また夜中にはボストンからの生中継があったのでこれも先日旅行用に構築した携帯録音システムで留守録した。ベットの中から遠隔操作可能なのもよい。なによりも今迄よりも気持ちの良いのが排出が少ないことだ。このシステムならば先日購入したUSB接続DACヘッドフォーンアンプ接続のみで稼働する。夜中つけっぱなしにしていても痛くも痒くもない。そして再生してみると予想以上の高音質だったので、とても満足した。旅行先でもネットや番組のサイトが落ちない限り宿で高品質収録が可能になる。
Konnnichwaチョコは、サクラとドイツなどでのアーモンドの開花が同じ感じになるので、無理のないコンセプトかもしれない。お味のほどは今迄出ていたものと比較すると確かに少しチェリーかなという程度で、招き猫や色合いからなんとなくコンニチワである。不味くはないので、今後も数回は洒落で買ってもいいかなという感じである。
上のN饗の演奏は、予想通りの95歳のブロムシュテット指揮のマーラー交響曲9番で、何とか破綻無くという演奏で敢闘賞ものだろう。それゆえに余計に対位法的な合いの手の入れ方も音楽的には大きな問題を感じた。嘗てフランクフルトのアルテオパーで聴いたデュトワ指揮N饗がしっかりと内声部などで歌えないのを知って、厳しいなとは思ったのだが、昨今は指揮で制御できる指揮者が振っていたことから目立つことはなかった。
試しに昨年のブレゲンツとフェルドキルヒの二カ所で聴いたペトレンコ指揮フォアールベルクの交響楽団の演奏を比べてみた。ヴィーンから最も離れた地方の交響楽団であって決して上手な楽団ではないのだが、そして技術的にも厳しい楽団で、実際に金管などが外していたのだが、録音を聴き返すと記憶のそれよりも立派な音楽をやっていた。勿論指揮が立派で、更に春の中に極秘で練習をしていた成果が出たのか、その音楽的な明白さはその前の「千人の交響曲」を凌駕していた。そして驚いたことにN饗よりも立派で綺麗な総奏を奏でていた。
N饗は正しい音を出すという事では遙かに上手いのだがアンサムブル文化はあのようなホールで演奏していたのでは何世紀掛かっても出来上がらない。同じ下手であっても嘗てホルスト・シュタインやザヴァリッシュなどが振っているときの方が良かったという評があるのはなるほどと思う。要するに指揮に関係なくて出来るアンサムブルに音楽文化的な土台が無いということでしかない。なによりもそういうことを逐一適格に指摘する玄人がないないのが救いようがないのである。まあ、95歳の老人よりも短いかもしれない歴史しかない文化団体とすれば、老人の方が遙かに大切なのかもしれないが。
次のアルテオパーでの演奏会に向けて、7番交響曲に戻る前に、もう一度9番に想いを寄せられてとても良かった。特にニューヨークとの往復の話などを改めて読むとなると、益々、「スペードの女王」、「トリスタン」そして「マイスタージンガー」おそらく「パルジファル」へとその創造と断章みたいなものを思い浮かべられる。
参照:
とても味わい深い残響 2021-01-30 | 音
全てに向けたお別れの歌 2021-10-07 | 音