリンの初日に比較して為されたのはその情動性の強化となって表れていたからだ。
なるほど、そこでは泣き笑いのマーラーは存在せずその様なものは楽譜にはどこにも書かれていない。それが導き出されるのは、マーラーが楽長として君臨したヴィーンのその時の音楽文化的なコンテクストの中からでしかない。キリル・ペトレンコのマーラ―解釈の基本はそこにある。勿論そうした前提条件無しには楽譜などは正しく読めないからだ。決して作譜技術的なことだけではないという事である。
更に、その音響に触れて、ペトレンコはポストアバドで強化され続けた技術的に瑕疵がなくともクールな管弦楽団の輝きを自ら潰そうかとしているかに見えると書いている。これも一際興味深い言及であって、恐らく今回の演奏実践の本質に迫っている。そして筆者は容易にそれに対しての判決は下していない。
如何に今回の演奏が何かを齎した若しくは齎す大きな契機になっていることを示してはいないだろうか。(続く)
参照:
An den Grenzen der Wahrnehmung schillert die Musik, Christian Wildhagen, NZZ vom 4.9.2022
米国お披露目ツアーへの弾み 2022-09-04 | 文化一般
終わらないドタバタの一日 2022-09-01 | 生活