Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ゲヴュルツトラミナー/Gewuerztraminer

2005-01-18 | ワイン
比較的珍しい白ワインの葡萄である。香辛料を示すゲヴュルツの名が示すように、スパイシーである。独特の麝香のような香りとトローとした蜂蜜状の味が黄色の液体の色の濃さにも見て取れる。アルコール濃度は比較的高い。春の霜が大敵なので毎年収穫されるとは限らない。酸の清涼感が薄いのでこれをすっきりと仕上げるのは至難の業である。2001年の棚卸ワインを飲んでいるが、糖が残らず心地よい。

元々南チロルからトラミナーとしてやって来て、16世紀にプァルツで栽培し初めたようだ。この香りを指してゲヴュルツトラミナーと呼ばれるようになった。1870年以降にそこからアルザスへと引き継がれるようになる。

そのキャラクターから白い肉などに合わせるが、食事に合わせる以外にこれだけを楽しむケースも多い。これは女性より男性の方に好き嫌いが出そうである。
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2005年シラー・イヤーに寄せて

2005-01-17 | 文学・思想
2004 10/10&02/29 編集


友人と面会

窓枠の長い影に潜むように、石の壁際の粗末な机に向かっていた髭面男が、中腰に大きな眼を斜めに向け、人を一歩も近づけさせないかのように逞しい手を激しく前へと突き出す。この牢獄の友人を驚かし、プチ・ブルジョア風のニッカー・ボーカーをスマートに着こなした男が、没後二百年を迎えるフリードリッヒ・フォン・シラーである。突然の思いがけない訪問に嬉しさ半分、ばつの悪いなんともいえない表情を浮かべるのがクリスチャン・ダニエル・シューバルトである。

彼は、フランツ・シューベルトの有名歌曲の作家として二月にここの鱒の項で登場した。上の情景の絵を歯科の待合室の最新刊のシュピーゲル誌のなかに見つけた。誰が描いたかはわからなかったが、上手く刑務所長を丸め込んで颯爽と牢屋へと入り込んで得意げなシラーとこのシューバルトの表情が妙である(ゲーテと並んだシラーの顔つきと比べたい。)。シューバルトこそがシラーの処女ドラマ「盗賊」の主人公でもある。同名のオペラは、ヴェルディの初期の曲ながら後年の同じ組み合わせの「ドン・カルロス」に比べるとあまり上演されない。しかし、マンハイムのナチョナル・テアターのために書かれた原作の演劇の方は、後の観念的な理想主義作品よりも、まだここ暫く各地で頻繁に上演されそうだ。

ウィリアム・テルも題材としたりするシラーの作品は、音化されただけでも「歓喜に寄す」を筆頭に枚挙に暇がない。作家自身、たいへんポピュラーでありながら他の重要人物の影に隠れる感がある。しかしシューバルト訪問に顕れる様に、今日的に面白いネタを提供している事は間違いなさそうである。


鱒フィレの薫製/Die geraeucherte Forelle

フィレ二枚におろして薫製したもの。同様のサーモンに比べると半額以下。塩茹ジャガイモと新鮮なルッコラと小さなほうれん草の葉っぱにホースラディッシュを添える。ワインは、モーゼル中流域産の辛口リースリングを選択。鱒は、山中の池で養殖されて近くの小川で育つ。ある程度水深があれば流れが速くても棲息している。流れが強い氷河の川で漁られた鱒の方が引き締まって旨い感じがする。

シューベルト(Schubert)の歌曲で有名な「鱒」の原作は、シュヴァーベン出身の作曲家著作家シューバルト(Schubart)の手による詩である。アメリカ独立に感動する近代人。シラーの「盗賊」のモデルになるほどのお騒がせ者で、毒舌で10年間の投獄中シラーの面会を受ける。詩「鱒」の中で、「透き通った小川を矢のように泳ぐ」とあり、「釣り師が水を濁らして罠をかける」とある。作詩家は、最後の二つの節で初めて純な少女を鱒に重ねて、「気を付けなさい、既に危険が迫っています、さもなくば流血ですよ」と注意を促す。大作曲家シューベルトの方は、これには曲をつけずに、この歌曲の変奏を第四楽章においた「ピアノ五重奏」でさらに四つの楽章を作曲した。歌曲ではピクッと身体をひねらせながら瀬に留まる鱒も、五重奏の方ではあちらこちらへと快活に綿々と泳ぎ回わる。

実際に、川の上流下流至る所で養殖された新鮮な鱒が漁穫される。蒸し・焼き・ホイル焼き・薫製などの料理方法は概ね決まっているが、魚の大きさは様々だ。虹鱒もしばしばメニューに挙がる。氷河溜りの湖に突き出た鱒料理のレストランがよかった。冬は、氷結した湖面に光り輝く眩しい雪面がノルデックスキーや雪上散歩で賑わう、マイナス30度の世界だ。夏は、冷めたい颪の風が吹きつける深い色の湖となる。
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生命の起源に迫る

2005-01-16 | 数学・自然科学
ダルムシュタットのESAセンターからの情報は、非常に刺激的である。土星の惑星タイタンはその重力や温度や大気から太古の地球に近いといわれる。天文学に詳しくなくとも、生物が発生する創世の時を覗けるかもしれないという期待が高まる。デジタル汎用技術のお陰で送られてきた大量のデータの精度も非常に高いようである。

ゾンデ「ホイヘンス」が写した高度8000メートルからの写真を見たり、落下中の地表の反射を伴った音響を聞くと、氷点下180度の世界にしては風も穏やかで凍った頂稜などが何処か馴染みがある。不毛の月着陸も当時の科学技術の高水準を示して我々を驚かした。その後、火星などの地球に近くて似ている惑星の写真を驚きをもって眺めてきた。もちろん地球外生命への遭遇も待ち遠しいが、その生命誕生の過程の解明は掛け替えない。記者会見でも所長から間接的にフランケンシュタイン博士の名が出たが、雷が落ちて生物が生成するような情景は我々をどんなにか興奮させる事だろう。

膨大なデータは、数年掛けて解析されていくらしいが、多くの科学的成果と人類に画期的な新視点を与える発見を期待したい。生命誕生への科学的解析は、人類最大の問いである事に違いない。今回も電子望遠鏡の観測や基礎技術等で世界的な協力体制が強調されている。「人的共同作業こそが全てを可能にした。」という所長の挨拶は的を得ている。



参照:序 トロージャンの不思議 [ 数学・自然科学 ] / 2005-03-17
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81年後の初演(ベルリン、2004年12月9日)

2005-01-15 | 
早々と、年末年始のライヴ録音を編集して製品化した物の紹介が新聞に出ている。お馴染みの二つの世界的コンサートに関するものである。音楽ジャーナリストとしては、紹介の義務を果たすと共に何が書けるかが腕の見せ所である。発売日競争の狂乱だけでなく、意地悪くブックレットなどの間違い探しをする。筆者は女性である。ベルリン側の津波寄付は、五万ユーロとヴィーンの約半分と寄付金額を上げる。1月19日のラトル氏50歳の誕生日を控えて、英国の新聞がベルリン滞在の決算を試みている事を伝える。そしてラトル氏の言葉として、ベルリンの楽団との問題点を直訳する。青少年のための活動のために監督が楽団員に直々説得しなければならなかったこと、監督の支持するタネジなどの傾向の新曲に対しての楽団員の異常な抵抗などを「客観的」に更送りする。そこでのフルトヴェングラー監督時代の重要な「シェーンベルクの変奏曲」の初演の言及が欠けているが、歴代のベルリンナーフィルハーモニカーの新曲初演の状況を述べる。

そのフィルハーモニーで旧年中に行われた最も重要な初演は、1923年ヒンデミット作曲の「交響楽を伴ったピアノ曲」かもしれない。この曲は、第一次世界大戦で右手を失ったコンサートピアニストが左手のために多くの作曲家に依頼した曲の一つである。ラヴェル、プロコフィエフ、ブリテン、コルンゴールド、シュミットなどが挙がる。この左手のピアニストが、特に英語圏で高名なヴィーンの哲学者ヴィットゲンシュタインの二つ上の兄パウルである。彼は、ラヴェルなどを1931年当時初演したようであるが、幾つかの曲は気に入らずそのままお蔵となった。プロコフィエフの曲は初演までに25年かかり、作曲家の死の二年後であった。その年に、ピアニストは内輪で「これらは自分のアイデアで苦労と金がかかった。だから自分が健在なうちは人には渡さないがお蔵にはしない積もり。」と述懐しているらしい。しかしその時ヒンデミット夫人が問い合わせたところ要を得なかった。2002年になってフランクフルトの研究所のシューベルト博士がこの遺産を初めて受け取る。ニューヨークの自宅の物置に埃にまみれダンボールの中に適当に押し込まれていたようである。こうして1923年の作曲が今回陽の目を見る事となった。このピアニストの弟の有名な言葉を挙げる。

Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen.
- Ludwig Wittgenstein/Wien, 1918

これに肖って「弾けない、沈黙しろ。」と1961年に他界した兄は考えたのであろうか。作曲家は、当時の一般ピアニストの実際に配慮して、調性の指示まで付け加え、「初めは尻込むかもしれないが、気にせずにやって欲しい。技術的に掴めたら幾らでも音楽的に説明するから。段々と面白くなると思う。」と手紙している。その一方、このピアニストによる初演は難しいと思ったのか、完全な喪失を恐れて、珍しく相継いで書かれた第五番弦楽四重奏曲に同じ素材を使っているという。更にシューベルト博士は、この曲が初演されていても不成功が予測されることであり、何れにせよ作曲家は折からのインフレの矢先老朽化した自宅を直す事が出来たと語る。更なる説明と批評や楽譜の一部からこの曲が、素材の節約ゆえに多くを表現する音楽から、コントラプンクトやディアステマテック、リズムパターンとそれまでの経験の粋を集めた、1920年代の新即物主義から段々と最盛期へと向かう作風であるようだ。

そして、他の曲が恰も右手があるような華麗な音楽を響かしたのに対して、この曲は制約のなかでその密度を生かした作曲なのかもしれない。自らが失ったもの以上に補完しようとする人間のコンプレックスも理解出来るが、前提の中での最高の粋に「明快に語られるものの偉大さ」を思う。
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グラン・クリュのリースリング

2005-01-14 | ワイン
二十七年前の苗からとった葡萄で作られた。古い苗は収穫量が落ちる反面、少々の気象や環境の変化に堪えるだけでなく、病気にも強い。その年齢はそれを証明する。地所はルパーツブルクのガイスブールで、ドイツのグラン・クリュである。本来ならば辛口で一本€21と高価すぎるのであるが、地元奉仕価格で分けてもらった。一ヘクタールの収穫を39ヘクトリッターに制限してある。2003年は、異常高温の夏であったが、摘み取りは早かった。

流石に地面が違う、ミネラル風味が目立つわけでもなくスッキリしながら濃くがある。さらにここのワインのスマートさがありながら、一部の人に疎まれる吹き上げる香気と突き上がる酸がない。この手の地面のボディー感に最高の繊細が加わったといえようか。モーゼルにはない苔むしたような玉露の深み、ラインガウにはない果実風味。薄荷のような爽やかさが尾を引いて自然な水のように喉元過ぎる。勿論その途中でベリーや林檎の味からほとんど蜂蜜の風味まで楽しめる。つまり鼻で楽しむよりも口内で楽しめる。少なくとも5年経っても落ちるものはない。逆に言えば、これが醸造蔵で厳密に確認されていたことになる。
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架空のクラフトマンシップ

2005-01-13 | テクニック


オールドインダストリーの代表として、十年以上自動車産業の推移に関心を持っている。そのインフラストルクチャーや付随産業や技能労働者や市場への輸送等の点で、生産地移転は簡単に進まないが、予想した方向に進んでいる。ラインとマインに挟まれたリュッセルスハイムのアダム・オペル社の場合は、特に親会社GMの意向と世界戦略が顕著に出る。

1862年にミシン会社としてアダム・オペル氏によって創立された。その後創始者の子息は自転車から自動車への変換を図り、1924年には流れ作業による大量生産化に逸早く乗り出して、通称「ラウブフロッシュ」を1931年までに十二万台出荷する。一時はドイツ最大の自動車メーカーであったという。その後直ぐGM傘下となり、戦時下もオペル・ブリッツという軍のトラックが生産し続けられる。経済的利害関係を重視して、戦時中もGM傘下にあり続けたことは興味深い。戦後直ぐに戦前のモデルが生産再開されたが、ブランデンブルク工場がソヴィエト管轄となったので、ヒット商品のカデットは1962年までボッフムの工場での生産を待たなければならない。そのポピュラーなラインナップから慕われて多くの消費者は伝統あるこの会社の商品をドイツ車としか見做さなかった。しかし1993年ごろから様子が変わってきた。

幸いこの間このブランドの車を多数乗る事が出来たので、その変化は身をもって感じる事が出来た。最初の「ベクトル」の印象は極めて良かった。適当な車体の軽やかさとハンドリングがベストマッチしていた。郊外の曲がりくねった道を軽快に飛ばせ、当時の5シリーズと較べて広さを除いてはこのような路面状況では殆んど遜色がなかった。当時のAUDIよりも良かったかもしれない。前輪駆動の良さがカロッセリーに出ていた。その後、内装などの高級化が目立つようになるのと反比例して実質的な堅実さが急速に失われていった。スポーツカータイプの生産などで話題を提供する反面、人気は急に落ちていった。乗る毎に、車の仕上がりがますます悪くなっていったのを実感した。そこで地に落ちた信頼回復の音頭をとったのが、ドイツ人経営者を求められて就任した未だ若い現在のGM欧州代表である。信頼回復の成果はある程度上げたが、本人のその後の職場転換が示すように状況は更に進んでいる。

昨日の新聞には、高級車はサーブのスウェーデンのトロルヘッタンでサーブ9.3と同ベースのキャデラックを製造、中級車まではリュッセルスハイムでとなれば、本拠地の解体は一先ずお預けとなりそうだ。しかし合理化の進め方によっては、今後も昨年末に続きスト突入もあり得る。ドイツの一般論調は、「GMは欧州における質の重視を無視している。」と云うことだが、さてどうだろうか。世界戦略での共同購入と市場に近いところでの組み立ては今や常識だ。部品などはどのブランドも同じで、メーカーにはただ商業的・技術的調整力が問われる。大工場を持ったPCメーカーと殆んど変わらない。共通シャーシから、エンジン、変速機に安全装置まで全てを安く共同購入して、出来る限り接着剤を使って組み立てられる。カロセッリーも溶接を減らして接着する傾向は、今後も増える。GMの場合は、更にフィアットなどの内部に問題ある企業を傘下におさめこれを中央が管轄していくだろうから、市場にあった製品開発や品質管理こそが問われる。ある意味、オペルでは消えて久しいドイツのクラフトマンシップを侮辱するようなこの救済策にこのブランドのイメージの再喪失がなければ良いと願う。
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冬の夕焼けは珍しいか?

2005-01-12 | 文学・思想
今年の空は、暖かいので例年のそれとは少し違う。「夕焼け」でドイツ文学サイトをサーチした。出てきたのは1788年生まれのヨゼフ・フォン・アイヘンドルフから1932年没のグスタフ・マイリンクまで数人である。これはドイツロマン派初期から超自然主義の奔りまでの間に相当する。

フォン・アイヘンドルフの詩は、手を取り合って野山を歩き回った後の一時を写す。安らかな夜を待ち受ける時、全てが深い谷に死のように静まり返っていく風景。秋と思われる。彼が何回も詠んだ夕焼けの風景は、生地のシュレージン地方やボヘミアだろうか。夕焼けに時は止まり、朝の清澄が漂い続ける時と語る。ハレからハイデルベルク大へ進んでアルニムとブレンターノに出会った時期のような気もする。彼らが疲れた足を引きずる風景は、何となくオーデンヴァルトの小道の風景に重ね合わせる事が出来るからだ。

ベティナ・フォン・アルニムは、「魔法の角笛」を纏めた兄のクレメンス・ブレンターノと有名な夫を持つ。それとは別にゲーテ家との親交やグリム兄弟の業績の振興でも活躍した。彼女においては、浜辺の夕焼けに高揚した思いに遠く離れた山にひばりと男の賛歌を響かせる。

ハインリッヒ・ハイネは、デュッセルドルフ出身でボンに学んだ。だからライン河には特別な思い入れがあったようである。ローレライだけでなくボンはバット・ゴーデスベルクのドラッヘンフェルスの夕景を詠む。いくらかゆったりとしたラインの水面に反射する夕焼けの古城である。この情景を自ら最盛期のロマンティックと呼ぶのが面白い。

E・T・A・ホフマンは、ベートヴェンの交響曲は我々を樹木の茂った林(林苑)へ誘うと表現する。子供たちが踊り、彷徨い、笑いながら木々や薔薇の木の陰で、花に包まれて裸で横たわるパラダイス的情景。夕日に輝いてあるがままに時が止まり、夕闇は訪れない。なぜならばそれ自体が夕焼けだからだと。モーツァルトは精神の深みへ誘い、恐怖が我々を包み込むと較べる。

ライナー・マリア・リルケにおいては、冬に病気で篭りがちな学生が春になって少しは元気になって出てくる。妹たちが夕焼けまで歌って遊んでいる風景。早春の昼の温もりが消えていく様子。子供たちの頬が赤く染まり、仄かに熱を発散するようだ。そしてある少女との親密な情景へと連なる。

フーゴ・フォン・ホフマンスタールは、日没までの情景を小文に丹念に描く。狭い路地に行き当たった、古い壁をはしる女性の目線を追っていく。窓枠や建物の此処彼処に影をつけていく描写は素晴らしい。小さな橋の湿った丸天井に頭を低めながら潜る。周りには年寄りはいない、いるのは泳ぎに来る裸の子供である。そして雲ひとつない青天井の広場に出る。それを囲む宮殿に夕焼けの気配。

グスタフ・マイリンクは、「プチブルジョワの魔法の角笛」などを書いて、後年仏教に改宗する。彼が描く孤独な変人は、窓から秋らしい薄暮を覗く。暗く固まった雲の動きを、遥かに見えない大きな手による影遊びのようだと表現する。霧の先に隠れた悲しい夕焼けを見る。西の空の雲は降りて霧の隙間から星が輝く。男は神がかり的になるが、男が全てを確りと見届けた訳ではないと語る。

以上、幾つかの例を垣間見た。これをもってこの期間のドイツ語圏での夕焼けの文化的意味など探る事は出来ない。しかしこれだけでも多くの共通点と同時に様式に関わらず其々作家のまたは時代の個性が見つかる。それ以外に季節感も面白い。詩の愛読家にとってはこのような作業は今更つまらないかもしれないが、生憎そのような趣味を持たない者は、この様なネットサーチ文学散歩が面白い。小説等もキーワードからその文体が分かり、興味を持つことも出来る。読書習慣の無い者にとって短い文章の中での情景の把握は、どんな言語であろうとも速読の練習になろう。ネットで沢山の古典を無料公開している文学サイトは増えてきている。これをそのような門外漢が有効に使わない手はない。そして何よりも喜ばしいのは、今まで知らなかった事に巡り合える幸せと、己の無知に気が付くときだろう。
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公共堆肥から養分摂取

2005-01-11 | 
クリスマス前になるがボン劇場で舞踏劇のプリミエーがあったことを文化欄で知る。三年前にプァルツの自宅で自害した、疑惑の渦中にいた前首相の夫人をタイトルロールにしたものであった。この期間とその政治家の存在を考えると時期尚早ではないかと感じたが、「伝記的な内容に新しいも古いもない」とこの有名な振り付け師ヨハン・クレスニックは言う。ナチスの両親の下に1933年にベルリンに生まれたこの政治家夫人をその死まで描く。彼女は、ハイデルベルク大出身のカトリック青年政治家が統一の首相となり政治権力の頂点に君臨して臆することのない政治手法への傾倒と数々の腐敗にまみれて頂点から転落するまで、この老政治家の夫人として公的生活を送る。プロテスタントの彼女の告別式は、カトリックのカイザードームで盛大に行われた。その露出度から公的ではない私生活面でも興味を持たれその最後が大きな関心を呼び、今回も遠方から大勢が公演に駆けつけている。

この政治家が在任中は、重要な世界の首長が全てプァルツの休日に招待された。そのコースも、ボンからズパイーヤーの空港に着陸してカイザードームを見学して、ハムバッハー城で記帳して、昼はダイデスハイムで名物料理を食べ、それから自宅へ招いて寛いでから、宗教会議で有名な荘園ヴァルムスの空港からボンへ帰って行った。その行程をこの政治家夫人はいつも卒なく付き添った。この期間、名物料理ザウマーゲンは必ずお昼に出されて世界の指導者の胃袋に納まった。一時は「ザウマーゲンを知らぬものは世界の権力者にあらず。」であった。このソーセージの腸の代わりに胃袋を使ったジャガイモ入りの豚ハンバーグは当時首相ステーキと呼ばれた。この政治家が黒い森から呼び寄せたコックは、一時は錚々たる来賓だけでなく英国女王のザクセン旅行にも帯同した。今は場所を変えて他所で営業をしているこのコックの許へ自害した夫人は、死の直前までワイン街道を訪れていた。

プァルツからバーデンさらにフランス国境のザールランドでは、ジャガイモをクロンベーア(CRUMBEERE)という。標準語はカルトッフェルなので、この方言は辞書には載らない。直訳するとフランス語のpomme de terreに似ている。地面とか堆肥の果物とか葡萄とか林檎とか云う意味である。16世紀の半ばに南米から輸入されてやって来たこの植物も、時を隔てて大地に根付いた。18世紀初頭の食糧危機を救い、1756年にはプロイセンのフリードリッヒ大王によってジャガイモの耕作が命じられた。

さて上の公演だが、批評はスキャンダラスなシーンや前宣伝法に関わらず概ね好評である。「事実の再構築における分析力の欠如」との批判に対して、クレスニック氏は「芝居だから当然」と答える。何よりも挑発的な内容ながら、上演を可能としたのはその事件に迫り抽象化出来る能力と自らが批判するモデルに対する十分な配慮であろう。しかし政治家の政治母体は政治キャンペーンとして受け取り、これを批判している。それにしても今や小さな都市ボンでこのようなものを上演出来る事に驚く。「誰も語らなくなったからこそ、こうしたものは価値が有る。」という観衆。長期にわたる首相在任期間の業績は、大地に根付いて、幾つかは地縁となっている。誰もが関心を持っていてもあまり報道されなかったり、事柄が報道し難いこともあるようだ。こうしてスキャンダラスに舞台化されることでタブー化を防ぎ、事件を対象化するために十分に機能するだろう。学力低下を防ぐために学校からの劇場訪問を義務付ける動きがある。このような劇場活動ならば、あたかも公共の堆肥のように公的資金で援助しても社会に還元されるものは大きい。大地は絶えず耕さなければならない。
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アトリエのアルブレヒト・デューラー/Albrecht Duerer in Gehaeus

2005-01-10 | 文化一般
2004 03/13 編集

ニュルンベルク城壁下の角家デューラーハウスの当時の様子が最近明らかになった。500年後にも自己の創作は残ると予言した金細工師出身の画家。彼は、既に1509年に後期ゴシック風からルネッサンス風に改造されていたこの家を取得した。イタリアルネッサンスを吸収して故郷へ戻って二年経った。自由な芸術家としての生活を始めるために親の職人屋を出て、町人貴族風の堂々とした家に移ったのだった。時代と感性は違うが、芸術家の自負の表出としてゲーテがヴァイマールで立派な家屋に住んで豪華な馬車を走らせたのと双璧と云われる。今から二年前に偶々美術館入場口の拡張のために内壁を剥がされた平土間は、当時も大広間として改造されていた。そのため砂岩で二階まで外壁が積まれ補強されている。元々は木組みであった。二階には、厨房と大きなかまどのマントルピースに加え便所を新設した。この改造は、無許可建造を理由に近所の苦情となりデューラーは罰金を払う。こうして北側の大きな煙突暖房と共に、当時としては一級の快適を得た。アトリエは、三階の大きな窓がある東北のやわらかな光り溢れる角部屋という。

1513年から1514年に「書斎のヒエロニウス」が描かれた。まだ若いルターが学位を取った頃で、最初のドイツ語訳聖書はまだ20年以上待たなければならない。ヒエロニウス(370年頃モーゼルのトリアーにても修道)は、初めて聖書をギリシャ・ヘブライ語からラテン語に訳した聖人である。禁欲な隠遁生活ながら刺を抜いてやったライオンを手懐け思う通りに操ったと言われる。聖ヒエロニウスは、宗教改革前後にデューラーのみならずルターの友人のクラナッハ等の多くの画家によって描かれている。様々な「書斎のヒエロニウス」が存在する。

失脚した元首相ヘルムート・コール博士の書いた伝記的反論の刊行が話題となっている。出版に先立ちFAZの記者がワイン街道から10kmほどの自宅を訪れた。地下の書斎の机の上に見付けたのが、デューラーの「書斎のヒエロニウス」の写真だった。現役時代もここからボンへと遷都後はベルリンへも通った。ゴルバチョフと父ブッシュを筆頭に殆どの国家首脳をワイン街道と自宅へと招いた。ハイデルベルク大出身の青年カトリック保守政治家も権力の頂点を極めいつしか疎まれた。そして今日、その後任者も権力の黄昏にある。
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アトランティックの夕焼け

2005-01-10 | 生活
中欧の冬は、高度千メートルから二千メートルにかけて雲が懸かる事が多い。これは雪雲で、摂氏プラス3度以下になると雪がちらつく。その雲を通り越して上に出ると多くは蒼い空が現れる。11月から2月にかけてはこのようにして雪が降り、晴天の場合は全てが凍りつく。しかし今年は暖冬で、本日も高度二千メートルを越えてやっと零下と中央スイスのスキー場も暖かく依然雪不足のようだ。今年は2月7日が薔薇の月曜日なのでカーニバルとなり、通常それ以降は雪は降っても厳寒とはなりにくい。今まで地面がそれほど冷えていないので雪が降っても比較的早く消えると思われる。

この時期に航空機を利用すると、その雲を突き抜けて上空から厚い雲海を眺める事になる。17時30分頃には南西の空は、アーベントロートに染まる。大西洋上空は未だ明るい。高度一万メートルから俯瞰する中欧は平面的にコンパクトで、その多様性と高密度を今更ながら想う。今年こそ厳しくはないが、それでもある種の緊張感無しには冬を乗り越せない。そのための秩序だった生活と倹約精神が文化の密度のなかで継続した発展を可能とした。近隣諸国との切磋琢磨同様に今後は近隣文化圏との緊張関係が、動的な明日をもたらす事だろう。モルゲンロートに染まる南東の空を三億の人々が待ち受ける。
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あの日の町の光景

2005-01-09 | 生活
有名な街道筋を車を走らせて、助手席に乗せた固定カメラから窓外の光景を流すTV番組があった。解説もナレーションも字幕もなく、車内の音が映像と共に伝えられる。制作費が掛からない。通常番組終了後の深夜に、第二放送が流していたように記憶している。車窓の風景を写すだけの趣向ならば決して珍しくないのだが、すべてがリアルタイムで基本的に編集されていない。つまり街道の一般道を走り通すのに二時間ほど必要となる。見かけたような交差点で信号待ちをしている情景を、寝る前に前触れもなく観ると気になってしまう。その場所が分かるまで目が釘付けになる。

予告も再放送も殆んどなかったが、ある日ドイツワイン街道B271の光景を画面に見つけてしまった。自分の生活地域の街道が映ると、少しの特徴も絶対見逃さない。殆んど自分が運転席にいるような錯覚のうちに、車は我が家の前を通り過ぎていった。近所の顔見知りやもしかすると自分自身が知らぬ間に撮影されているのではないかと、季節や時刻を沿道の飾り付けなどから推測する。道路工事や沿道の建設の進み具合で撮影の時期が結構詳しく分かる。普段は無意識のうちにやり過ごしている事が全て入力されているのに気が付く。

本日、風は終日強かったが暖かく、一時間ほどだがワイン畑の中を歩く事が出来た。風が視界を開けて、ラインの平野を隔ててハイデルベルク城が40キロ先に見える。今年はアイスヴァインの収穫はなさそうだ。暦からすると氷点下になってもあまり長くは続かないだろう。久しぶりに身体を動かしたので、寝不足も祟ってPCの前でついコクリコクリとしてしまう。
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旧年中の動画と文化的時差

2005-01-08 | 文化一般
デジタルカメラは動画を撮るために入手した。予想通りヴィデオ撮影機代わりに使って大変重宝している。カメラ付きの携帯電話も増えているようだが、加入システムの関係で当分は使う事は無いだろう。写真撮影のときも比較的ハイクオリティーで写し、枚数が予想される時はノートブックに落とすようにしている。動画の場合も時間の長いものを写す事は限られているのであまり不自由しない。

面白い動きのある被写体や撮影者が動いている場合、動画は静止画とは違う情報を伝達出来るだろう。しかしそれにも勝るとも劣らず音の情報は多くをもたらす。これを臨場感と云うが、衛星放送で時々あるように音声情報と映像情報が時間差を持つとその反対に落ち着かない。普通の人は、ある限界を超えるとこの時間差を自然に修正して情報を追うことが難しくなる。光と音の速度差は必ずあるので、反対に時間差があまりに無いと異常に気が付く。

フランスのブルボン家とオーストリーのハブスブルク家の時世と衰退、その後の其々の市民社会の勃興と発展に文化的時差をみる事が出来る。アンシャンレジームというように時計の針を人為的に逆回転させたような社会が、このような文化的時差を生んでいるらしい。追随者リヒャルト・シュトラウス作曲、ホフマンスタール作のオペラ「薔薇の騎士」がマリア・テレージアの時代を扱いながら、100年後のヨハン・シュトラウス時代のワルツを模倣しているのはよく知られている。これは、この時代の文化的時差を芸術的にうまく表現している例でもありそうだ。

仄かな差こそが趣であり、大きな差は支離滅裂以外のなにものでもない。一年前の新年の花火と打ち鳴らす鐘の響きの動画を観て、どちらの感が強いだろうか。
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水がワインになった奇跡

2005-01-07 | ワイン
ワイン街道に移り住んだ当初は、アルコールの飲み方が分からなかった。マンハイムなどで昼間開けているレストランでは、オフィース街に係わらずビールを飲む勤め人が目に付いた。語学学校に通う間も宿題を携えて家に帰る途中、だから昼飯を食べながら飲んだものである。これが普通の生活と考えていた。その後、独大手企業などでは、流石に食堂では菜食などの合理的な昼食が賄われたが、特に営業畑の人間は場所を変えて昼から酒盛りを始めていた。更に社用で少し重いものを食べた後は、皆シュナップスを引っかけて消化器系の健康に気を使っていた。いつの間にか昼から飲む事に抵抗がなくなっていた。ある日、後に某国の独駐在大使となる友人に注意を受けた。どうも昼に飲酒して夜にはまた迎え酒をしていたので、アルコールが体内に残る時間が多くなって倦怠感が出ていたようであった。宴会で飲んでいるように見せかける外交官心得なども習った。つまり量は少なくても昼に飲酒すると依存症になる可能性が高まるという事である。低アルコールの少量の飲酒は自覚症状が少ないので始末が悪い。自己審査するためにもその後は出来る限り休肝日を設けるようになった。

ワイン街道では、警察の署長さんでも私服になればワイン祭りで一杯引っかけて車を運転する。血液中のアルコール濃度の規制は可也厳しくなったが、事故を起こさない限り酒気帯び運転は許される。夜中の町の飲み屋から車を出すとパトカーに尾行される事がある。家まで帰って無事玄関に姿を消すと何もなかったようにパトカーは姿を消すらしい。飲んでいる運転手も緊張と酔いに手に汗握る。酒気帯びで事故を起こせば全てが不利に働く。更に飲酒運転していると事故の場合の保険が降りない可能性がある。二十四時間前からの飲酒の量が問われる。ドイツの交通事情は、対人事故の可能性が少なく、整然としているので規則さえ遵守すれば比較的安全である。麻薬や心理的動揺と並びアルコールは、この遵法精神を最も脅かす要因となっている。

カナの婚礼の奇跡ではないが、昨日汲み置いた湯冷ましの水がワインに変わっているのを密かに期待した。一昨日からその出来具合を楽しみにアルコールを飲んでいない。クリスマス前の風邪引きから麻酔代わりにアルコールをついつい飲み続けていた。そして此処数日間は、熱が引いたのになぜか咽喉の渇きを感じていた。昨夜の電話では咽喉がもう一つスッキリしなかったが、今日の昼の電話では快声を指摘された。残念ながらワインの奇跡は起こらなかったが、断酒のお陰で体調は好転した。夕食に注いだ昨晩からの水が美味しかった。
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新年の門付け

2005-01-06 | 
一月六日は御公現の祭日またはエピファニーとして、バーデン・ヴュルテンベルク、バイエルン、ザクセンアンハルトでは休日である。このキリスト生誕から12日目に当たるこの祭日は、四世紀まで12月25日のクリスマスと分かれていなかったらしい。元々多神教的な祭日で、時間と永遠の神アオンスの生誕もしくはディオニソスが水をワインに変えた日といわれる。それがキリスト教化してキリストの洗礼とカナの奇跡の日となった。ヨハネスによる福音2.1の「カナでの婚礼」でワインが空になったので水瓶のいっぱいの水をワインに変えた奇跡が記されており、それを味見をした責任者は「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものだが、.....」と語る。

マタイオスによる福音2.のヘロデウス王の下に現れた東方からの「三人の占星術の学者」の話を「三人の王の祝日」と云うようになった。この遺骨は、1164年にミラノからケルンへと移されて巡礼の対象となった。この特別な星の下に生まれた男の子を探し当てる三人の天体観測と行動を、現在も行われているダライラマ探しに重ね合わせる向きもあるようだ。この三人はカスパー、メルヒオール、バルターザーと名づけられて、其々の世界の地域担当が定められた。各々アフリカ、欧州、アジア地域となる。

この祭日に向けて、子供たちが王になり大きな星を持って家々を訪ね歩き歌って門付けをする。これが何とも可愛らしいので毎年楽しみにしているのだが、昨日数年ぶりに都合がついた。新年の祝福を受ける。比較的簡素で凝らない衣装が形式に拘らない門付けで良かった。子供たちの少し緊張した余所行きの表情と垣間見せる無邪気な表情の落差に、大人は大きな満足感と幸福感を感じるのである。この活動をシュテルンジンガーと呼ぶが、今年は津波被災地への献金も聞いている。門つけの印に玄関や門にC+M+Bと年号を書いていってくれる。これは<Christus mensionem benedicat>と読み「キリストがこの家を祝福する」という意味だ。しかし普通は上の三人の王の頭文字をこれに当てる。残念ながら白墨で白い石のアーチには書けなかったので、門塀に新しく書かれた。生憎小額紙幣がなかったので少し大きなのが出て行ってしまって懐が痛かった。子供たちへの感謝の気持ちを込めて、外食一食ぐらいは我慢しよう。
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水車小屋のある風景

2005-01-05 | テクニック
なんとなく水車のイメージを持っている人は多い。風車が現代的な発電に積極的に使われるようになったのとは反対に水車は水力発電タービン等を除けば実用から遠ざかった。元々水車は山間や水量のある小川でひっそりと粉引きや皮のなめしや製材等に使われてきた。現在も南ドイツにはこのような小屋と、鉄輪で補強されて廻されていたりする物が残る。

構造は、高低差がある地形では水を樋で屋根の高さに引っ張ってきたものを落とす重力タイプと平野部に多い川の流れを利用した水流タイプがあるようだ。前者はシュヴァルツヴァルトに多く、後者はプァルツに見られる。その多くは、ミューレが示す地名のみを残していたり、その場所に賄いの店しか残っていない。しかしその数から、その昔は到る所で利用されていた事が計り知れる。水車や風車は、人力以外に家畜の助けしかなかった時代に大きな仕事を生み出した。

小規模工業から近代工業の変遷後においても、あるシュヴァルツヴァルトの水車は世界最初のスキーリフトに利用されている。250メートル離れた地点までワイヤーによって動力が導かれていた。電力の供給後も稼動していた水車は多いという。

シューベルト作曲の詩人ヴィルヘルム・ミューラー(粉挽き)作詞「美しき水車小屋の娘」のテキストを思い出すまでもなく、水車のイメージは特に具体的なものでなくて悠久の流れに幻想的にコトコトと回転する。水の流れの恒久感と回転が永久運動を連想させて、非日常を現出させるようである。
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