本年のベルリンナーフェストシュピーレ最終日の評がベルリンのターゲスシュピール紙に出ていた。今回のミンガスの曲の再演でも学ぶことがあったので、最後纏めておきたい。生放送番組でも作曲の背景などを知っているか知らないかはどちらもあり得るという事だった。しかし、今回のコンセプトの中でのフィナーレとしてのそれは記しておく必要がある。
先ずこの高名なジャズメンの背景なのだが、チェロで管弦楽団員を目指していてその人種故に成れずにジャズを目指したところまではよく知られる。この「エピタフ」初演の1961年当時に問題となっていた黒人差別問題では、実は本物の黒人ではなかったのだ。本人が「ハーフシットカラードニーガー」と称していたように、スェーデン、英国、中華の血が混じっていたというのである。その実1940年には黒人特許のジャズしかなかったという事である。
だからこの二時間にも及ぶ大曲が、ソロとバンド、二群のバンドなどでの対位法的な扱いや対比が音楽的に構築されていることの意味を、当時の黒人解放の社会背景と共に想像することが可能となっている。中継を聴いて直感的にこの演奏がルツェルンの音楽祭でなされなかったことで、そこのダイヴァシティーの嘘臭さが強調されたと感じたのである。まさしく作曲として表現されているそのものだ。
その後に1989年に合衆国を代表する作曲家の一人ギュンタ―・シュラーによって総譜が校訂されている。その初演は2007年になって初めてで、今回が再演だったらしい。その楽譜と内容から、ジャズメンだけでは演奏が難しく双方を知っている奏者を必要としたという事だ。シュラー自体が若くしてシンシナティ―の奏者になってその後第三の道としてジャズとの間に立脚した作品を出している。手元には、管弦楽団の在り方の問題から1958年に創作した「スペクト」のシカゴ交響楽団での録音があるが、シェーンベルクの音色旋律を押し進めながらも、ミンガス作品との共通性もなくはない。
この批評にある動きが抑えられた指揮のエンゲルとドイツェオパーベルリンのビッグバンド並びに管弦楽団そしてジャズ研究所の面々が内面の抑圧からの暗さと内なる歌、錯綜と恍惚を思いのままの演奏の喜びと特筆すべき明晰さで表現したとの評にその創作の内容を知ることが出来るだろうか。
ゲストの1980年に第二回初演を共演したランディ・ブレッカーのトラムペットに関しても賞賛されていて、その他の木管楽器、サクソフォーンの音色に関しても言及、フリーダムのテクストを歌った歌手の強い印象、パーカッションの出し入れの精妙さ、ドラムとコントラバスの息を吞むソロの妙技、ブラスの調性ギリギリのアコードとティムパニーとの未だ嘗て聴いたことのない音色のオーケストラサウンドを体験したと絶賛している。即興の妙に関してはもう少し繰り返して生中継放送録音を聴いてみないと分からないが、少なくとも繰り返して聴けるだけの内容があることだけは既に認めている。
指揮者のエンゲルにとってはある意味日常茶飯の仕事であったかもしれないが、今回の様にフィルハーモニーの大ホールを一杯にしての大成功はやはり大きな成果だったのではなかろうか。
Charles Mingus: EPITAPH (Preview)
ギュンター・シュラーによる1991年のサンフランシスコでの練習風景:
Charles Mingus' "Epitaph" (c. Gunther Schuller), June 9, 1991. Final Rehearsal- Davies Hall, SF
参照:
Musikfest Berlin: Die Freiheit, die ich meine, Isabel Herzfeld, Tagesspiegel vom 20.09.2022
ミンガス作演奏の第一人者 2022-09-21 | 文化一般
興奮の復活祭の追憶 2022-05-05 | 雑感
先ずこの高名なジャズメンの背景なのだが、チェロで管弦楽団員を目指していてその人種故に成れずにジャズを目指したところまではよく知られる。この「エピタフ」初演の1961年当時に問題となっていた黒人差別問題では、実は本物の黒人ではなかったのだ。本人が「ハーフシットカラードニーガー」と称していたように、スェーデン、英国、中華の血が混じっていたというのである。その実1940年には黒人特許のジャズしかなかったという事である。
だからこの二時間にも及ぶ大曲が、ソロとバンド、二群のバンドなどでの対位法的な扱いや対比が音楽的に構築されていることの意味を、当時の黒人解放の社会背景と共に想像することが可能となっている。中継を聴いて直感的にこの演奏がルツェルンの音楽祭でなされなかったことで、そこのダイヴァシティーの嘘臭さが強調されたと感じたのである。まさしく作曲として表現されているそのものだ。
その後に1989年に合衆国を代表する作曲家の一人ギュンタ―・シュラーによって総譜が校訂されている。その初演は2007年になって初めてで、今回が再演だったらしい。その楽譜と内容から、ジャズメンだけでは演奏が難しく双方を知っている奏者を必要としたという事だ。シュラー自体が若くしてシンシナティ―の奏者になってその後第三の道としてジャズとの間に立脚した作品を出している。手元には、管弦楽団の在り方の問題から1958年に創作した「スペクト」のシカゴ交響楽団での録音があるが、シェーンベルクの音色旋律を押し進めながらも、ミンガス作品との共通性もなくはない。
この批評にある動きが抑えられた指揮のエンゲルとドイツェオパーベルリンのビッグバンド並びに管弦楽団そしてジャズ研究所の面々が内面の抑圧からの暗さと内なる歌、錯綜と恍惚を思いのままの演奏の喜びと特筆すべき明晰さで表現したとの評にその創作の内容を知ることが出来るだろうか。
ゲストの1980年に第二回初演を共演したランディ・ブレッカーのトラムペットに関しても賞賛されていて、その他の木管楽器、サクソフォーンの音色に関しても言及、フリーダムのテクストを歌った歌手の強い印象、パーカッションの出し入れの精妙さ、ドラムとコントラバスの息を吞むソロの妙技、ブラスの調性ギリギリのアコードとティムパニーとの未だ嘗て聴いたことのない音色のオーケストラサウンドを体験したと絶賛している。即興の妙に関してはもう少し繰り返して生中継放送録音を聴いてみないと分からないが、少なくとも繰り返して聴けるだけの内容があることだけは既に認めている。
指揮者のエンゲルにとってはある意味日常茶飯の仕事であったかもしれないが、今回の様にフィルハーモニーの大ホールを一杯にしての大成功はやはり大きな成果だったのではなかろうか。
Charles Mingus: EPITAPH (Preview)
ギュンター・シュラーによる1991年のサンフランシスコでの練習風景:
Charles Mingus' "Epitaph" (c. Gunther Schuller), June 9, 1991. Final Rehearsal- Davies Hall, SF
参照:
Musikfest Berlin: Die Freiheit, die ich meine, Isabel Herzfeld, Tagesspiegel vom 20.09.2022
ミンガス作演奏の第一人者 2022-09-21 | 文化一般
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