Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

初雪の待降節第三主日

2018-12-17 | 
冷えると思ったら、雪が積もっていた。初雪である。週明けに出かける予定はないが、このままホワイトクリスマスとならないのが常で、今年もクリスマスにかけて気温が急上昇する予定である。肉屋が閉まるので年末年始の発注もしておかないといけない。日曜日のヴィーンからの生中継も次の放送はノイヤースコンツェルトと予告していた。

待降節三週目になると流石に広場に楽師が呼ばれていた。三時間以上粘っていたので、流石にレパートリーが無くなる。それだけでなく繰り返されるとアレンジの悪さまで暴露される。今年は主催者の関係かスイスのアルペンホルンまで来ていたがとても下手だった。ゲストまで下手となると意気が上がらない。村の音楽隊のように地味に素朴にやるのにもいいセンスが欠かせないことがよく分かった。流石に音が邪魔になってくる。それでも生音だと許せるものだ。

広場でも話していたようだが、例年のクリスマスストレスを一時忘れてとなるようだが、そろそろ追い込まれてきた。先日2017年度の税金申告書類を片づけたところだ。いくつかの年末決算もある。ありがたくない日々となる。そこに今年は年始でハムブルクへ出かけるので更に準備に忙しくなる。更に新聞を読むと面白いオペラ評が出ていて、暇であったら近場なので出かけたと思うが、流石に難しいと思う。

何よりも音楽のお勉強が増えるからだ。「影の無い女」が結構堪える。ミュンヘンで出かけたときは2014年秋にスキー靴を作りに行っての序でにスコア席に立っていたから、今のようにそこまで準備していない。五時間もあるオペラの楽譜に目を通すだけでも大変だ。

同時に「春の祭典」で、ベートーヴェン一番も始めておかないと追いつかないかもしれない。前者は印刷したものが手元にあるので何となく見慣れていて、それだけでも心強い。そのあとも一週間ほどしか時間がない。つまり、モーツァルトの協奏曲も楽譜だけは落とした。そして「フィデリオ」までは準備した。これだけの量を私のような凡人が本当に熟せるのか心配になってきた。

クリスマス、年末年始だといって飲んでいる時間はなさそうだ。一体全体身につくかどうかわからないようなことに時間をかけてどうなるのかと不安にもなる。先ずは時間を消耗することでしかないからだ。



参照:
待降節の漣のような忙備録 2010-12-18 | 暦
待降節の断食と猶予 2006-12-20 | 暦
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影を慕ってハムブルク

2018-12-16 | 文化一般
朝は寒かった。早朝から目が覚めたので、前夜に解決しなかった宿探しなどをしていた。出かけるには冷え過ぎたので、一度床に戻ってから出かけた。鬱陶しく、寒い。峠へと林道を走り出すと上から森の小屋かららしい車が下りてきた、横を走り抜けようとすると、車が止まって窓が開いた。前日に猟犬を探していた親爺だ。森の中で仲間が見つけたと話した。六時間以上も居なくなっていたんだと、やはり一寸間抜けな話をしていた。駆け足をしながら、「それはやれやれ」と言って別れた。あまりにも寒かったのでパンツのままで走ったが、峠から降りるときに霜を踏んだ。寒い筈だ。走り乍ら考えていたのはハムブルク行のことだった。

ケント・ナガノの「影の無い女」最終回に出かけることにした。宿も高くなったが、二連泊するので価値はあるだろう。そして何よりも火曜日に五時間以上車を走らせて、明くる日の帰路五時間は辛いだけだ。一日でも北ドイツでゆっくりしたい。五時間の長丁場でもそれほど力を入れずに観劇すればよい。とは言いながら、面白い席があったから購入したので、齧り付きのロージェである。ハムブルクの劇場のその戦後の民主的スタイルのその座席構造は、似たものではドィツェオパーベルリンのは知っているが、外から見たことしかなくそこに座ったことがなかったのだ。やはり私にとってのハムブルクはブラームスの生家とかの一帯と、この劇場とライスハーレはやはり欠かせないと思う。今回はエルブフィルハーモニーでペトレンコ指揮の翌晩に偶然に音楽監督が成功作を振るとなると好機に違いなかった。

それにも拘らず躊躇っていたことには触れたが、もしこれがティーレマン指揮だったりすれば文句をつけに冷やかしに出かけるのだが、ナガノの場合は恐らくペトレンコの次に多くそのオペラ指揮を聞いている音楽家であり遥かに複雑だ。要するに私はファンなのである。ヤンソンスか、ナガノかが当時のザルツブルクであり、私は勿論ナガノ派だった。それ以降もメルケルが来ていた殆どこけら落とし公演のようなメディア化されているバーデンバーデンでの「パルシファル」も聞いている。しかしその後のミュンヘンでは一度も行かなかった。新聞評などでもこれといった成功をしていなかったことが原因で、やはりこちらが期待するほどの成果を挙げていない限りは聞きたくないというのが本当のファン心理なのかもしれない ー ペトレンコ指揮「ディゾルダーテン」のそれは全く異なる絶賛だった。

2017年復活祭のクリーゲンブルク演出の初日の評価は、フランクフルターアルゲマイネ新聞では少なくとも管弦楽に関しては大変評判が良かった。これまた複雑な心境で、ミュンヘンのそれに比べてどうだろうかと異議を挟みたくなるものだった。そして今回改めてトレーラーを聞いても豪快に鳴らしていて、歌手とのバランスなどとても気になるのだ。それに引き換えミュンヘンでは今の演奏水準に比較するとまだまだ甘いのが録画からも聞き取れる。言い換えれば、ハムブルギシェスシュターツオーケストラというのがどの程度かは改めて確かめてみたい。そして齧り付きでナガノのオペラの指揮を現在の視点で再び吟味してみたくなったのだ。

歌手陣もミュンヘンのことを考えると英語圏の人が多く、その差は大きいが、今回はバラク役をヴォルフガンク・コッホが受け持つ。これだけで引き締まりそうなのだが、九月に休演したミュンヘンの敵をハムブルクで打つとは、あまり期待しない。兎に角、全体のアンサムブルにも初日メムバーでの再演ゆえに期待したい。

今後ハムブルクの劇場に足を踏み入れるとしても、ナガノが好評なうちは可能性があるとしても、それ以外にここに就任しそうな魅力的な音楽監督はと思うとあまりにも心許ない。それなら先ずはその仕事ぶりを生で確かめるのもファンのお務めだ。先の「フィデリオ」の放送やその後の評価を聞くと、悠長に機会を見ていては手遅れになるとも感じていた。ミュンヘンで機会を逃したようにである。キャリアを順調に積み重ねてきて、一度落ち目になると皆が叩き始める、やはりそうしたときにこそしっかりと見定めてあげなければいけないと思う。楽譜も一度目を通しておかないといけないかもしれない。

ボーヌの街から北西に位置するサヴィニー・レ・ボーヌの2015年物を開けた。ボーヌのそれは寝かすにしてもあまりに重くエレガントさを期待できないので好まない。またサントネとかの街より南の地域のものはあまりにも軽くあまり価値がない。そしてこれはそれらよりも良かった。エレガントな風味は申し分ない一方、あまりミネラルの深みは求められそうにはない。方向としてもサンジョルジュかそちらの傾向だとは分かった。価格も手頃なので、まあ悪くはないだろう。



参照:
ハムブルク行の計画 2018-12-15 | 生活
腰が張る今日この頃 2018-02-07 | 文化一般

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ハムブルク行の計画

2018-12-15 | 生活
天気が悪く薄暗い、遅めに森の中に出かける。公務でないような車が林道を走っている。降りてきてパンツをはいていると横に停まって話しかけてくる。犬が居なくなったので探しているようだった。朝早くに居なくなったというのだが、猟犬にしては不思議にも思った。呼ぶ笛も何もないのだろうか?詳しくはないが、結構な犬が道に迷って迷子になるなどあるのだろうか?少なくとも飼い主のところへは戻ってこれる筈だ。そんなに頼りない犬が猟犬など務まる筈がないと思った。飼い主もそれらしい服装だが、これも何か猟をするような臭覚の鋭さを全く感じなかった。何か間抜けな飼い主と猟犬が離れ離れになったようで心許ない。寒い夜を乗り越えられるのだろうか?

NASに導入したWDのシステムの速度が遅くて、様々な調整を試みていた。しかし埒が明かなかった。あまりに反応が鈍いのでLANケーブルを抜いて違うところに挿してみた。一か所はISDN経由だから赤警報が出た。今まではLAN1だったのでLAN4に入れた。これだけで快適にデータ交換が可能になった。そもそも新しいルーターでは一切ケーブルは使っていないので理由は分からないが、LAN1は何らかの理由でデーター類が詰まっていたことになる。このハウエェー製のドイツテレコムの商品は同じようなことが最初からあったので余程微電流がどこかに流れ続けるかの構造像上の欠陥があるのかもしれない。それとも中共によって最初から時限爆弾がインストールされているのか?

ボンのベートーヴェンフェストから案内が入っていた。ギルバート指揮NDRやエマールのリサイタルなど、全く冴えない。今年は成績が悪く赤字を出していたようだ。しかしヴァークナー博士の責任にまでは言及されなかったのは、現在の仮の会場のアコースティックの評判も悪く仕方がないとされたからのようだ。そもそも改修中のベートーヴェンザール自体が独特の会場で現在の世界の音楽会場からは差がある。決して、音響が悪い訳ではないが、平土間の視界も悪くて、直接音が前の人に吸われているような感じがあまり良くなかった。それで一時は本格的な新会場へとの動きもあったらしいが、予算やら今後の可能性から補修に留まるようである。

嘗ての連邦共和国の大統領府などいくつも音楽会場に使えるような場所がありそうなのだが、上手に使えている様子がない。ヴァークナー博士の芸術的な見識は疑わないとしても、その行政的な特に山師的な企画力は殆ど無いようにしか思えない。パスキエ夫人にしてもアーティストマネージャーであり、中々この一人でという才人がいない。なにか楽匠の能力がその子孫の数だけにバラバラに授けられたような感じがする。子孫が10人集まっても到底適わないような雰囲気である。

ハムブルク行まで三週間ぐらいしかなくなった。今頃になって何か序でを探している。ここからハムブルクは遠く、そこまでいけば滞在費を出してもなにかをしてきたい。しかし冬の寒い時であり、出来る限り室内で用が足りるとなれば、コンサートや劇場である。昼間少しぐらいは歩き回れる。ざっと見ると劇場はオペラで「影の無い女」最終上演は翌日にあり、一晩帰路で安いところに宿泊すれば殆ど金がかからない。一日ハムブルク観光が可能だ。しかし、会場にも興味があるが、私にとっての「影の無い女」はハムブルクの日本公演のものなので比較的評判の良かったケントナガノ指揮ぐらいでは物足りない。ミュンヘンでもコッホらの歌を堪能したので今更の感が強い。更に長い楽劇だから下手な演奏だと退屈して気分が悪くなる。歌手もアジア系の人が半分でドイツ語にも文句が零れるに違いない。そもそもナガノのドイツェオパーには違和感が強い。
Die Frau ohne Schatten - Richard Strauss

"Falke, Falke, du wiedergefundener" from DIE FRAU OHNE SCHATTEN - Conductor: Kirill Petrenko


今しばらくはエルブフィルハーモニーのお蔭で盛り上がっているのだが、ハムブルクのコンサート水準はフランクフルト程度で、今後も各都市共通のプロアルテ巡業程度のエンタメしか期待できない。NDRの交響楽団の程度は皆知る通りで、嘗ての会場ならば逆に面白かったかもしれないがエルプフィルハーモニーで聞くほどの価値がない。近辺の都市も探したがハノファーなどはマンハイムよりも程度が低いぐらいで、ブレーメンに足を延ばしても何を期待できよう。要するに北ドイツで態々出かけなければいけない劇場や大コンサートは本当に限られる。劇場に関しては当然のことベルリン以外ではやはり殆どないに等しい。せめて美術館だけでもと思うがこれも中々見つからない。ハムブルクならばアムステルダムの方が価値があるだだろう。日本でいうと大阪程度だろう。正直移住する前はミュンヘンとハムブルクは同程度と考えていて、劇場もコンサートも選り取り見取りと思っていたが、精々メトやロンドンに匹敵するクラスを考えるとこうした有様だ。

兎に角、今年「ペトローシュカ」を復活祭で聞いて、ハムブルクで「春の祭典」、ルツェルンで「火の鳥」と皆異なった管弦楽団と指揮者で三部作を聞くことになるので楽しみだ。

ミュンヘンで購入したトルテの初めてのはコーヒー豆の乗っているものだった。これも淹れたてのコヒーと合ってとてもよかった。



参照:
隠されている問題 2018-04-19 | BLOG研究
予定調和ではない破局 2018-01-31 | 文化一般
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
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大団円への大芝居

2018-12-14 | 文化一般
昨日の朝の車中のニュースはストラスブルクのテロ事件関連もあった。あそこのクリスマスマーケットがいつも狙われているのは分かるが、放送エリアでは国境を超えて通勤している人が多い。そして犯人らも先ずは国境を超えるなどの逃走をする。同時に国境も検問がなされる。交通の混乱が起こるのは当然で、平素は徐行だけで済む箇所が90分ほどの待ち時間になっているということだった。クリスマスマーケットどころか経済的な影響も広範だ。

承前)新聞にスカラ座の「アッティラ」初日の評が出ているのを読んだ。そこでも話題になっているのはアルプス以北では無いオペラの位置づけであり存在だ。そこが今回の「オテロ」でも最も語るべきところである。そこでその三幕の演奏について記録しておかなければいけない。デスデモーナとオテロの夫婦の対話が始まりカッシオの名前が出ると文字通りアレグロアジタートとなるのだが、そこからの目くるめくテムポの転換こそがまさしくヴェルディの音楽的構造である。それに続いてオテロの独唱へとこの作品のハイライトとなる。その後のカッシオの夢物語から既に触れていた三重唱への収まり感が、エピソードでもある大重唱や短い四幕へと続いて行くのは当然のことである。ある意味クライマックス後の筆捌きにヴェルディの後期の腕が見えるのかもしれない ー 実際そこでの滑稽味は「ファルスタッフ」の持ち味である。

ガイダンスではこの構造に関しては話題にはなっていなかったが、少なくともキリル・ペトレンコ指揮の管弦楽が最も電光石火の演奏を繰り広げたところでもあり、流石のこの両者の関係でもこのような打てば響くようなムジツィーレンぶりを示したのはボンでのチャイコフスキーの五番から火花散る「ルスランとリュドミラ」序曲のアンコールにおいてしか知らない。どうしてこのように上手く行くのかと不思議に思っていた。

当夜はマイクロフォンがないゆえの思い切ったアゴーギクの効かせどころでもあり、楽譜上はヴァークナーのように音楽的にではなく、休止などを挟む形となっているので、度重なる加速減速は必ずしもそうした音楽的な腕の見せどころではなく、むしろありふれた劇場指揮者の職人的なマネージメント能力に頼っているだけに過ぎない。しかし、音楽は流れ、そこに劇が発生するとすれば、その絶妙なテムポの交代が劇そのものに違いない。見方によっては、歌手にも小手先の色付けを許さないほどの反射神経が求められていて、本番で四回歌って身についたものが力み無しに出てくるような演技と歌の素地がそこにあり、特筆しないといけないのはやはりヨーナス・カウフマンのその技巧でもあった。批判されるように声に魅力が欠ける部分にこそ管弦楽がしっかりと支えるような配慮が最初から聞かれていたが、ここにきてオテロの独唱までの流れは本当に魅せどころだった。

フィンレーのイアーゴが記念碑的なとの評価もあったのだが、ここでのカウフマンの歌唱は明らかにハイライトを当てられるたものだった。当然、ハルテロスにも声つくりを許さないほどの反射神経が求められたのである。劇的には夫婦の丁々発止なのだが、音楽的にそこまでのスリリングな劇を感じるのは管弦楽団のそれゆえであり、それが劇的になったということでしかない。こうした音楽と上演の関係はバイロイト祝祭劇場のものではなく、やはりイタリアオペラのそれもヴェルディのものなのだろう。

心理劇で室内劇という評価も、この回の音楽の電光石火を経験すると、全く以ってイタリアの劇の歴史に根差した音楽劇そのもので、家庭劇でありながら大劇となっていたとなる。「運命の力」ならず「音楽の力」である。ヴィデオで観察した演出上の細やかな点も可成り近い席で見ていても全く違和感のない動きとこなれた動作で以って、第一級の芝居にもなっていた。また舞台の色彩も言われたような病的な感じは全く受けなかった。しかしそれでいながら、繰り返すが、この夫婦間の葛藤からこの四幕を残す幕フィナーレの大団円への流れは本当に大歌劇でしかなく、漸く晩年のヴェルディが何を目指していたのかが明白になる三幕であった。(続く



参照:
初日に間にあったSSD 2018-11-23 | 生活
玄人の話題になる評論 2018-11-27 | マスメディア批評
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許容範囲だろうか

2018-12-13 | 文化一般
日本の友人からメールが入っていた。ノーベル賞受賞パーティーディナーのメニューである。彼は外科教授であるから受賞者とは直接の関係は無い筈だ。何事かと思うと、そこに出されたリースリングのアウスレーゼがうちのものではないかという話だ。コール、ゴルバチョフや亡くなったブッシュ大統領の訪れたダイデスハイムの隣の町のワインである。調べると農協さんの甘口だと分かった。通常ならば名門のものが供されるところで、特にバッサーマンヨルダンなどは日本の宮中にも出されまたそこで味をしめた最高裁判事などにも人気がある。しかし最近は高級ワインかあ甘口の割合が減っていることもあり、農協産だった。亜硫酸が充分に含まれているのであまり質はよく無い筈だが、それほど出されるわけでもなく、頭痛にまではならないだろう。

ルツェルンからティケットが届いた。昨年の喜びはないが、心配していた価格が想定通りだったのでよかった。何よりもゲヴァントハウスが尋常の価格でよかった。本年の欧州室内楽団と同じ価格のようだ。他の会場よりも若干高めかもしれないが会場の大きさと音響を考えると可成りお得だ。ベルリナーフィルハーモニカーに足りないものを聞くことが可能で、ヴィーナーフィルハーモニカーから欠けるものはそれほどない。東独の経済的な水準が異なるだけでこれだけのお得な管弦楽需要はないと思う。アンドラ―シュ・シフのピアノまでが付いて、バルトークの三番である。

シフのリサイタルはもう行くことは殆ど無いと思うが、こうしたレパートリーを超一流に弾いてくれればそれ以上にはもう求められない。そして後半は場違いのようなドビュシーの「海」に、「火の鳥」が来る。他の管弦楽団ならどうしてもとは思わないのだが、ネルソンズがこうした重要な作品をこの管弦楽団で振るとなると俄然興味が湧く。もう一つのブルックナーの八番よりも刺激的だ。与えられた券もバルコン二列目なので悪くはないだろう。100フランは音響さえよければ許容範囲である。

しかし、ベルリナーフィルハーモニカーの方もバルコンで合唱団の声が通りやすいが屋根の下に入らないか一寸気になる。クラスを上げただけの価値はあるが、その価格からするとバーデンバーデンでの同じプログラムが如何にお得かがよくわかる。演奏は勿論夏の方が間違いなくよく、こちらも二回目なので細かなところまで審査可能となる。もう一つは金券が付いているので、ロンドン交響楽団を注文するときに一座席クラスをアップグレード可能となる。

そろそろこの辺りで来年への計画だ。先ずは、エルプフィルハーモニーでウエストサイドストーリー舞曲と「春の祭典」だ。お勉強が欠かせない。そのあとに、チューリッヒでベートーヴェンの一番とメシアンの二曲、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲である。そのあとの「フィデリオ」から「レグランマカーブル」を挟んで「ミサソレムニス」である。そこまでを見ながらお勉強計画を立てよう。しかし「春の祭典」はユース楽団とは言いながら結構楽しみだ。



参照:
独墺音楽のコムパクト 2018-09-01 | マスメディア批評
生中継の妙、色々 2018-08-19 | 雑感
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大きなレープクーヘン

2018-12-12 | 料理
夜中に帰宅した。通常ならば午前二時前に帰宅だったが、睡魔に襲われて休み休みで一時間以上遅くなった。仮眠しても駄目な時刻帯である。「オテロ」など休憩一回ならばそれほど長くもないとも考えたが、結局駐車場から車を出した時には22時半を超えていた。

予想された降雪は、引けて出ていた時には止んでいてほとんど影響はなかったが、それでもミュンヘン市内は方々にシャーベットの深い溜まりが出来ていた。しかし高速道路での影響は殆ど無く快調に飛ばしたが、シュトッツガルトが近づいて、午前零時を遠くに過ぎると眠気が寄せてきた。

ミュンヘン、アウグスブルク間では購入したソーセージを二本齧っていて真面な食事をしていない割には元気だったが、なんとなく元気も無くなってくる。エネルギーが足りないのだろう。そこでお好みで選んだ三種類のレープクーヘンの一つに手を付けた。エリゼンレープクフェンと言ってニュルンベルガーの一種らしい。丸くて厚めなのが特徴のようだ。一つ2ユーロほどするが流石に食べ応えがあって、味もその価値がある。少なくとも家まで運転する栄養分は摂れた。

今回は19時始まりで、18時からガイダンスだから月曜に出かけるのにそれほど負担はなかったが、降雪のことを考えて早めに出た。そして来年の「フィデリオ」のティケットを三枚回収してきた。一枚要らないので、一枚は売りに出すことになる。

引き取ってからダルマイールに買い物に寄った。先ずはいつものトルテを四つで20ユーロ近くになった。テリーヌのほかは煮凝りと、レープクーヘンだった。どれもこれも決して安くはないのだが、これは高すぎて価値がないなと思うものは少なくないのがお気に入りだ。

早めに駐車場に戻ってから、服装を整えて、駐車料金を前払いに行った。するとどうだろう、もう窓口ではカードを扱っていない。カードで払うときはミュンヘン市内にあるように暗号番号付の自販機しか使えない。するとカードがどうしても決まってくる。今回は18ユーロ超えと比較的安かったが高い時は25ユーロほどになるのでやはり不便だ。

まだ時間が十分にあるので、ガイダンスへと向かったが、初めて最寄りの入り口に向かうと長い列が出来ていて驚いた。いつもは正面玄関から入って、ぎりぎりに入るだけだが、今回は初めて普通に入場した。その内容はまだ改めて語ることがありそうだ。

劇場ではスープが無くなっていて、仕方がないのでよく出ていたどんぶりのアイスの球を二つ食した。素材も悪くないのが、5ユーロ50の価値はあった。結局一日中、朝食を除いて甘いものばかりを食べた一日だった。



参照:
気に入るということは 2011-12-21 | 料理
十七時間後に帰宅 2018-06-30 | 生活
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やはりライヴに来て

2018-12-11 | 
やはり生でなければ分からないことがある。これはメディアを幾らかは知っている者にとってはとても考えさせられる。ミュンヘンで11月23日に初日だった新制作オペラ「オテロ」を生放送で聞き、録音して、更に12月2日の第三回公演を映像を含めてストリーミングで見てDLした録画を道中流していた。そして第五回公演を訪ねて改めて経験した。ミュンヘンでの初日シリーズをストリーミングの後で出かけるのは初めてかもしれないが、その影響があったのかどうかはよく分からない。なるほど録画したその映像も流していただけなので、正しいメディア需要ではない、それでも明らかにそこに欠落していたものがあったと思う。言い訳をさせてもらえば、その欠落の存在を初めから何となく感じていた。

今回の制作は、「アイーダ」や「椿姫」作曲で有名なジョゼッペ・ヴェルディの晩年の作品「オテロ」であり、そのシェークスピアの「オセロ」との関係にも公演前のガイダンスで若干触れられていた。因みに今回の講者はオペラ劇場のドラマトュルギーを担当しているマルテ・カースティング博士である。ペトレンコ指揮制作の重要なスタッフである。ガイダンスは何度か訪れたがいつもあまりに哲学的に抽象的で全く価値がなかったが、流石にカースティング博士の場合は音楽と演出の双方のドラマを司っているためにとても具体性が話の裏に感じられた。

この制作の価値を測る場合に、その創作の依頼やその工程にまで言及するのはとても重要だった。要するに一度は筆をおこうとした作曲家の再びの創作意欲や動機をそこに想像しないといけないからだ。音楽的に詳しくは来年の復活祭のバーデンバーデンでの準備まで時間があるのでゆっくりやっていく、しかしそうした詳細な作曲技術的なアナリーゼよりも後期のヴェルディ作品を読み込むときにはやはりその「オペラ事情」を考えるべきだ。

簡略すれば、影響を与えたリヒャルト・ヴァークナーはバイロイトにおいて理想を音楽劇場として創作した。それならばヴェルディは、ただそうした音楽的な方法を利用しただけで、ただイタリアの「オペラ」を創作しただけなのか?これが問いかけとなる。

音楽の詳細には一挙には触れないが、キリル・ペトレンコと管弦楽団が劇の土台を形作ったとするような論評は正しかった。これも具体的には分かりにくい表現なのだが、例えば指揮に対して楽団が敏感に判断して出来上がるドラマとは、ヴァークナーではあるのか、それならばヴェルディではと考えるとこれはとても音楽的に深入りすることになる。前日に客演したヴィーンでは全てが無視されているような演奏だったが、流石にここではベルリナーフィルハーモニカーが羨む六年目の関係は只者ではない。指揮に食らいついてくるだけでなく、それ以上に敏感に音楽的な反応がなされる。まさしくペトレンコが理想とする「共にムジツィーレン」がそこにある。

ミュンヘンの座付管弦楽団が、その各奏者が真面目に準備してとかの心構えの問題ではなく、私自身が学ぶことばかりなのでお勉強をして準備するのと同じように、残された機会に如何に多くの音楽を学べるかと貪欲になっているからだ。

具体的には、一幕におけるとてもシャープな不協和とヴァイオリンのピアニッシシモのダイナミックスと音色の相違も甚だしく、予想以上に声が通ったカウフマンのオテロの第一声も決してドミンゴの第一声に引けを取らなかった。その背後にはとても制御された管弦楽があるのだが、その自然な流れ、二幕へと更に淀みなく、自由度とその劇的効果は初日、三日目を上回っていた。その二回との比較すれば、やはりその間にフィッシュ指揮の公演が挟まった影響もあるかもしれない。なにか自由に指揮棒に反応するような見事なもので、楽員の各々が自らの表現意思のようなものを発散させていた。このような指揮者と管弦楽団との関係は今まで知らない。

二幕はとりわけ素晴らしく、ショスタコーヴィッチの「レディ―マクベス」での引用を感じさせる一幕以上に、古典的なイタリアオペラ劇の造形美を堪能した。ヴェルディの扱いは三幕の大掛かりな対位法のみならずに、初期からのそのオペラ劇場的な骨子が音楽的に嵌められていて、シェークスピア劇へと最後の「ファルスタッフ」への道程がはっきりする。批判されていたデズデモーナのハルテロスもその点を留意していて更に修正していたのは確認されたが、それどころか舞台の印象もコケットさをもう少し落としたような感じで、恐らく歌声で留意した分デズデモーナの推定年齢が下がったような印象だった。ただ一つクライバー指揮のスカラ座の上演と比較して至らなかったとすれば合唱団の若干暗い歌声で、やはりイタリア語文化圏の中での声は輝かしさが違う。それは逆も真であるのは当然だ。(続く



参照:
PTSD帰還士官のDV 2018-12-03 | 文化一般
玄人の話題になる評論 2018-11-27 | マスメディア批評
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客演のための課題曲

2018-12-10 | 
ヴィーンからの生中継を聞いた。先ず後半のブラームスはソファーに座って真面目に聞いた。悉くミュンヘンでの表情記号が無視して演奏された。勿論同意の上だろう。テムピも明らかに二割ほど遅めに感じたが、実際はアコースティックと間の取り方が大きいと思う。強弱記号まで無視されていて全く異なるバランスで演奏されたので驚いた。ここまで妥協するには明らかな意思が働いていた筈だ。そもそも一昨年のデビュー定期公演からして今回の再演がありえないと思っていたが、キリル・ペトレンコは腹を括っていたのだろう。放送で「好きなようにやらせた」というその通りだった。

我々などは、あれだけルーティンで演奏するなら、指揮者無しで演奏会をすればよいと思う。しかしそうはいかないのだろう。そのように考えると、ああして素人相手のように指揮してくれる人がいるとやはり正確に演奏するようになるということらしい。その辺りはペトレンコも意識していて、ヴィーン流で何が出来るかを考えて振ったものと確証する。客演指揮者としてそれ以上のことは不可能で、同地でオペラに客演していた時も同じだったろうと思う。その意味からしてもこの曲の正しい演奏は待たなければいけない。素人交響楽団には無理だ。一昨日放送されたハムブルクで客演で指揮したNDRの放送交響楽団が少なくとも同じような年齢でバイエルンでデヴューしたフルサ指揮の放送交響楽団よりも遥かに上手に演奏していたので、座付管弦楽団と交響楽団の差や指揮者の仕事がよくわかる事例となった。

話しによるとこの曲と集中して練習したのがルディ・シュテファンの曲だという。これはペトレンコは2012年にベルリンで指揮している。曲想自体も後期ロマン主義的作品なので独自のサウンドが欠かせない。その意味からヴィーナーでの演奏を期待していたが、それなりの価値はあったと思う。少なくとも六年前のベルリンより良かったのではなかろうか。ベルリンのコンツェルトマイスターサルヴァータの演奏も決して悪くはなかった。

さて二曲目のリヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」の演奏は、嘗ての日本の映画評論家淀長さん的に一点だけ誉めておきたい。最後の葬送の和音が出るところでこれはとても良かった。あとはヴィーナーフィルハーモニカーに課題曲を与えたようなもので、弦楽陣だけでもこれをしっかりと音化出来るようにならなければ、幾らペトレンコが今後振っても詮無いことだという宣言にもとれる。あの会場でどのように響きと線をしっかりと響かせるか。全く独自のアンサムブルの問題でこれに簡単に手を突っ込める指揮者はいないだろう。少なくとも客演はさっさと逃げ帰った方がよい ー 既にキリル・ペトレンコは帰宅しただろうか。天気も悪いので自転車にも乗れず、精々疲れを残さないようにして欲しい。

キリル・ペトレンコが継続的に客演する楽団は今までも限られていて、ベルリンに移れば更に絞られるかもしれない。イスラエルフィル、RAIトリノと並んでヴィーナーフィルハーモニカーとなるかどうかは分からない。フォアアールベルクの交響楽団だが、これはマーラーシリーズが終わるまでだ。因みにラディオでも親父さんがそこで活躍したとあったが、楽団の前身とを考えると若干複雑だと思う。

但し今回は前回とオーストリア放送協会の紹介の雰囲気が変わっていた。つまり、最初から「ともに音楽をすることが、そこで報われることが」と始まり日本での記者会見の内容を二三度繰り返していた。要するにお言葉拝聴から始まるという如何にもオーストリアの公共放送第一らしい敬意の表し方だ。前回はまだまだヴィーンで修業したフォア―アールベルクにやってきた移民音楽家の倅の腕を見てやろうぐらいの扱いだった。やはりベルリナーフィルハーモニカーのザルツブルクでの登場が扱いを変えたと思う。



参照:
ペトレンコ指揮に音をあげる 2016-04-04 | 音
シャコンヌ主題の表徴 2017-10-13 | 音
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しっくりこない感じ

2018-12-09 | 文化一般
いらいらする。しっくりいかない。先ずは「オテロ」お勉強の三幕まで再び通したが、見えてくるものが少ない。後期のヴェルディは複雑だ。ヴァークナーの影響が強過ぎて、その手法が見えてこない。あれ程明白に和声付けをしていながら可成り外してくると今度はその運びがしっくり来ない感じがする。

特に先日スカラ座からの「アッティラ」上演のような初期作品の面白さを再確認すると余計に繋がりに目が行く。因みにその上演は録音録画をDLまでしたので、改めて鑑賞したいが、その直前に考えていたことを思い出した。つまり指揮者のシャイーは、あの記念碑的な「シモン・ボッカネグラ」や「マクベス」上演のクラウディオ・アバドの芸術にどこまで係っていたかという疑問だ。それに気が付くような演奏で、アバドのようなあまり練習しないような指揮者にはアシスタントの力が大きく、それでなければあれだけの上演の後でミュンヘンで同じようなキャストで27歳の若造が新制作を振るわけがないと思った。要するにミラノでの「シモン・ボッカネグラ」上演もシャイーの力なしでは存在しなかったのではないかという仮説である。それを感じさせた。そして映像を見ていたら、私を初期にフェースブックに誘った友人が第一プルトで弾いていたようだ。長く顔を見ていなかったが、スカラ座でも二代目の演奏家だ。再度録画を確認してみよう。先日そこのソロ奏者と仕事をしているという別の友人に「その人とは私の友人は別人のようで、どの位置で弾いているのか知らないけど」と話していたところだった。その位置はソロなのか副なのだろうか?

序でながら、その音楽談義の中でドイツェオパーでも演奏していた彼に、「マイスタージンガー」ではドイツ配置なんだぞとミュンヘンの自慢をしたら、「それはないでしょう、コンサートは分かるけど、奈落では見たことないよ」と話していた。私も逆に驚いた。なるほど「マイスタージンガー」などはベートーヴェンの交響曲の編成ぐらいだから問題なくても、大編成となると難しいだろうなとは思った。逆にヴァークナーのバイロイトのための楽劇は対抗配置は当然だ。勿論バイロイトの奈落の深い劇場のように反射板が上にないので、第一ヴァイリンがよく聞こえるように左右を入れ替える必要はない。その話し手の彼も助っ人でミュンヘンで「ローゼンカヴァリエ」も演奏したというのだが、あの当時はズビン・メーターが監督だった筈だが、どうだろう。

兎に角、春に彼の演奏するコンサートに誘われているので、そこで再会したときにでも、中々こちら側からでは気が付きにくいことを尋ねてみようと思う。正直、彼自身もそうだったと思うが、こちらも昔は座付楽団のノウハウなんてことに興味がなく、精々音楽的な表情をどう出しているかぐらいにしか関心が向かわなかった。そう言えばもう一つの話題で、座付楽団が遅れて出る話しは、メストが語るように、「一呼吸の吸気のタイミング」は彼の口からは出ずに、ミュンヘンのヴィオラ奏者が語っていたように、パワーが出るというどちらかというと合気道的な感じで気を入れる感じがするらしい。この辺りは指揮者がどう見るかと楽団員がどのように感じているかの差であって、とても興味深い。要するに、主体客体の相違だろう。

もう一つ、もはやオペラ漬けだが、メトからの生中継を一部聞いた。開幕の日に会場に来ていて、インタヴューに答えていたオポライスが修道女アンジェリカを歌う叔母さんのいじめシーンからだ。流石に昨年今年とヤホの歌で再三録音録画を流し二度聞いただけのことはある、よく頭に入っている。ミュンヘンでのミヒャエラ・シュスターの圧巻のド迫力は例外としてもあまりにもアンジェリカと叔母さんの声が近過ぎる。そもそもオポライスも自国語でしゃべるととても感じがよいのだが、英語やそして歌声になると力みがあるのかあまり魅力的ではない。更にここでは太過ぎて、なるほど私生児の母でとなるが、良家のお嬢さん上がりには聞こえない。ヤホの精妙なヴィヴラートと比較されると気の毒ではあるが全く対抗出来ない。

指揮のデビリーもミュンヘンでも活躍しているが、ここではまるで事件もののようなおどおどろしい音楽になっていて全く感心しないばかりか、管弦楽もコヴェントガーデンよりも大分悪い。あの時はペトレンコ指揮でなぜここまでも印象派風に音を細やかになるのかは不思議に思ったが、こうした問題点が解決されていたことは間違いないと改めて思う。特に二度目の訪問などは舞台など一瞥もしていないぐらいだがその歌唱や演奏を想起してその美しさに浸る。

お目当ては、三部のジャンニスキッキをメトデビュー五十周年のドミンゴが歌うことだろう。なるほど登場から拍手が沸き起こる。そしていつもの歌声が温かみがあっていいのだが、こちらはまたアムブロジオ・マエストリの名唱をまた管弦楽団の巧妙さを比べると、なにもこの役を歌う必然性を感じなかった。なるほどメトの普段の上演のキャスティングも凄いと思うが、ミュンヘンの新制作を選んでいけばそれ以上に豪華なキャスティングであることを改めて知る。そして最近はいつもあんなものはもはや通常のオペラ上演でないとは思いながらも、その演奏水準が高く、とても幸せな気持ちになる。



参照:
思えば遠くに来たもんだ 2018-12-04 | 雑感
鋭い視線を浴びせる 2018-07-16 | 女
企業秘密の領域へ 2018-10-09 | 音
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不整脈辞退を受けて

2018-12-08 | 文化一般
スカラ座からの放送のテストを流そうかと思っていた。そこに入ってきた情報は待ちに待ちかねた朗報だった。来年のバーデンバーデンの復活祭は史上最も賑やかになる。現役指揮者の大物二人にキリル・ペトレンコが勢揃いする。ズビン・メータにリカルド・ムーティとなれば現役ではこれに匹敵するのはもう少し若いバレンボイムしかいない。MeTooでアムステルダムで解雇された指揮者はローマの音楽監督に就任したようだが、流石にベルリンは切った。先日登壇したバイエルンの放送交響楽団はそもそもスタディオに引っこんでいれば話題にならないが、やはりドイツを代表するフィルハーモニカーには具合が悪かった。

急いで席を押さえた。監視していたので出券状況は大体分かっていたが、その二月前とあまり変わっていなかった。始めから狙うようなお得な座席が買えた。先ずは一枚押さえた。そもそも復活祭の「オテロ」はムーティ指揮でという希望だったが指揮者が練習時間が取れないので難しいと固辞した。そこでその代りにバーデンバーデンだけの特選プログラムとして聖週間に「死者のためのレクイエム」を二回振る - 個人的にはジュリーニ指揮の名演をフィルハーモニーで聞いて以来だ。その代りにコンセルトヘボーの監督である筈だったガッティが「オテロ」を振ることになっていたのだが、指揮者としてよく知らないうえにそのコンサートプログラミングなどを見ていると底が浅く興味がなかったので、今回は一切オペラは購入していなかった。ミュンヘンでの後につまらないものは聞きたくなかったからだ。

そこに今最も時間が溢れている指揮者ズビン・メータが入る可能性は強かったのだが、ミュンヘンでガッティがそのまま登場していたので、更迭するにはそれなりの説明が必要だったのだろう。しかし今回はバーデンバーデンの祝祭劇場の発表によると指揮者ガッティが「健康上の理由で辞退」とある。そもそも最初から話しをつけておかなければカレンダーが真っ白のメータ氏でも直ぐには発表には至らない。つまり裏ではやり取りがあって、12月4日にも就任するローマで開幕の「リゴレット」キャンセルしたようだから何か動きがあったとするのが自然であろう。5日のバイエルン放送協会によると「不整脈」とイタリアでは報道されているそうだ ー 4日は振ったとか、どうも情報が錯綜していて、ガッティ側の混乱ぶりが伺える。

恐らく腹切りのようなところがあって、辞退を条件に少なくとも祝祭劇場から「絶縁することなく」という言質を取ったので、交渉があったのは間違いない。興味深いのはベルリナーフィルハーモニカーがもしくはツェッチマン支配人が隠れているところで、これもガッティと楽団の間で合意に至ったとする方が正しいかもしれない。つまり楽団にとっても難しい決断をすることなく、一先ず様子見を続けられ、ガッティ側にとっても一先ず凌ぐことになる。見方を変えれば、復活祭には日程的に限界なのでツェッチマン支配人が迫ったと推測する。

これで一先ず復活祭へと駒を進める。そこで個人的にはたと気が付くのは、「オテロ」の音楽がもう一つ頭に入っていないことで、これは週末塗装の修理でもしようかと思ったが順延する。なぜならば、予定していなかった復活祭に再び「オテロ」となればよほど勉強しておかないと判断が難しくなるからで、今回のミュンヘンの上演に全力を傾けなければいけないからだ。演出のロバート・ウィルソンは今まで感心したことがないが - そもそも今回のミュンヘンでの質には対抗しようがない -、 これもまた話しのタネにはなる。

朝一番で峠を攻めて帰宅した。降雨と降雨の僅か30分ほどの時間を活かしたかったからだ。これでミュンヘンから帰ってくるまでは運動しないでもなんとかなる。週末はヴィーンからの放送と「オテロ」勉強に全てを賭けたい。干し物などしている場合じゃない。



参照:
ドライさとかカンタービレが 2018-11-25 | 音
呪術から抜けられずに 2018-08-12 | 文化一般
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Wブッキングの逡巡

2018-12-07 | 生活
2Tの外づけHDDをコピーした。三日間ほど掛かった。一夜は徹夜で働かせた。いちいち内容を確認することなく、次はこのHDDを初期化して、3Tの内容とコピーした内容を合わせて再構成する。手動で判断しないといけないので更に時間がかかるだろう。性格上、無駄なコピーかもしれない動かしていないハードがあるのが精神衛生上宜しくない。かといってコピーを無暗に整理するといつか困るときもあるかもしれない。

YouTubeで演奏風景を見たので、改めて録音を流す。リサ・バティシュヴィリが弾くチャイコフスキーの協奏曲である。放送を聞いて録音を流して、夏のザルツブルクやベルリンでの録音風景と伴奏が違うのは当然だが、それ以上にガルネリ・デルジェスの響きの違いを感じた。何か弓の圧力が強そうな感じで、実際に胴音が鳴るところがあった。バレンボイムの若い時からのダラーとした棒に更に年期で益々何事にも動じないような指揮で上手に合わせていて感心したが、フィラデルフィアでのネゼセガンは遥かに細かくロココに合わせてくれると想像していた。
Lisa Batiashvili Performs Tchaikovsky's Violin Concerto with The Philadelphia Orchestra

Lisa Batiashvili & Daniel Barenboim - Tchaikovsky/Sibelius - Violin Concertos (Trailer)


実際とても敏捷でよいのだが、例えばペトレンコが悲愴の二楽章で弦楽陣に弾かせたようなあまりにもの名人芸の洒脱さに匹敵するものは聞けなかった。丁々発止とこれでもかというぐらい合わせてくるので余計にソロの方も同じような感じになっていると感じた。しかし繰り返して聞くと、何よりもの違いは管弦楽団の基本ピッチだと今頃になって気が付いた。結局デルジェスもそれに合わせて弾くとあのような響きになるのだと漸く分かった。どちらがどうとは簡単には言い切れないが、勿論ピッチが高い方が華やかで瀟洒な感じが出やすい。名人芸が要求されることには変わらないが、アメリカの交響楽団を聞く場合はこの辺りも留意してく必要があると思った。

週末は、先ず金曜日のミラノからの実況放送が終わって、日曜日のヴィーンからのマティーネーがあり、フィラデルフィアからは昨年のオ-プニングコンサートが再放送される。曲自体は欧州ツアーとアジアツアーに演奏されたオルガン協奏曲とチャイコフスキーの四番で前者は生で後者はツアーの放送を聞いている。前者も放送で聞き直して、後者はホームでどの程度の水準で演奏しているか確かめてみたい。

ルツェルンフェスティヴァルの「アボカルテ」が来週ぐらいには発送されるだろう。予約状況にまだ余裕があるらしくお便りが来ていたが、一体全体、個別の券の価格が未だに書かれていない。流石にスイスとは言いながら中々な商売である。希望したベルリナーフィルハーモニカーは大体の額は分かっているが、ゲヴァントハウスが不明だ。本来ならば大分お得な筈だが、ルツェルンではロンドンシムフォニカー並みには取るのではないかと予想する。直接二つの管弦楽団を比較するのも目的なので、席は敢えて変えるが、余分に払うのは仕方がないとも覚悟している。

それにしても先日からNDRが流していたキリル・ペトレンコ指揮のスークの録音がCD化されているコーミシェオパーのものではなくてNDRであの当時に演奏していたのは知らなかった。前半のピアノ協奏曲はムストーネン演奏で既に録音しているが、アスラエル交響楽は珍しいので録音が欠かせない。但しイタリアからの放送とのダブルブッキングになって頭が痛い。二台同時に録音してもよいのだが、信頼性が高いのはLINUXであり、音質も申し分ない。

詳しく調べてみるとRAI3のオペラは20時30分までになっている。NDRが20時始まりで、協奏曲ぐらいが重なる。その後オペラはARTEで21時45分から放送である。22時までがNDRなので、ARTEの方は大抵はオンデマンドで綺麗に落とせるのでそのままWINで流してもよい。

つまり、18時から休憩の19時まではオペラをLINUXで録音、そして19時13分からの後半はWINで録音となる。イタリアの時計がそれほど正確とは思わないが、20時からはNDRをLINUXで録音すれば右往左往しないで済むだろうか?NDRの放送を32Bitで録音してみたいのである。協奏曲もベルリンでのおかしなテムピのラルス何とかのピアノよりも遥かに良かった。

ピアノで思い出した。車中のラディオが盛んにシュヴェツィンゲンの音楽祭の前売り開始を盛んに広報していた。そもそもSDRのフェスティヴァルであり昔日本で憧れた音楽祭だった。プログラムを見るとクラリネットのオッテンザムマーなどがレジデンスとなっていて、SNNでも話題のピオトール・アンデルジェフスキーのリサイタルは18ユーロならと思ったが、紹介文を見てやめた。何やらバッハでもなんでも音響を聞かすようなので今更プレーバッハは興味ないと思った。他のプログラムならとも思うが、例え500人規模の小ホールとは言いながら18ユーロは高めだ。同じ時期にアムランを9ユーロで聞くことを考えれば交通費は半分としても腰が引けた。


参照:
スカラ座からの初日中継 2018-12-06 | 文化一般
イアーゴに騙されるな 2018-11-06 | 文化一般
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スカラ座からの初日中継

2018-12-06 | 文化一般
車中のラディオがミラノの街の様子を伝える。スカラ座シーズンオープニング前の街の清掃などのお話だった。ハプスブルク家の歴史的なことに触れつつのミニドキュメントだった。金曜日にミラノからの中継があるのでSWRバーデンバーデンやARTEのジャーナリストが前のりしたのだろう。兎に角、金曜日夕方からの「アッティラ」中継が楽しみだ。なぜならばイタリア人指揮者シャイーのオペラは1980年2月9日のミュンヘンからの中継録音放送しか聞いたことがないからである。その印象は間違っていなくて、オペラでそれほど成功していないらしい。

そしてこれを書きながら手元にあるエアーチェックのカセットテープを回してみる。ドルビー無しで録っているようだが、サーのノイズにあまり気にならない一方、音も割れていない。なぜか上手に録音していて、オリジナルの質も何かすごくいい。先ずこの演奏がお宝ものだ。

最初のプロローグのさざ波のテーマからして驚くほど明晰な音を出している。サヴァリッシュ時代だと思うが監督がこれほどまでにシャープな音を出した覚えがない。指揮者のシャイーは僅か27歳になる数週間前である。しかし歌手陣はまさに決定版のストレーレル演出のアバド指揮のそのままの陣営だ。つまり、カプリッチリ、ギャウロフ、フレーニ、ルケッティというとんでもないキャストで、恐らく新演出だったのだろう。調べてみるとオットーシェンク、ローゼの名前が載っていて、二日前に初日を迎えている。そして管弦楽団が現在の水準かと思う以上にシャープな弦を弾いている。

まさにこの世界一のトレーナ指揮者の特徴が出ているが、それにしてもあの会場で当時の録音でこれほどまでにエッジの立った響きを実現させる手腕は今考えると驚異だ。当時はアバド指揮よりも率直なカンタービレで驚いたのだが、当然のことこれらを位置付けるだけの知識もなかった。しかし、その後にコンセルトヘボーやゲヴァントハウスを再び世界の頂点に持っていくだけの手腕はこの若造指揮者に宿っていたことになる。そうした手腕を持たない同じように若いうちから起用されたベルント・ハイティンクが若造を妬むのも当然だろう。

歌手との辛みでは大歌手に合わせながら自己主張もしていくというような協奏曲指揮のような塩梅に聞こえるが、それにしても見事だ。コンセルトヘボーの指揮者ガッティがMeTooで失脚したが、そもそも前々任者36歳のシャイーに比較すると大きな期待はできなかっただろうと思う。そのアバドの下でアシスタントをしていた指揮者のスカラ座でのこの三年ほどの成果が聞ける。それどころか時差で映像が楽しめる。これまた見逃せない - 後日NHKでも放映されるらしい。


参照:
生中継の妙、色々 2018-08-19 | 雑感
親しみ易すすぎる名曲 2017-10-24 | 生活


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一先ず軽快さを満喫

2018-12-05 | テクニック
一先ずノートブックを常時SSDで使えるようになった。ミニノートブックの方もSSDの容量消費していくと動きが悪いのではないかと思うようになった。録音はAudacityを使っているので、そのプロジェクトのままで記録しておくと、細分された音声ファイルゆえにとてもコピーに時間が掛かる。その割にメディアサーヴァーでは使えない不便さもある。

新しいNASストレージを手探りで弄っていくと、大体どのようなアプリケーションでどのようにバックアップしていくかが分かってきた。先ず基本として、フォルダ同調とバックアップの差異を更に研究すると、ウィンドーズでは前者のシンクロニゼーションがバックアップとされているのは例外的なようだ。つまりオリジナルを如何に消去してもコピーはストレージに残るというのが正確なバックアップであるとなっている。ストレージのウエスタンデジタルもだからシンクロとバックアップの二種類のアプリを用意している。

しかし実際にはその両方ではなくコピープログラムを使えばよい。どのコピーのアプリが良いかはわからないので、何種類か試してみた。その中でオリジナルのSmartWareというのは使いやすく信頼性も高そうだ。最初はどうしてもマニュアルで保存してしまう。今まで使っていたHDDのDディレクトリーに入れていた800G相当のファイルが大きい。音楽だけでもAudacityとして保存してあるのでとんでもない時間が掛かりそうである - 結局三日以上を費やした。

印象としてはUSB外付けに比較して全く早くない。所謂RAID1とされる方式で二枚のHDDに同じようにコピーするからだろうか。それは安全で結構なのだが、一部にその二枚のHDDの一つが壊れるだけでなく、システム自体が壊れてしまうとデータを呼び出すのが面倒だとあった。なるほどファイルにアクセスするにはそれなりの方法がいる。Linuxベースなので何とかなるとは思いながら不安になる。更にそうしてコピーした筈のAudacityをテストしようと思うとWinもLinuxでもどちらでも読み込まない。これには焦った。そもそも端末に限らず使えるものでなければ保存しておく価値がないからである。これは完全に買い物を間違ったと思った。

そして以前のHDDに戻して同じことをするとこちらでは同じでデーターを読み込んだ。Linuxの方でも読み込めたので相関性が確保された。どうも片方のPCが接続されている状態か何かで読み出しを邪魔していたようだ - 結局Audacityのプログラムが上手くインストールされていなかった。それでも読み込み終わるまでの時間は今までよりも長い。この辺りもしばらく使って調整していかないとなんとも判断しかねる。

データーの移動に時間が掛かるのはある程度許容可である。なぜならば早くても今までの例からして上手くコピーできなかったこともあり、信頼性が重要だからだ。それでも先ず最初のコピーは量も数も多いことからかなり時間が掛かりそうである。

そうこうしているうちに、USB3.0を二つ差し込めることが分かり、USBNASから直接コピーとなった。やはり早く確実だろう。それならば前記したようなシステム崩壊時の問題をこのUSBで接続した外付けHDDで解決できそうだ。すると、三つのHDD合わせて6TBを上手に使える。従来と同様にNASとして2TBを使うと、残りは1TBと3TBとなる。そこにシステムと3TBの特別バックアップをすれば先ず当分は用足りるではないか。なにかバックアップのバックアップのようでまるで神経症のようだが、なによりも今までの投資が有効に使えるのが嬉しい。

小さなアプリケーションはまだ幾つかあるが、殆どファイル無しで70GB使用済みだ。因みにNASストレージは2Tほど消費している。残り6TB切っている。重なるものは整理するとしても小さなものを買わないでよかった。

Beyond the Baton with Yannick Nézet-Séguin: Handel's "Messiah"

音楽界の実力者ネゼセガン指揮のフィラデルフィアとニューヨークメトでの活躍は目が離せない。そしてこの人のフランコフォーネの英語の喋りがとても軽快でいよいよ好調だ。結構真をついた楽曲解説もしているのだが安易な言葉使いながらその仕事現場からの声がそのまま伝わる内容で、全く虚飾が無い。なるほど音楽つくりも、言葉と同じように訛りながらも、誠実。先日のチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の一楽章の後での拍手を利用して更に中断して一言話すようなしゃべりたがりだが、ジュークにしながらチャイコフスキーの真意まで考えさせる。そのフィラデルフィアが現在最もエキサイティングで音楽的に最高品質の交響楽団定期であることは疑いようがない。
Lisa Batiashvili Performs Tchaikovsky's Violin Concerto with The Philadelphia Orchestra



参照:
NAS回転音の審査 2018-11-30 | 生活
次をリストアップする 2018-11-09 | 雑感
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思えば遠くに来たもんだ

2018-12-04 | 雑感
部屋着に下ろしていたジーンズが破れた。足の指をひっかけた。数年履いているから仕方がない。色目も薄いが生地も薄かったので重宝した。しかしこのところ自宅で足が寒かった。限界まで薄くなっていたのだ。幸い箪笥を探すともう一つ前のが残っていて、それで冬場を凌ぐ。新たな余所行きジーンズを今度はまた薄目を探す。現在のは厚めで夏には向かない。安売りが出るのを時間をかけて探しておこう。

久しぶりに日差しが嬉しい。古いHDDの個人のデーターは全てコピーした。三日ほど掛かっていたので完璧にコピーしていて当然だろう。どうしてこのWDのNASが遅いのかは分からないがミラーにしているから倍の時間になるのだろうか。まだまだ解せないところがあるが、新しいSSDともども十分に設定が出来ないのだと思う。

冬タイヤに交換した。最後の冬タイヤだと思う。まだ車検が通っていないので警察が来れば罰金ものだ。だから自動車会社の方も知らぬ振りをしている。部品が探せないなら他の方法を考えるべきだ。まだ20年も経っておらず健全に走っている車もあるので部品がないのは本社も具合が悪いと思っているのだろう。自分としては解体屋からとってきた中古部品で数か月もってくれれば十分なのだ。これでミュンヘン行きの準備には入れる。

音楽監督キリル・ペトレンコは週末のヴィーナーフィルハーモニカーの定期演奏会の準備に入っただろう。二回目の登場であるが今回はブラームスの第四交響曲だけは少し期待したい。なぜならばミュンヘンでの演奏はまさにその音の繋がりが上手くいかなかったからで、ペトレンコの意志を忠実に演奏可能ならば名演になると思う。前半のプェルツァ―のルーディ・シュテファンの作品もベルリナーよりもヴィーナーの演奏の方があの荘園で漁師町ヴォルムスのユダヤ風の味がよく出るかもしれない。日曜日の放送が楽しみだ。

完全放送は無いかもしれないが、今回はBMW主催の待降節チャリティーコンサートを劇場でも紹介している。曲目は前回のようにオペラからのアリアで登場歌手からすると「ジャンニスキッキ」からなどだろうが、教会演奏会とはいいながらもガラコンサートで100、120ユーロの価格設定は絶妙だと沢沿いを走りながら思っていた。この価格で寄付を一文も出さないでも寄付額の土台になって、その内容如何では、もっと出そうと思う人も少なくない額である。勿論ドイツ一の資産家女性のBMWオーナーも懐から一万ユーロぐらいは出すのだろう。BRも協賛しているので少なくともニュース報道映像ぐらいは出るだろう。

二日に録画した音声部分はRealtekともう一つの通常の入力が重なった可能性が強く千分の何秒単位のエコーが付いたようだ。音声は使えないが映像もろとも消去せずにいつか気が向いたら32Bit高品質録音から尺だけを合わせてWAVファイルを前半後半二本作ってシンクロさせればよい。MP4の映像も素晴らしいがコピー映像も捨てるのは惜しい。

再び初日の録音を流すと大分異なっている。冒頭の嵐のシーンから初日はまだまだ旧態的な演奏だったが、更にアンサムブルを合わせたことでくっきりと団子にならずに漸く初めて楽譜が音化された印象だ。これで次はフィッシュ指揮の四回目上演が挟まるが、監督が帰ってからその精度が再び上がるのかそれとも悪くなるのかも聞き逃せない。初日のバイエルン放送協会のマイクロフォンもストリーミングの日のテストも兼ねていた筈だが明らかにラディオ放送用で、ストリーミングのそれがそのままライヴ制作ものになるようなものとは大分異なる。後半も日によれば録画をするのではないかと思う、あれだけの出来ならば必要な編集をして記録制作する価値は間違いなくありそうだ。

初日と三日目の録音との最も大きな違いは、その明確度だけでなくて、ダイナミックスの大きさとまたまた激しい一撃の鋭さだ。32Bit録音を流していると驚かされる。バイロイトの上演でも奈落の深さを変えたのかと驚かされたが、今回のオテロも強烈な音響となっていて、ベルリンのフィルハーモニカーでなくとも、座付楽団とはおもえないほどあまりにも鮮烈さを実践している。

思えば遠くへ来たものだと思うほど、ミュンヘンでの上演の厳しい響きが増している。二月の「指輪」ではまだまだドライ過ぎだと思ったのだが、オパーフェストでの「ジークフリート」、フィルハーモニカーとのオープニングツアーを挟み、記念上演の「マイスタージンガー」とその棒は激しさを増していて、さぞや大指揮者ムラヴィンスキーが若いころはあのようではなかったのかなと思う。全く技術的な考察ではあるが、壮年期であのように無駄の無い鋭い指揮をする人はやはり稀だ。



参照:
PTSD帰還士官のDV 2018-12-03 | 文化一般
ドライさとかカンタービレが 2018-11-25 | 音
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PTSD帰還士官のDV

2018-12-03 | 文化一般
ストリーミング中継を流した。録音録画をしているとどうしてBGM程度の視聴になる。なるほどライヴ放送の醍醐味は異なるのだが、暖かい部屋でいい音でと思うとどうしても画像と音声がズレて臨場感が薄まる。特に今回はまだ生体験が済んでいないので、本当の臨場感はまだお預けだ。

ざっと見た感じでは予想以上に演出がよかった。詳しくは生体験する前に書いても仕方がない。しかし、コンセプトとしてPTSDを持った帰還士官とその家庭内暴力とすることでこのシェークスピアからの名作が新たに生き返る。それが20世紀に盛んだった古典の読み替えを感じさせない。それは表向きの設定の読み替えや辻褄合わせに拘っていないからで、音楽の本質的なところへと解を求めているからだ - こうした演出と比較するとコンヴィチニーやバリー・コスキーのそれなどはただのイデオロギーでしかないことに気が付くだろう。だからシェークスピア解釈ではなく、やはりボイートよりもヴェルディ解釈に近い。なるほど音楽監督のキリル・ペトレンコが気に入った筈だ。

だから拘りはこれでもかこれでもかと音楽に合わせて細かな演技をつけていく。ここまで細やかにそして構成的に演技をつけているオペラは初めてだ。舞台構成という点ではクリーゲンブルクの演出なども立派だと思うが、これほど精緻な仕事はしていない。

初日の批評で批判されていたこの女流演出家アメリエ・ニーマイヤーのいつもの色使いなどだが、そのグレーの色調は想像していたようには重苦しくも病的でもなかった。寧ろ、有名なゼッフィレッリの鉄枠のような構成やその権力構造を強調表現するために観念恐怖症に訴えかけるような舞台美術に依存するようなものでは全くなかった。それ以上に細やかな心理劇となっていながらも夜のTV放送のようにメロドラマになっていないところが見事だった ー イプセンとする評も見かけた。

歌手ではやはりイアーゴのフィンレーがよかった。なるほどバルテロスもカウフマンも細やかな演技指導の成果を披露しているが、前者は初日の問題点に留意していて、後者もよくなっていると思ったが、私が出かける日にはもう一つよくなって欲しいと思う。カウフマンのオテロにとってはこれ以上にはないと思うほど最適な演出で、企画としても大成功だと思う。但し私にとってはもはやカウフマンはベルカントのヴァークナー歌手でパルシファルの方がよかったと思う。トリスタンに更に期待したい。その意味から、フィンレーのイアーゴもどちらかといえばシェークスピアのそれで、南欧的ではない。しかし新聞が書くようにこのイアーゴの表現は今後とも一つの基準になるものと思う。シェークスピアを読み直してみたいと思わせる。

しかしなるほどこの演出での最後のどこか晴れない拍手の雰囲気もよく分かった。管弦楽は見事でアバド時代のベルリンのフィルハーモニカーの音と比較すると遥かに音楽的で完全に程度が上である。初日よりも良くなっていると感じた。そしてストリーミングがよかった。

技術的には一二度映像が一瞬乱れたが、伝送エラーのようなもので今までで最も安定していた。音響的には録音を聴くと若干会場のアコースティックが濁っていて喧しさがある。恐らく小さな音に合わせるために設置した補助マイクロフォンのミキシングで濁りが出ているのだと思う。特に映像の方は48kHzで録音したが最初のバッハラー支配人の解説から若干エコーがかかり気味で落ち着かなかった。理由はインプットのRealtekでのミキシングかどうかは分からない。試しに32Bitフローティングで録音したものは流石に一皮も二皮もむけたような音声となった。

そこでオンデマンドから1KのMP4をダウンロードする。5.1GBと2時間45分番組としてはまずまずだ。画像は申し分ないが、音声も252kbs出ている。 エコーも殆どなく落ち着いている。これは使いやすそうだ。因みに32Bitの録音は二部合わせて3.5GBになっている。映像は8Gほどになった。どれが使いやすいのかは色々試してみなければいけない。



参照:
待降節最初の土日 2018-12-03 | 暦
玄人の話題になる評論 2018-11-27 | マスメディア批評
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