Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

猫も招くコンニチワ

2022-10-17 | 
土曜日は久しぶりに日本の生中継を聴いてみた。先頃試したVPNを使った。結果からすると不安定で時間制限もあったのだが用は足りた。タブレットなどでの使用はとても簡単なのだが、音楽ファンなどが目論む高品質の録音とか録画とかには向かない。そこでエミュレーターを使ったのだが、安定録音等にはもう少しいろいろと試してみる必要がある。

また夜中にはボストンからの生中継があったのでこれも先日旅行用に構築した携帯録音システムで留守録した。ベットの中から遠隔操作可能なのもよい。なによりも今迄よりも気持ちの良いのが排出が少ないことだ。このシステムならば先日購入したUSB接続DACヘッドフォーンアンプ接続のみで稼働する。夜中つけっぱなしにしていても痛くも痒くもない。そして再生してみると予想以上の高音質だったので、とても満足した。旅行先でもネットや番組のサイトが落ちない限り宿で高品質収録が可能になる。

Konnnichwaチョコは、サクラとドイツなどでのアーモンドの開花が同じ感じになるので、無理のないコンセプトかもしれない。お味のほどは今迄出ていたものと比較すると確かに少しチェリーかなという程度で、招き猫や色合いからなんとなくコンニチワである。不味くはないので、今後も数回は洒落で買ってもいいかなという感じである。

上のN饗の演奏は、予想通りの95歳のブロムシュテット指揮のマーラー交響曲9番で、何とか破綻無くという演奏で敢闘賞ものだろう。それゆえに余計に対位法的な合いの手の入れ方も音楽的には大きな問題を感じた。嘗てフランクフルトのアルテオパーで聴いたデュトワ指揮N饗がしっかりと内声部などで歌えないのを知って、厳しいなとは思ったのだが、昨今は指揮で制御できる指揮者が振っていたことから目立つことはなかった。

試しに昨年のブレゲンツとフェルドキルヒの二カ所で聴いたペトレンコ指揮フォアールベルクの交響楽団の演奏を比べてみた。ヴィーンから最も離れた地方の交響楽団であって決して上手な楽団ではないのだが、そして技術的にも厳しい楽団で、実際に金管などが外していたのだが、録音を聴き返すと記憶のそれよりも立派な音楽をやっていた。勿論指揮が立派で、更に春の中に極秘で練習をしていた成果が出たのか、その音楽的な明白さはその前の「千人の交響曲」を凌駕していた。そして驚いたことにN饗よりも立派で綺麗な総奏を奏でていた。

N饗は正しい音を出すという事では遙かに上手いのだがアンサムブル文化はあのようなホールで演奏していたのでは何世紀掛かっても出来上がらない。同じ下手であっても嘗てホルスト・シュタインやザヴァリッシュなどが振っているときの方が良かったという評があるのはなるほどと思う。要するに指揮に関係なくて出来るアンサムブルに音楽文化的な土台が無いということでしかない。なによりもそういうことを逐一適格に指摘する玄人がないないのが救いようがないのである。まあ、95歳の老人よりも短いかもしれない歴史しかない文化団体とすれば、老人の方が遙かに大切なのかもしれないが。

次のアルテオパーでの演奏会に向けて、7番交響曲に戻る前に、もう一度9番に想いを寄せられてとても良かった。特にニューヨークとの往復の話などを改めて読むとなると、益々、「スペードの女王」、「トリスタン」そして「マイスタージンガー」おそらく「パルジファル」へとその創造と断章みたいなものを思い浮かべられる。



参照:
とても味わい深い残響 2021-01-30 | 音
全てに向けたお別れの歌 2021-10-07 | 音
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YouTubeで演奏会紹介

2022-10-16 | 文化一般
一挙に12月のミュンヘン行の準備である。宿泊等は準備してあるのだが、まだ入場券が揃っていない。特に入手困難なものではない筈だが、予算を定めると中々希望の席が入るかどうかは分からない。

昨年のようになにがなんでもというのとは違って、予算の上限を決めたい。元々座席指定に予算は余り立てない。理由は価値があるかないかだけにしか興味がないからで、高価であってもその価値があるかどうか、たとえ安くても価値がなければ無意味だからだ。まさしく関西人の「高くて美味いのは当たり前」はその価値を値踏みするという事である。勿論、「廉くて美味いもの」にこそ価値がある。

しかし今回はそこ迄の価値がないことが分かっているので、上限を設けて、その予算内で何とか押さえようとしている。一枚は最終的にはスコア席でも良いと思っているのだが、先ずは舞台も見える安い席を入手すべく試みようかと思う。

九月までは明らかに客足が遠のいてコロナ前には戻っていなかったが、戻ってきた感じがあって要注意である。安くていいところはミュンヘンの常連さんに狙われる。入手は難しいだろうから、立見席と両狙いにするか?その上は予算をオーヴァーとして、一か八かで椅子を取りに行くか。

もう一枚は、予算の上限をどこまで落とすかである。上げれば座席指定をしたいのだが、そこまで拘る必要があるのかどうか。三段階ぐらいの幅で狙いたいが。宿代に既に80ユーロ計上していて、それだけで燃料費をいれて200ユーロ。更に既に購入してある券が50ユーロ、クリスマスのお土産を加え、全予算で400ユーロを越えそうだ。ここから二種類の券の金額を逆算していけば上限が自ずから弾き出される。

もう一つのファクターとして、通常とは出かける目的も条件も若干違うので、平素にはあまり使わない席を狙いたいとも思う。さて結果はどうなることか。いずれにしても昨年のミュンヘンの劇場の修羅場の様な争奪戦を一度でも経験すると、どのような場合も想定外のことはなくなる。
CLSX Talks: Titus Engel x Karsten Witt


ネットに新しい情報があった。指揮者のティテュス・エンゲルがハムブルクとベルリンでポーランドの放送交響楽団を振るというものだ。この日程は知らなかったが、YouTubeにマネージメントのヴィット氏がエンゲルにオンラインインタヴューをしている。この事務所は、有名どころではインバルとかタベア・ツィムマーマン、先ほども日本でリサイタルをしたクリスティアン・プレガルディアン、ムストーネン、サラ・ヴァ―クナー、日本関連では細川とかダイシンなど、作曲家では故リゲティやチェルハなどが入っている。先日クロンベルクで授賞した奥さんのヘッカーも入っている。

プログラムからすればエンゲルには指揮者としていい機会で、玄人筋は関心を持って集まるのだろう。エルフィーのあとフィルハーモニーでの演奏会となるので、成功すればこうした意欲的なプログラムで従来の大交響楽団を振る機会も増えるかもしれない。ポーランドの放送局が放送してくれないかと期待しているが、想定されるものから出かけるには少し遠過ぎる。



参照:
塗り潰されていた感興 2022-08-10 | 音
真正ハイカルチャー 2022-05-29 | 音
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ミュンヘン行の代わりに

2022-10-15 | 生活
金曜日は七月以来のミュンヘンの夜を過ごす予定でいた。それが全部流れた。被害額は知れている。その代わりとも思うのだが、15ユーロの協奏曲付き演奏会に躊躇した。30分ほどのドライヴで買い物のついでに有名ヴェテランピアニストで有名指揮者のコンサートであるが、期待される内容からすればまだ高いと感じた。10ユーロなら燃料費も往復10ユーロぐらいなのでいいと思ったが、先のウクライナの30ユーロ程のユースコンサートの様に動機付けがなかった。同じバイロイトで指揮する指揮者と言ってもやはりオクサーナ・リニヴはスター指揮者だ。ユース楽団に寄付することも構わない。

嘗て催し物の出場者の頭数とかでその値踏みをしていた人を知っている。なるほど経済的に考えれば、そのギャラの頭割りと会場の客席数となる。でも少し事情を知れば必ずしも頭割りとはならず、つまり大合唱付き大編成が必ずしも高価とは限らない。

上の場合であるとヴェテランピアニストのギャラは恐らく上位であろう。もしかすると人気のソコロフよりも上かもしれない。でも音楽的にはそれ程期待されない、また指揮者もやれることが分かって仕舞っていて、大きな可能性が開いている人ではなくて、もう既にキャリア的にはポシャっている。個人的にはなにも仕留めに批評しようとも思わないので、出かける気がしない。勿論そのレパートリーには興味があるのだが、それ以上のものではない。

冬タイヤに交換して晴天となった。しかし朝晩は徐々に冷えるようになってきた。夏時間の間は何とかなりそうであるが、準備しておかないと寒さで暖房を入れたくなる。その前に対処をしておこう。天候からすれば来週前半に窓掃除としたい。晴れ間が続き最高気温摂氏20度を超えるときがチャンスである。

次のお勉強は再びマーラー作曲交響曲七番である。前回の纏めを進めて行くと同時に更に深く入れるいいチャンスである。ぼちぼちとルツェルンでの演奏を振り返っていこう。

冬タイヤに替えてから、遅くなったものの12時過ぎで未だ近くのパン屋の支店が開いていたのでそこに立ち寄った。ナッツなどが含まれているパンでそこで買うのは初めてだった。スイスなどに出かけても何時も探すのだが、材料費が高価過ぎるので中々ありつけない。一度購入したスイスのベルナーオーヴァーランドでのそれが今まで最高の出来だった。旬で材料が安く入る時にしか作るものではないのだろう。考えてみれば分かる様にヴィタミンとかの含有量で冬には欠かせないような健康食品だと思う。

最近は走る直前にグリコースの飴を摂っている。凝縮しているだけでなく、車の居眠り防止同様に気付けになるからだ。座業の時のしかしデスク脇にはおかないようにしている。習慣にしたら間違いなく体調がおかしくなると思っている。

金曜日に出かけなくなったことで、今週のお勤めも無理なく済ませれるかと思う。若干雨勝ちの天候であるが雨上がりに上手く時間が作れていて幸いだった。夏時間が終われば夕方も引き続き日没前に活動可能となる。



参照:
ぼちぼち始めたいお勉強 2021-10-17 | 生活
縁の無い放送交響楽団 2022-10-12 | 文化一般
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吹かされる黒い森の心理

2022-10-14 | アウトドーア・環境
承前)ロマン的な跳躍というものも存在するだろう。偶々乍ら、ベルクの歌劇などの後の作品としてヒンデミートによる「ヴェーバーの主題によるメタモルフォーゼン」が浮かび上がった。この曲には昨秋再び巡り合えた。その演奏に関しては既に纏めたのだが、その時に調べた原曲の民謡風のものにも想いが向かった。そしてメタモルフォーゼン、まさしくこの制作におけるそのヴェーバーの音楽の本来持っている危険性とその後のナチズムにおける「黒い森」の心理がここではパロディー化されている。ヒンデミートの創作の場合は反ロマン主義と反ナチズムとしての基本コンセプトであったのだが、それがこの制作ではまた今日的な視座からあらゆる社会的な関心事としてここでは扱われている。

バーゼルの「魔弾の射手」は長期ランで好評のようだ。どうも12月まで10回ほどの公演が計画されていたようで、結構入っている。そこで新たな批評なども出ていて、大成功している証拠でもある。恐らくチューリッヒなどのスイス国内だけでなく、遠方からもマルタ―ラーファンが駆けつけている様だ。つまりターゲットはオペラファンだけでなくて、芝居ファンも多いのだろう。

ホームページには一週間ほど前にティーテュス・エンゲル指揮の新たな音源がアップされていた。流してみると其の儘劇場の装置で簡単に録音されているに過ぎない。いつものようだがこうした録音を簡単に出している劇場も可也の度胸だと思う。元々その音楽的に高度な表現とかで売っている劇場ではないから可能なのだろう。

このような短い音源だから参考程度にしかならないのだが、とても面白かった。初日に聴いたものとの違いははっきり分からなかった。しかし序曲に於いても既に述べたような奈落のリフトアップをどうしても頭に受かべてしまう。実際によく録れている高音質再生ならば楽器の響き方が全く異なってくるので、その響きから上下動が見えるように聴こえる筈である。

其れでも批評にある様に緊張感もあり、尚且つ古楽奏法の殆どラフな音が出ていたとされる通りだ。なによりもこうして再聴すると、その一拍目のアクセント付けからの強調は可也のもので、基本コンセプト其の儘だろう。

アガーテのアリアは、歌手の実力に合わせて最大限にその歌を引き出している。特にフランス人の歌唱だと思うが、ドイツ語のアーティキュレーションをみっちり付けたようで、実際にそうした指揮をしている。序曲に於いてもああした歌い口はフルトヴェングラーとかそうしたドイツの指揮者に通じるもので、その様な面も高評価に繋がっているのは当然なのだ。

逆に、もう一つの大きな基本コンセプトであった「狩人の歌」がいいアクセントで歌われた後は、ガス抜きの様にホルンの独奏を女性奏者が舞台上で吹かす。もう一つのパターンが、管弦楽団がビールマグを口にあてながらハモるのである。その時舞台上で合唱団はブロイライの机を囲みながら各々がケースからヴァイオリンを取り出して音無しに弓を動かす。(続く)



参照:
録音を出してしまう度胸のあるバーゼルの劇場 (pfaelzerwein@pfaelzerwein_en)
独墺核レパートリー 2021-12-02 | 音
独墺交響楽の響き 2021-11-24 | 音
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プロパガンダの管弦楽

2022-10-13 | 歴史・時事
先日話題のテオドール・クレンツィス、バーデンバーデンがその支配人の前任地ドルトムントらと元々の公演を変更して開催しようとしている。その反響が小さな渦となっている。先ずは一貫してその指揮者やアンサムブルのプーティン政権との繋がりを追及していた音楽ジャーナリストのアクセル・ブリュッゲマンが告発のYouTubeを上げた。
Debatte um Teodor Currentzis


とても問題点が纏まっていて、これを観たら、これらの活動がやはりプロパガンダの活動でしかないとしか思えなくなる。

既に事実関係に関してはここでも扱っていて一通りは言及していたと思うが、各々の事象をこうして結び付けられるともはやその活動に一貫性を見出す。

ここでは扱われていないが元々の活動がペルムの地元の劇場からの援助が切られて追い出される形で最終的にペテルスブルクを新たな本拠前提にそこの経済的な援助つまりプーティンの地元であり地元の市長やプーティンの金庫からの得るようになったことで明らかだ。それがクリミア半島併合後のロシア国籍の取得と共に大きな事実となっている。要するにどのような理由があったにしても、そのギリシャ人がプーティン政権下でプロパガンダとしてその音楽活動が為されたことは最早覆しようがないであろう。

その西欧での活躍の場になったのがヴィーンのコンツェルトハウスで、そこの支配人はその楽団ムジカエテルナのリーヒテンシュタインの財団代表だった。つまり金庫を管理していたとなるのであろう。ソニーなどとの契約のギャラもそこに払い込まれていたのだろう。日本からも多くの金額がそこに支払われた ― まるで統一教会である。

その蜜に群がった。ヴィーンのコンツェルトハウスの理事にゲルギーエフがいたと、そこで反吐が出るようだとされているが、実はバーデンバーデンの芸術アドヴァイザーにもそのプーティンの協力者のその名前がある。

そして今回の公演内容の一部が変更になった事を地元のネットジャーナルは伝える。「トリスタン」のそのドイツの歌手が下りたことで変更を余儀なくされたその事情が明らかにされていないと。つまりなぜドイツの歌手が同じプログラムのペテルスブルク公演のみならずバーデンバーデンでも出られなくなったかの説明がなされていないとしている。バーデンバーデンで練習を始めるという情報が出たところだったので、少なくとも二人のテノール歌手がトリスタン役の歌唱を辞退したことになる。プーティンかその金に忠誠なのは同じドイツの歌手ゲルネだけである。

その代わりに今日他のオペラを演奏する訳にはいかない、ヴェルディの「レクイエム」への変更に関して「僧衣を着たオペラで、音楽の歴史の中で傑出した作品であり、現在の状況においての私の眼から観たステーツメントとして受け取って貰って構わない。」という言葉がスタムパ支配人の口から読み上げられたようだ。

この指揮者が、プーティンの政策にコメントすることが出来ないとしても、最早自らの口ではなく敢えて曖昧な言葉を選んでその思わせぶりなプログラムでなにをしようとしているかは明らかなのである。それは金でしかない。生地のギリシャから動乱期のロシアに移ったのは勿論その野師根性からだったのは当然分かるのだが、十分な成果が出る途上において、ロシア国籍を取得して、大々的なプロパガンダを展開したのは決して偶然のことではないだろう。



参照:
いつの間にか宣伝に 2022-10-10 | 歴史・時事
遠くから想うソヴィエト 2022-03-27 | 文化一般
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縁の無い放送交響楽団

2022-10-12 | 文化一般
案の定、キリル・ペトレンコがミュンヘンの交響楽団演奏会指揮をキャンセルした。既にリハーサルは始まっていたようだが、体調不十分で下りたようだ。足のケガは、先月のベルリンでのフェストシュピーレで改善されていた様であり、それが更に悪くなってもあまり考えられない。やはり指揮者特有の鞭打ち症状や肩への負担ではないかと思う。次の予定は11月初めからの米国就任お披露目ツアーへの準備の三晩の定期公演と壮行のフランクフルトでの会となる。なによりも重要なツアーなので大事をとったということもあり得る。

兎も角、こちらは早速宿をキャンセルした。まだ無料キャンセル迄一日以上余裕があって良かった。券は67ユーロであるが、楽団に寄付である。ペトレンコ指揮キャンセルでは過去にアムステルダムでの演奏会があって、それもその価格帯であった。ペトレンコは本職以外の出番では、フォアアールベルクの出演のみ重要にしているが、その他はあまり重要ではない。それが職業倫理の様である。だから、客演指揮にはそれ程の投資はできないのを周知である。

その意味から、今夏のオープニングツアーの二日目プログラム降板は痛かった。損失額として今迄の最高額であった。代わりのハーディング指揮の演奏会などは交通費や滞在費の価値は一切なかった。

今回も適当な時間にキャンセルとなって、無駄足は避けられた。想定内であった。またもやミュンヘンの放送交響楽団とは縁がないのだと思った。嘗てのクーベリック指揮の時も出かけていなかった。そして今回の損失は67ユーロであったが、キャンセルで出費を避けられた額はお土産などを含めれば250ユーロを超えるであろう。出かける前のタイヤ交換は少し早いが、新たなタイヤが必要ないのであれば、少々は早くても消耗にはあまり関係がない。

次のお出かけは、11月のフランクフルトで余裕が出来た。その前に発注していたグランクリュワインなどを回収しに行かなければいけない。ミュンヘンにコーヒーを取りに行くのは遅くなるが、次の訪問はクリスマス時期となる。鬱陶しい11月をどのように乗り越えるか。

12月は計画をしていて、宿泊なども準備している。ただしまだ入場券などはまだ全部揃えていない。今週のお仕事となる。出かけることを考えていて忘れていたのだが、価格帯やその他思っていたよりも注意しなけけれいけないかもしれない。劇場や音楽会場の売れ行きを見ると、ここに来て一挙に聴衆が戻ってきている感じがする。

我々からすると夏前から平常化していたのだが、一般の聴衆にとってはマスクも検査もなくなったということで通常のエンタメタイムを期待しての行動変化なのだと思われる。実際にはマスク規制などは再び導入される可能性もあるのだが、音楽会場等が公共交通機関よりも安全とされ、小売店などと同じ扱いになった事が大きいのかもしれない。なによりも住所氏名まで書いて更に証明書類迄を用意して訪問というのはエンタメ精神からは大分外れていたからであろう。



参照:
ミュンヘンの放送楽団 2022-10-11 | 女
骸の上で商売をする 2021-04-18 | 音 
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ミュンヘンの放送楽団

2022-10-11 | 
週末金曜日ミュンヘンからの中継があった。ラディオもストリーミングも両方流していた。ご当地の放送交響楽団がミュンヘンのレジデンツ一角にあるヘラクレスザールから生中継した。曲目は一曲だけ新しい作品があったのだが、他の曲が何だったかも忘れた。指揮者は以前にそこの劇場のアシスタントをしていたジャコーという女性でフランス人である。

彼女が仕事をした「南極」初演は記憶に残り、初日当日も話しをしていたと思う。トロンボーンの管楽器出身の人で、新しい音楽の感覚も期待した。残念ながら今回も彼女の音楽は不明確だった。折からPCでのアンドロイドエミュレーションを弄っていて、ネット回線が切れてしまったので、映像は殆ど観ていない。しかし音楽は流していたのだ。

指揮の技術もあるのだろう、女性はキリル・ペトレンコの助手をしていたといううだけでコペンハーゲンの音楽監督に抜擢されている。勿論レパートリーなどは殆どなかった指揮者であるが、やはり演奏会でもそれ以上の力は示せていなかった。

インタヴューでは、楽団を指揮する場合にその自主性を活かして音楽を作っていくというような話をモットーとしていた。まさしくその指揮からは音楽のヴェクトルも見えにくい。重要なことが徹底していないのだろう。昔からエリアス・カノッティーの有名な文章がある様に、指導者としての指揮者が定義されているが、勿論現在においてはファシストなんかでは指導者像はありえないのだが、やはりリーダーシップとなる音楽的に導くものが見えなかったのである。新しい音楽の場合などは会場の誰よりもその曲を知っている筈なのにである。

なにを拘ってそのことを書いているかというとやはり放送交響楽団が気になるからである。今週ミュンヘンに出かけて聴く予定をしているからである。前回はミュンヘンかフランクフルトかどこかで首席指揮者のマゼール指揮で聴いている筈なのだが、あまり記憶に残っていない。とても旧主的な放送管弦楽団なのだが、ツアーに組むようなプログラムが保守的なものとなればベルリナーフィルハーモニカーやヴィーナーとか日頃から聴いている聴衆には全く記憶に残らないのである。やはり今回もバランスは綺麗に取れていてもそれ以上の明晰さつまり音楽自体が弱く、アンサムブルの方法もコンセルトヘボーの様に精妙さがない。そうした個性は当該のホールであまり強い音が出せなかったことで形成されたとされているが、戦後の短い歴史の中で培われてきたものなのだろう。

さて、今週の演奏会はペトレンコのミュンヘンで成功してから初めての客演指揮で、メンデルスゾーンの大合唱オラトリオ曲「エリアス」が演奏される。それも新しいホールで演奏されることから、どのような規模の合唱団が入るかも期待されるところである。

ペトレンコの指揮では2019年にマーラー作曲「千人交響楽団」がブレゲンツでまた開幕ツアーで「第九」が演奏されたが、またその前にはミュンヘンでベートーヴェン作曲「ミサソレムニス」が演奏された。来シーズンぐらいにはミュンヘンでの再演も期待されているが、今回はベルリンに先駆けてオラトリオ曲が演奏されることになっている。この放送交響楽団は今迄もこうしたオラトリオ演奏なども名演を展開しているので、今回も上手に伴奏が出来るのではなかろうか。要するに音楽的な個性の弱い交響楽団であることは変わりない。



参照:
南極探検での蓄音機 2022-02-14 | 文化一般
宇宙の力の葛藤 2019-05-20 | 音
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いつの間にか宣伝に

2022-10-10 | 歴史・時事
二月のプーティンによる侵略以降色々な影響があった。最も顕著なのはロシア音楽化の扱いだった。楽曲などの文化へのボイコットは特殊なポーランドの様な後進国でしか起こっていないが、圧力は少なからずあったと思われる。そうした波の中で最も顕著だったのはプーティン政府の協力者であった指揮者の追放で、ミュンヘンのフィルハーモニーの音楽監督をしていたゲルギーエフだった。個人的にもそのドイツでの活動拠点であったバーデンバーデンの祝祭劇場には間接的に圧力を掛けれたと思う。成果でもあった。

反面、ロシア人ゆえのボイコットなどは許容されるものではないので、それに対するカウンター署名はした。その様な経過の中で、一人問題になるロシア人がいた。日本でもソニーの後押しで大々的に売り込まれて、二時間程の握手会に行列を作ったことで話題になったテオドール・クレンツィスという指揮者がいた。そのタレントイメージとしてメタルロック風の服装などと同時に反戦なども当然の如く語られていたのでその去就にも注目が集まっていた。

しかし、先日になって初めて独公共放送SWRの交響楽団の彼の後任が発表されたように、公の機関も様子見をしていて、それまではその姿勢を見守るとしていた。その間に、売り出されていた彼自身のペテルスブルクの楽団などがプーティンの銀行から支援を受けていたことや、その資金はリヒテンシュタインなどで管理されていて、ヴィーンのコンサートホールの理事などが管理していたことが発覚した。

よって時間の問題であったが、その回避策として新たな楽団を30国から集めたプロの楽団で構成してというツアーが銀行のルクセムブルクを始めとして動き出す一方、ケルンのフィルハーモニーからは年始のSWR交響楽団のツアー演奏会をキャンセルすることが発表されて、各主催者は再考と判断に迫られることになった。

またもやロシアとの関係の強いバーデンバーデンでは以前の楽団ムジカエテルナの名前で恒例の演奏会が秋の音楽祭としてそこで練習を始める予定であったのが、その判断が下されることになった。既に一演目を除いて発券中止となっているので、中止に違いない。もし、新たな管弦楽団ユートピアなどで差し替えとなると大きな問題になるであろう。なぜならば、それも以前同様にプーティンの銀行とオーストリアの極右でレッドブルのオーナーらがスポンサーになっていることが分かっており、要するに指揮者の出まかせでしかないことがはっきりしたからである。

ギリシャに生まれ、早くからロシアへと渡ってそこで音楽生活を始めたようだが、なんとロシアの国籍を取得したのはロシアがクリミア併合してからとあり、完全にプーティン政権のプロパガンダであることが明白になっている。するとソニーを巻き込んでのその売込み戦略などが可也悪質であることが伺い知れてもはや看過できない存在になってきている。

一方で新楽団のハムブルク公演などの反応も開場と同時に拍手喝采するなど熱狂的な聴衆がついていて、可也の高齢者のそうしたロックファンが集うことになっている様である。要するに大衆動員力もあって、その背後にはやはりロシアのインテリジェンスが潜んでいるのではないかとも疑われる。上のネトウヨでしかなかったゲルギーエフよりも厄介な存在であったかもしれない。



参照:
上手く機能したストッパー 2022-02-27 | アウトドーア・環境
独裁の協力者を許すな 2022-02-25 | 文化一般
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第一回カザルス賞授与式

2022-10-09 | 文化一般
(承前)日曜日のクロンベルクでは、第一回カザルス賞の授与式もあった。てっきりアカデミーの生徒の中から優秀なチェロ奏者が選ばれるものと勘違いしていた。しかし表彰されたのは、スターピアニストのマルティン・ヘルムヒェンとチェロ奏者ヘッカーの夫妻であった。
 
選考理由はそのアフリカでの音楽を通じた社会的な活動に対しての授与だった。考えてみればカザルスの名前の下でそうした社会的な活動以外の何ものもその名に価しないことは当然であった。
 
その為、思いがけなく夫妻お二人のデュオを聴けた。シューマンのファンタジーであった。ヘルムヒヘェンは今最もドイツでいいピアニストだと思うが、それもなにもソリストとしてではなく室内楽奏者としての確かさとその音楽性である。まさしくカザルス賞に相応しいと思う。
 
この二人の活動を敢えて紹介することもないほどに、その音楽からはそうした今日の演奏家としてやるべきことが聴こえてこないだろうか。少なくともカザルス賞に価する演奏家であると思う。
 
正面のバルコンでその演奏を聴いた。比較的遠い席であった。やはり室内楽ホールとしてはそれ程大きな音はしない。ピアノが若干後ろに置かれていたこともあって、伴奏としての明瞭さも若干欠けた。前のチェロもそれほど密な響きとはならなかった。やはり質な額でもシュボックス型のホールの方が優れているのは明らかだろうが、視覚的な優位さが何よりもこうしたホールの最大利点だろう。
 
だからこの新ホールに於いても如何に壁からの反響を作るかに最大の配慮がされたようで、思いがけずに複雑な曲線を描く壁の形となっている。それによって、舞台の一部が見えないというような苦情を生じさせている。
 
500人収納規模で中規模の管弦楽までが演奏可能なホールとしては中々贅沢なことであり、ここをベースとする欧州室内管弦楽団が今後どのような演奏会を行うのかなども期待されるところであろう。計画途上で天井を上げる必要があったとあるが、その点ではもう少しもの足りない感じがしたが、数値的にはどうなのだろう。
 
ソリスツの場合と管弦楽団の時では音響を変える様に壁を動かしているとされるのだが、実感からすると、ソリスツの場合も若干暈けて、室内管弦楽団の場合も減衰が十分でないような印象は受けた。現時点での限られた感想であるが、新聞等が書くような最初から微調整も待たないで文句のつけようがないという評価はやはりあまり信用できない。
 
先頃引退を表明した指揮者のバレンボイムが建設したベルリンのホールも同じような規模であるが、そちらの方は基本的にシューボックス型にフォーラム状の客席を配置してあるようだ。
 
勿論決して悪いホールでもなく、今後フランクフルトのアルテオパーに行くならばクロンベルクに喜んでいきたいと思う。(続く)
 
 
 
参照:
引き寄せられた街の様子 2022-10-03 | 雑感
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ドイツの上に開く窓枠

2022-10-08 | 雑感
ベットに入ってタブレットを弄った。先日来試していたウィンドーズ10で使うリモートコントロールデスクトップの為にタブレットにマイクロソフトのそのアプリケーションをインストールした。それが使えるようになった。他にも方法はあるのだが、一番問題がなさそうなのでそれを使った。これで、PCでDLか何かをしながらベットに入っても、そこから終了がしやすくなる。LINUXへはVNCを使っていて、これで殆どのイントラネットでの操作がリモート可能となった。寒い冬になると助かる。

その勢いで、タブレットのアプリを整理していたら暫く使っていないNHKの放送などを聞くアプリの為の位置情報フェークアプリを見つけて、それを消去したら、新たなものが見つかったので試してみた。すると二三年ぶりで上手く入れた。つまりNHKのラディオ放送が再び聞けるようになった。PCでもコロナ前までは入れていたのだが、ここ暫くはそのプログラミングが複雑になって入れなくなっていたのだ。

つまり、今年四月からEU内では見れなくなったYahooJapanも見れるということで、消去したばかりのそのアプリを再インストールした。それが上手くいったので今度は欧州では一度もダウンロードできなかったメールソフトもインストールした。これだけは今後どのようになっても使える筈なので助かる。最近はこのメールアドレスもブロウザーで等しか使えていなかったのだが、これで旅行先でも使えるようになった。

そこ迄確認したので、今度はとPCで使っているアンドロイド枠でこれらのアプリケーションを翌朝試してみることにした。それでなにが得られるかというと、ベルリナーフィルハーモニカーのデジタルコンサートホールのアプリケーションでハイレゾを流しているように、今度はNHKのFMネット放送が以前と同様にPCで録音できるようになればとの魂胆だ。

暖かい一日となった。木曜日の夕方に走ったので、残念ながら出かける時間はなかったが、黄金の十月の一番いい期間を愉しめそうである。来週は冬タイヤに替えるが暫くは無用だろう。

前日に壊れていた窓を直しに来た。見に来て応急処置したのが8月の中旬だった。ドイツで一般的な窓枠の上側を開けれる機構の金具がなかなか入手できなかったようだ。ルツェルンに出かける前に処置しておかないと出かけているうちに風で窓が開いたりと不安だったので、その前に来て貰った。もっと早く9月に上を開けられると空気の入れ替えになると思っていたが、一月遅れの今となった。しかしまだ暫くは上を開けておける気候もあって何とか間に合った。それ以上に冬になると密閉性が低いと、つまり上までしっかりと金具で押さえられていないと寒いところだった。

来週は、ミュンヘンで演奏会がある。出かける準備を週末にするつもりである。新しいホールへの最初の視察であり、シューボックス型のホールでの豊田音響に仕事ぶりも確かめてくる。先日のクロンベルクでもホール音響設計自体は数字で出来上がるものなのでそれ程大きな問題も無くて誰でもノウハウは同じようと話しがあったが、最終的な仕上がりにやはりそのコンセプトや哲学が表れる。ハムブルクのエルフィーに関しては既に評価を下しているので、ミュンヘンのイザールフィルハーモニーも楽しみである。



参照:
安物セイロン茶の効用点は点 2022-08-19 | 生活
ドンドンガタガタ足踏み点 2019-03-10 | ワイン
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ピアノ付きの演奏会アリア

2022-10-07 | 
承前)日曜日のクロンベルクの演奏会、なにも禿頭を観ていたばかりではなかった。プログラムとしての頂点は、アナ・プロハスカが歌った「イダマンテの歌」から編曲のコンサートアリア「あなたの事を忘れろというのか」K505であった。コンサートアリアとして注意していなかったのでお勉強をしていなかったのが残念だった。そもそも管弦楽が伴奏するコンサートアリアに平均率ピアノが入っていることが分からなかった。実際にはモーツァルトが伴奏したらしい。所謂弾きぶりだったのだろう、レチタティーヴ付きロンドピアノ協奏曲と考えると間違いか?

当夜の感想としては、おかしな伴奏から逃れて、ピアノのしっかりした伴奏で歌が聴けると嬉しかった。実際に伴奏のヘルベルト・シューヒュというルーマニアのピアニストは上手く、調べるとエコー賞もウルマンの協奏曲録音でとっているソロストだった。なぜこの人がここで出てくるのかは分からなかったのだが、プロハスカがそのピアノに合わせるのを聴いていると仲のいい人ではないかと感じた。少なくとも音楽は指揮者と違ってしっかりしていた。ただそれだけに余計に古楽奏法と現代のピアノの間に違和感もあって、管弦楽が適当にオブリガートであとをつけているような感じさえした。恐らく元々その様な曲なのだろう。

プロハスカを意識したのは、一昨年のザルツブルク音楽祭回顧番組のカラヤン指揮「バラの騎士」でのシュヴァルツコップを筆頭とした女性歌手陣の歌へコメントをする番組からで、実は2015年にも復活祭でラトル指揮で聴いていた。恐らくラトルがベルリンで指揮した中で指折りの名演だった「ファウストの劫罰 」で歌っていたのだが、おぼろげながらの印象しかない。そして今回批判的に聴くと、やはり声の質つまり発声への拘りやレパートリーの深め方はとても良いと思った。

まず最初にモーツァルトの「コシファンテュッテ」のフィオルデリージのアリアを歌ったのだが、この声はザルツブルクで聴いていないかと懐かしく思った。調べてみると同曲は二回中劇場で聴いているのだが、彼女の歌ではなかった。それほどモーツァルトのイタリア語の歌のスタイルを作っていた。それが顕著に分かるのは、ベルクの「抒情組曲」にドイツ語歌詞をつけたものを歌ったのだが、横からだと全く歌詞が聴き取れないのである。恐らく編曲者の亡くなったオランダ人作曲家の責任だろう。ベルカントってイタリア語の言葉を知らなくても聴き取れるのでそれ程なのかと改めて感心した。

そして、アンコールには久しく聴いていなかった「フィガロの結婚」から薔薇を抱えながらスザンナのアリア。もしかしたらルチア・ポップの歌声以来ではなかろうかと思った。勿論声質は違うのだが、決して容易な歌ではないと思うのだが直ぐにその劇に引き込むような技能と舞台態度は感心した。これだけ頂点の歌唱を聴いていても満足出来るのだから大したものなのだ。なぜ、もう少し舞台に出ていないのかは分からない。声は確かに大きめではないので大劇場では厳しいのだろうが、理由は他にもあるのだろう。

昨年ペトレンコが振ったマーラーの交響曲四番の編曲者が彼女の家庭教師で、玄人筋の出身であるから音楽に対する接し方がやはり違うというのが正直な感想であった。(続く)



参照:
銅鑼の余韻の領域限界点 2015-04-07 | 音
またまたTacetの芸術 2021-03-01 | 女
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名曲もイントロ当てクイズ

2022-10-06 | 文化一般

ヴィーンの国立劇場の音楽監督フィリップ・ヨルダンが事実上更迭となった。夏には2025年シーズンからの延長が発表されていなかったので、終了と見られていたが、夏の間に既に告知されていたらしい。

しかしなぜかヨルダンの方が強い反論をしている。最も興味深いのは現支配人のロスチッチに請われて就任したので、何ら変わりがなく、更迭とは何事かと反論している。自らは応募したポストではないというのだ。

これはとても興味深い発言で、なるほど同じマネージメント事務所のキリル・ペトレンコがベルリナーフィルハーモニカーの直前の試験公演をキャンセルした事情にあやかったぐらいにしか思われない。そんなことが通るのは世紀の天才しかいない。

パリの国立オペラの音楽監督をしていた立場からヴィーンに就任するとなって、到底務まらないだろうというのが大方の見方であったが、聴衆の人気に押されての期待は無くはなかった。しかしこの間にコロナ禍があり、聴衆の特に日本など海外からの観光客の支持やまたは日本への引っ越し公演の成功などの機会を逃して仕舞った。

劇場としてもヴィーンの市としてもそうした期待があったからこその抜擢であった筈なのだが、経済的にも期待される効果が得られずに裏切られたという事だろう。

兎に角、ヴィーンでは交響楽団の指揮者をしていたのだが、どんな名曲を振ってもイントロ当てクイズの様になにを指揮しているのが一秒ぐらいでは分からないという離れ業の指揮者だった。要するに楽譜に書いてある、それ以前の長短システムの、正しい音が出ていなければこれは音楽先進国では務まらない。

先日クロンベルクで聴いたモノがそれに近かったのだが、そういう基礎的音楽教育がなされているのかどうかは分からないのだが、古楽とか現代音楽とか称してその様な音を鳴らす演奏者がいることは間違いないようである。

そしてヨルダンの方は、劇場批判として所謂音楽劇場コンセプトに対して噛みついているのだが、まさしく彼に残された活躍の場としてその他の英米系の指揮者らとその市場を別けあわなければいけなかったのだが、全くの勘違いを披露している。本気でそのように考えているのかと知って怖くなったぐらいだ。

どうも全く分かっていない可能性がある。同僚の風貌が見劣るペトレンコが場末の劇場に追いやられて、こちらはその間交響楽団やらで盛んに売り込まれた。そしてヴィーンにまで上り詰めた ― 因みにその途上でミュンヘンでも機会を与えて貰ったのだが、誰も何も語れないぐらいの散々な評価だったのだろう。

ヴィーナーフィルハーモニカーがこれ以上イントロ当てクイズを演奏する訳にはいかないので、当地の公共放送が伝える様に、今後同劇場で指揮をすることがあるのかどうか、若しくは音楽先進国で指揮する機会が得られるのかどうか大きな疑問ですらある。



参照:
頭のどうも冴えなさ 2022-10-05 | 文化一般
「笛を吹けども踊らず」 2017-07-29 | 文化一般

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頭のどうも冴えなさ

2022-10-05 | 文化一般

月曜日には久々に頂上往復を果たした。どうも前回は5月だったようで、その時のタイムよりも大分悪くなっている。2月に足の調子が悪くなってから三回目ぐらいなのかもしれない。何とか最初の急坂だけは爪先足立蹴りが堪えたが、その後は問題がなかった。やはり坂の角度によるのか。それでも始終抑えて走っていた事は間違いがない。

気になっていたのは、一時間ほどの走りでも、上りの20分過ぎからのばて方なのだ。なぜならばその様な運動は7月のキムゼーアルプス以来怠っていたからで、平素の30分ほどの運動とは有酸素運動の質が違う。それに気が付くのは、幸いなことに上りではなくて、折り返し下りの汗の質だった。べっとりとした汗が出てきていた。誰が考えても運動の質が違うと分かる。そこまでやらないとスタミナもつかない、脂肪も燃えないだろう。しかし帰宅しての体重はそれほど減っていなかった。

上りにも考えていたのは、夕食で豚の肩肉だった。いいキノコが冷蔵庫にあったからだ。すると上から下りてきた家族ずれに挨拶して、嫁さんの後ろに隠れるように下りて来たオヤジの手元を見て思わず驚愕の声を上げてしまった。結構大きめな籠にシュタインピルツが一杯だった。するとオヤジが照れたような高笑いをしていた。見つかってしまったという気持ちだろう。いつも走っているコースの途中で穴場があるとは知らなかった。走りながら考えていたが思い浮かばない。知っているのは南プファルツの岩場の根元だったから名前の通り岩の根元にある。その様な岩場が思い浮かばないのだった。

帰って来てから、動いているベルリンからの中継の録音に加えてクロンベルクからの中継を流した。少し気になっていたがヴィデオ中継の方は其の儘オンタイムで最初を観損なった。前日に会場で禿頭をさらしていたエッシェンバッハが指揮で、冴えないと書いたのだが、やはり指揮者としてのスタイルがカラヤン時代の感覚が強くて、その衣装でも其の儘スター気取りの感じが抜けない。現在の中堅からヴェテランの指揮者でそういう態度をとっているのは皆二流で、ブランドとタイアップしているなんて馬鹿にしか思われない。音楽家にその様な夢も何も誰も求めていない。歌手でさえそうなっているところで、本当に冴えない頭である。

しかし前日のハムブルクの団体とは違って、HR交響楽団の演奏は悪くはなかった。前者も十年以上前にはティテュス・エンゲル指揮でも成功もしていたようだが、団員も老齢化して商業的になるとつまらなくなるのだろう。顔ぶれにドレスデンのシュターツカペレで弾いていたザクセン美人風の人がいて、どうも移籍したらしい ― 実はカナダ人で、クシュマウルのところにいた様なので弓遣いがなるほどと思った。座付き管弦楽団ならではの一節万両とはならないだろうが、復活祭等に名手パユの代わりに出るお弟子さんのフルートの女性やら放送交響楽団の割には結構多彩な感じになってきた。

それでもお目当てのテツラフのブラームス協奏曲でのヴァイオリンソロは良かった。それ程感心はしないのだが、やはり語り掛けの芸がとても力強くて引き込れる。会場の最前列では今度はミュンヘン優勝の岡本が聴いていたが、中々ああいう風には弾けないだろう。コロナ前にもフランクフルトでリサイタルを聴いたのだが全然悪くはなかった。こうした演奏家になっていくのはとてもいいことで、まさしくエッシェンバッハなどが為せなかったことではないか。それが音楽家としての姿勢ではないか。(続く
Frankfurt Radio Symphony Live: Christian Tetzlaff & Christoph Eschenbach with Brahms & Dvořák




参照:
基礎となるのは環境 2022-10-04 | アウトドーア・環境
持続的多様性のある味 2022-05-12 | 料理

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基礎となるのは環境

2022-10-04 | アウトドーア・環境

カザルスフォールムを視察した。外観の完成は未だ来年になるらしい。それでも環境ニュートラルの雰囲気は佇まいにもあり、フランクフルトのアルテオパーに行くならこちらの方がいいと思った。緑も水もあって美しい。そうした自然の恩恵を使ってヒートポンプで賄っている。

気が付いたのはロビーの広さが十分ではないことで、会場廻りが片付くことでテラスやバルコンなどが使えるようになるからだろう。今後に期待したい。

肝心の音響に関しては放送で聴いていた程ではなかった。座席の関係もあるだろうが、あれだけマイクを使えばホールトーンと細かな音とのバランスをとれる。演奏した楽団と指揮者がよくなかったので、到底高度な音楽的な表現は確認できなかった。

最大の問題は、ミナシというイタリア人の指揮が古楽器奏法を使うにしても和声のバランスもとれておらず、ただただ上声部や内声部を出入りさせるだけの演奏としていたことで、バロックから古典派迄全くその機能和声が不明確で、低声部から乗る調性色が小汚く奏でられていたに過ぎなかった。その一方でアルバンベルクの弦楽四重奏曲「抒情組曲」の室内合奏版になると、案の定いい加減なアンサムブルで低音のドローンのような音を鳴らしていたに過ぎなかった。全くを以て身も蓋も無いミナシ指揮であった。

その誤りは、今回ヴィーンの国立歌劇場音楽監督を契約期間延長無しに更迭されるフィリップ・ヨルダンの其れにも似ていて、独墺や先進音楽国以外ではあり得る事なのだろう。一体どのような基礎的な音楽環境がそうした音楽家を排出するのか、それどころかなにが業界においてそうした音楽家がキャリアを築かせる下地になっているのかなどととても大きな問題を提示している。

まさしく、アルバンベルクのこうした曲をあまりにも容易にオペラ「ルル」か何かの様に読み込んでしまう感覚は、もはや野蛮の始まりとしか思えない。会場ではこのアカデミーの審査委員でもある指揮者のエッシェンバッハが座っていたのだで、その様子をちらちらと観察した。

この程度の規模の楽団で、この様にしか振れないシェフってどうなのかなと思った。ハムブルクのエルフィーを拠点にしている室内楽団なのかもしれないが、これならば先日のここを本拠地とする欧州室内合奏団の方が楽器は違うのだがまだ今後も成功するのではないかと思う。結局古楽器奏法での耳辺りの新しさだけで、それ以上のアンサムブルの芸術に欠けるのである。それは指揮無しで、チェロ協奏曲の伴奏をした時にも明白だった。この曲の面白さは、ホグウッド指揮のヴィデオを観ていても、全く異なる所にあるのだが、ソロ共々真面な音楽が弾けていなかった。ソロはアルカンテ四重奏曲の創立メムバーとか紹介されているが、丁寧な音楽家ではなかった。アンコールとしてデテュユーの小曲を演奏したが全く以て表面的な演奏で、ブーレーズの薫陶を受けているといってもさっぱり感覚的に駄目なのである。久しぶりにハイデルベルクで私の前で自身の曲の演奏に耳を傾けていた作曲家の面影を感じた。彼の考えていた音楽ではないと直感的に分かった。(続く



参照:
引き寄せられた街の様子 2022-10-03 | 雑感
こじんまりとした日常 2019-10-24 | 生活

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引き寄せられた街の様子

2022-10-03 | 雑感
クロンベルクから帰宅すると殆ど午前様だった。19時30分始まりのコンサートで一度休憩があっただけだ。演奏会としては長めではあったが20分ぐらいだったろうか。写真撮影していたのであまり良く分からないが、30分は越えていない。それでも盛り沢山だった。

15時半前にはワイン街道を出て、途中立ち寄り先によって、クロンベルクの街には17時20分前には着いた。街道は、アウトバーンにはなっていないのだが、フランクフルト通勤者も多いだろうから、綺麗なバイパス道路になっていて、アウトバーンとあまり変わらない。対向車線でもなかったと思う。前回の訪問では普通の信号のある国道を走ったような記憶がある。だから今回も覚悟していたのだが、サムスンなどの大きな建物も過ぎ去っていった。

そこからホールの駐車場探しに30分ほどを掛けた。既に一つは確保していたのだが今後の為にと思って探ししたからだ。そこで結局街の全方位からアプローチしたことになる。古い山の懐の街なので車通りは狭い。街を入っていくと一方通行しか叶わない谷の奥へと入っていく。街の墓場まで分かった。とても遠い。ツェルマットよりも狭苦しい。戻るのが嫌なのでどんどんと突き進むとクロンタールというのを出て隣町のケーニッヒスシュタインへの幹線道路に出た。そこからまたフランクフルトへの幹線道路に戻って再侵入を試みた。

最初に見つけていた公民館へのベルリナープラッツの駐車場に入れた。既に18時に近かったからだ。そこから車で侵入できなかった街の目抜き通りへと歩いてみた。赤絨毯が引いてあったからだ。その先はヨハニスキルヘだったようだが、戻ってくると隣がこの街の名所シュトライトキルへだった。その名称は新旧の教会の戦いでそこの教会がどちらにというお話しなのだが、そこに住んでいた人を知っている。コロナ期間に亡くなったご近所さんだった。

今回のクロンベルク行には勿論故人との係わりも感じていたが、予期せずに吸い寄せられる様なことに相成った。特別な係わりを持っていた訳ではなく、街の厄介者の爺さんだったので、それ以上に親しくできるような人物でもなかった。しかし、その生家の中が幾つもの写真になっているような絵葉書を貰った。改めて検証してみたいと思う。それは故人の所縁について前回街を訪れた後に話したからだった。

ナチ政権下でのドイツの街の様子が如実に分かる想い出であった。肉屋に買い物に行くと「ハイルヒットラー」と敬礼をしなければ売って貰えなかったということである。母親がユダヤ人であったのだ。とてもよくわかる風景で、まさしく今日のネトウヨの世界のその先の情景である。

新しいホールを探していて、突然そこにということで一寸驚いた。しかし今後も出かける機会があるので、改めて出かけておいてよかった。もしかするとお墓も先通った街の墓地にあったのではないかと感じたぐらいだ。

雨に濡れて歩くと湿気が足元に伝わる赤絨毯を戻って、フランクフルトへの街道に戻った。新ホールはその先の駐車場から街道を渡って坂を下りて駅の方に向かう途中にあった。



参照:
クロンベルクの皇后陛下 2006-02-02 | 女
タウヌスの芸術家植民地 2006-02-01 | 文化一般
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