本日は初めてSSDのシステムでストリーミング録画をする。プログラミングが正しくインストールされていれば従来のHDDよりも書き込み速度が速いので上手く録画出来る筈だ。先ずはテストで試してみなければいけない。もう一つのLINUXで実験的に32Bitで録音も試して見ようかとも思う。先ずはストリーミングが上手く流れるかどうかだ。
アバド指揮の「オテロ」の1997年5月のトリノでの演奏、最初はとても感心したものの二幕では大分荒が見えていたが、後半は更に悪い。なによりも管弦楽が下手で、恐らく現在のミュンヘンの放送管弦楽団程度の実力しかなさそうだ。その一方嘗てのカラヤン時代の楽員が残っているのかどろどろとおかしなアンサムブルをして頗る様式的にチグハグニなっている。特に気が付くのは最も自慢の第一ヴァイオリン陣からしてしっかりと歌い込めていない。
想像するにこの淡泊さは、現在も定年間近で活躍しているザルヴォータではなく、勿論クシュマウルでもないとすると、安永徹ではないかと思う。その影響で弦楽陣がどこまでも今一つなのにチェロが強く出たり、ここぞとヴィオラがしゃしゃり出るアンサムブルはあの当時のベルリナーフィルハーモニカーのはしたなさそのものだ。要するに音楽芸術的にもはや超一流ではなかったころである。その管弦楽の下手さは監督とはいえカラヤン体制から切り替えなければいけなかった指揮者の責任の全てではないのだろう。
しかし、一拍の中でのフレージングの明晰さのない個所や歌手との絡みになると極端にその指揮のコントロールが弱くなる。これは好悪もありながら後任のラトル時代にはなかったもので、この指揮者がこの交響楽団に対してそのオペラ演奏に関しては余興以外の何物でもないと思っていた節がある。そこがカラヤンの強引なオペラ演奏法とは異なるところだったのだろう。どうしても私などは今後のペトレンコ指揮の復活祭公演を考えて、今のフィルハーモニカーならばここはこのようにと思ってしまう。そうした弦楽陣の思いがけないほどの不味さに加えて管楽器群も冴えない。オーボエ族などは座付楽団並みにビーと太い音を出している。兎に角、下手な演奏で閉口する。オペラ劇場的な問題でなく、楽団として今日のミュンヘンの座付がどれほど上手く演奏しているかがよく分かる下手さ加減だ。
晩年にマーラーの八番の交響曲指揮を拒絶したように、クラウディオ・アバドの音楽の理解はとても幅の狭いものであったかがよく分かる演奏だ。「ボリスゴドノフ」のようにあれほど素晴らしい録音を残している反面 ― 後任者のラトル指揮にはそれほどのものがなく、その演奏を凌駕するのはペトレンコ指揮しかないだろう -、とても出来不出来が極端で、この指揮者が病魔に倒れずにそのまま君臨していたら更に酷いことになっていただろうと思われる。これはやはり今回のストリーミングを研究すると同時に、ミュンヘンに出かける前にカルロス・クライバー指揮のミラノスカラ座での演奏を一通り復習しておく必要があるかもしれない。
あまり重要ではないが、デズデモーナのバルバーラ・フリットーリはしっかり歌っていて、余計にホセ・クーラのいい加減さが目立つ結果になっている。この歌手に関してはその後に変えたとか何とかいわれるが、あのデビュー時点で明らかな欠点があって、本人も作曲するとかあるのだが、楽譜の真意を表現できない不器用さが目立つ。初めからメインストリームからは落とされるその芽ははっきりしていた。現在の一流歌手に要求される基本的な技能が欠けていたことは明らかだ。
最初の待降節土曜日だった。所謂クリスマスマルクトが始まりそれ用の飾りつけが点灯するということになる。四本の蝋燭を点火していく家庭も少なくないだろう。今年は最初のヘンデル曲のブラスの演奏だけであとは歌が引き受けた。ブラスのレパートリーもあるかもしれないが他所に回った可能性が強い。歌はどうも女性牧師が引っ張っていたようだ。珍しくそれほど寒くなく窓を開けて録画が出来た。
参照:
良いこともある待降節 2017-12-15 | 暦
待降節景気の街並み 2015-12-20 | 暦
昨日の雪は昨年の雪 2012-12-08 | 雑感
アバド指揮の「オテロ」の1997年5月のトリノでの演奏、最初はとても感心したものの二幕では大分荒が見えていたが、後半は更に悪い。なによりも管弦楽が下手で、恐らく現在のミュンヘンの放送管弦楽団程度の実力しかなさそうだ。その一方嘗てのカラヤン時代の楽員が残っているのかどろどろとおかしなアンサムブルをして頗る様式的にチグハグニなっている。特に気が付くのは最も自慢の第一ヴァイオリン陣からしてしっかりと歌い込めていない。
想像するにこの淡泊さは、現在も定年間近で活躍しているザルヴォータではなく、勿論クシュマウルでもないとすると、安永徹ではないかと思う。その影響で弦楽陣がどこまでも今一つなのにチェロが強く出たり、ここぞとヴィオラがしゃしゃり出るアンサムブルはあの当時のベルリナーフィルハーモニカーのはしたなさそのものだ。要するに音楽芸術的にもはや超一流ではなかったころである。その管弦楽の下手さは監督とはいえカラヤン体制から切り替えなければいけなかった指揮者の責任の全てではないのだろう。
しかし、一拍の中でのフレージングの明晰さのない個所や歌手との絡みになると極端にその指揮のコントロールが弱くなる。これは好悪もありながら後任のラトル時代にはなかったもので、この指揮者がこの交響楽団に対してそのオペラ演奏に関しては余興以外の何物でもないと思っていた節がある。そこがカラヤンの強引なオペラ演奏法とは異なるところだったのだろう。どうしても私などは今後のペトレンコ指揮の復活祭公演を考えて、今のフィルハーモニカーならばここはこのようにと思ってしまう。そうした弦楽陣の思いがけないほどの不味さに加えて管楽器群も冴えない。オーボエ族などは座付楽団並みにビーと太い音を出している。兎に角、下手な演奏で閉口する。オペラ劇場的な問題でなく、楽団として今日のミュンヘンの座付がどれほど上手く演奏しているかがよく分かる下手さ加減だ。
晩年にマーラーの八番の交響曲指揮を拒絶したように、クラウディオ・アバドの音楽の理解はとても幅の狭いものであったかがよく分かる演奏だ。「ボリスゴドノフ」のようにあれほど素晴らしい録音を残している反面 ― 後任者のラトル指揮にはそれほどのものがなく、その演奏を凌駕するのはペトレンコ指揮しかないだろう -、とても出来不出来が極端で、この指揮者が病魔に倒れずにそのまま君臨していたら更に酷いことになっていただろうと思われる。これはやはり今回のストリーミングを研究すると同時に、ミュンヘンに出かける前にカルロス・クライバー指揮のミラノスカラ座での演奏を一通り復習しておく必要があるかもしれない。
あまり重要ではないが、デズデモーナのバルバーラ・フリットーリはしっかり歌っていて、余計にホセ・クーラのいい加減さが目立つ結果になっている。この歌手に関してはその後に変えたとか何とかいわれるが、あのデビュー時点で明らかな欠点があって、本人も作曲するとかあるのだが、楽譜の真意を表現できない不器用さが目立つ。初めからメインストリームからは落とされるその芽ははっきりしていた。現在の一流歌手に要求される基本的な技能が欠けていたことは明らかだ。
最初の待降節土曜日だった。所謂クリスマスマルクトが始まりそれ用の飾りつけが点灯するということになる。四本の蝋燭を点火していく家庭も少なくないだろう。今年は最初のヘンデル曲のブラスの演奏だけであとは歌が引き受けた。ブラスのレパートリーもあるかもしれないが他所に回った可能性が強い。歌はどうも女性牧師が引っ張っていたようだ。珍しくそれほど寒くなく窓を開けて録画が出来た。
参照:
良いこともある待降節 2017-12-15 | 暦
待降節景気の街並み 2015-12-20 | 暦
昨日の雪は昨年の雪 2012-12-08 | 雑感