ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

イチロー

2006年07月14日 | Weblog
イチローになれなかったナカタ、ここのところよく目
にするフレーズだ。
方や世界一、方や予選落ちを比較してのことなのだが、
そもそも野球とサッカーを比較すること自体がおかし
い。
一選手が単独で活躍できる野球。
常に連動して、動き続けるサッカー。
その中での選手の役割は根本的に違う。
どうも、イチローを奉りたくてしょうがないマスコミ
の意図を感じる。

それに、野球の世界一といっても、本気で悔しく羨ま
しかったのはキューバと韓国ぐらいなものではないか。
本場のアメリカでさえ、ひょっとしたらなんとも思っ
てないかもしれない。
名ばかりの世界一より、自分たちの球団の利益優先だ
から。
それに、自国のリーグの勝者が即ち世界一という国だ
から。
世界のマイナースポーツである野球と、全世界的スポ
ーツであるサッカーは、そもそも比べるべきものでは
ないのだ。

あと、スポーツ全体で言える事だが、あまりに一選手
を神格化しすぎる。
スターにして、大衆的人気を煽り飯の種にする。
そんなメカニズムが働いてのことだろうが、どうもう
んざりする。
オリンピックなんか特にだ。
そう言えば、東京と福岡が候補地に立候補したらしい
(候補地に立候補って表現がおかしいか?候補地に名
乗りをあげたが正しい?)。
オリンピック好き日本人の本領発揮だ。
しかし、いい加減やめてほしい。
って、そんなこと思うのは少数派なのだろうか?

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コダーイ

2006年07月13日 | 音楽


名前は知っていたが、CDで聴くのは初めてだ。
知り合いから借りてきたもので、「良いから」と奨め
られたのだ。
無伴奏チェロソナタ。
演奏者は「LUDOVIT KANTA」。
当然のこと知らない。
今は亡き岩城宏之のアンサンブル金沢の首席奏者だと
いうことだ。

無伴奏チェロソナタといえば、普通浮かぶのはコダー
イよりはバッハだ。
初めてそのCDを買ったのが、今から20年ほど前。
ヨーヨーマのだったが、当時は今ほど知名度もなく、た
またま店にあったのがそれで、個人的には誰でも良か
った。
目的は「バッハを聴く」だったのだから。
それで聴いてみたら、やはりチェロは良いということ
になった。
順番からすれば、まずバッハは良いで、次にチェロの
ソロは良いということになる。
当時は、集中的にバッハ或いは他のバロックを聴いて
るときで、言わば「個人的クラシックの夜明け」だっ
たのだ。
今思うと、ミニマルミュージックが好きだったので、
バロックもすんなり入ってきたのではないか。
なんせ、「単調なフレーズの繰り返し」と思われるよ
うな音楽が好きだから。

で、今回のコダーイだ。
バッハと違い、強弱のある変化にとんだ曲想だ。
とかなんとか言いたい所だが、あまり比較するほど他
を知らないので、ぼろがでる前に一言。
「やっぱり無伴奏チェロソナタは好きや」
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イタリアン

2006年07月11日 | 食べ物


先日、安曇野にある「スタジオーネ」というイタリア
ンに行ってきた。
いかにも安曇野的な(どんな?)田園風景の中に、ぽ
つんと立っているイタリアン、一見すると和食やのよ
うな風情である。
中は、これまたどこかのリゾートのようなゆったりし
た空間。
全面ガラスを通して庭、その先の畑、そして遠くアル
プスまでもが望まれる(この部分定かではない)。
まあ、なかなか気分の良い空間であることは間違いな
い。

そもそも、何ゆえ安曇野か。
それは、今ひとつイタリアンでここだという店がない
諏訪地方の事情による。
徐々に範囲を拡大し、ついには松本周辺に至ったとい
うわけだ。

で、料理の方は、自家栽培の野菜をふんだんに使い、
時流のスローフード路線にも乗った今風のイタリアン
と言えるのではないか。
と尤もらしく言ったが、最近の今風というのははっき
り言って知らないのでここは訂正。
コース2740円の最初に出てきたのは野菜サラダ。
これが結構旨かった。
パルミジャーノを、日本で言えば胡麻和え感覚で使っ
た味付けで、レタスとルッコラだけだが旨い。
次はパスタ。
トマトとバジルのスパゲッティ。
これはまあ標準的。
そして肉料理。
すね肉の煮込み。
ところが料理を持ってきたときに、すね肉ではなくテ
イルになりましたと言う。
本来なら、その前に断るのではないか。
ブログ的には、少々対応に問題があった、なんてこと
を偉そうに書くところだ。
しかし、あまりそういうことにはこだわらないので、
「ああ..はい」とかいって食べた。
正直ゼラチン系はあまり好きではなかったが。

その煮込みは、テイルのポトフといった感じの料理だ
った。
テイルは、軽く塩漬けしてるようで、よく煮込まれて
いて完全にほぐれる状態。
だが、旨味はしっかり残っていた。
肉の部分も多く、恐れていたゼラチン攻撃もあまりな
く、はっきり言って満足の一品だった。
他の肉料理、ほろほろ鳥のローストも、股肉がどーん
とでてきて、どちらかというとビストロ料理のような
豪快さで、ストレートに肉を味わえ十分旨かった。
そしてデザートの盛り合わせ。
これは可もなく不可もなく。

結果として、安曇野周辺では初めての満足いく店とな
りました。


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イタリア

2006年07月10日 | サッカー


結局、イタリア優勝でワールドカップも無事終了(サッ
カー嫌いは喧騒から逃れられ、ほっとしていることだ
ろう)。
それにしても、イタリアの守備は堅い。
その中心にいるのはファビオ.カンナバーロ。
眉毛は濃いが、守備センスは群を抜いている。
守備の中心選手にはもう一人、「いい男大賞」をあげ
てもいいと個人的には思っているネスタがいたが、怪
我で離脱したので、その分カンナバーロの活躍が余計
に目立った。

背も175センチほどで、決して高くはないが、フィ
ジカルも強く、俊敏性もあり、読みも鋭い。
しかしよく見ると(よく見なくても)体型は日本人と
は明らかに違う。
腰の張り出し方が一回りしっかりしているのだ。
がっちりした芯があるといった感じだ。
ここで、坪井をふた周り強くすればカンナバーロにな
れるかもしれない、などと無意味な想像をする自分が
悲しい。

カンナバーロは、パルマ時代に中田の同僚でもあった。
当時から認められ、いまやビッグクラブの「ユヴェン
トス」の中心。
方や中田は引退。
中田も、日本では間違いなく世界のサッカーを体現し
た唯一の選手だが、世界で見れば決してジダンでもな
いし、ネドベドでもない。
引退後の大騒ぎを見ると、もう少し冷静に検証してほ
しいと思う。
今現在、世界で活躍しているアジア選手の代表は「パ
クチソン」だろう。
浪人生のような顔をしてるが、実力はある。
彼がビッグクラブの「マンチェスターユナイテッド」の
レギュラーであることを考えると、中田よりは上と考え
るのが自然だ。
つまり、いつまでも中田の幻影を追っていてもしょう
がないということなのだ。


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LE GUIDE ROUGE

2006年07月09日 | Weblog
吉野シェフの愛人問題がどうのと、あるブログに出て
いた。
愛人問題はどうでもいいが、今年念願のミシュラン一
つ星を獲得した店のほうは(パリのステラマリス)大
丈夫かい、とそちらが心配になる。

一般に星つきレストランと言ったら、ミシュランのガイ
ドブック「LE GUIDE ROUGE」によって評
価されたそれをいうのだが、まだまだ誤解している人
が多い。
まず、ミシュランという一企業のガイドブックが勝手
に評価したものであるという事実が、意外と知られて
ない。
日本で言えば「横浜タイヤ.ガイドブック」なのだが、
何か公的なもののように誤解しているケースが多い。

実際、「5星のレストランで食事した」などというこ
とを聞いたことがある。
おいおい3星が最高なんだから5星なんてあるわけな
いよ、と思いよくよく訊いてみると、5星のホテルの
レストランで食事したということだった。
本人は、完全に一般に言われる「星付レストラン」だ
と思っていたようだ。
しかも3星以上の5星だ、と。
フランスなんかのホテルには、必ずと言っていいほど
入り口に星表示がある。
これをミシュランの星と勘違いするわけだ。
ホテルの星は、政府の観光省のようなところが認定す
る、設備に対する評価だ。
こっちは公的なもので、星が増せばより豪華なホテル
であるということは言える。
ただし、併設のレストランが良いか悪いかの判定は、
一切含んでいない。

日本人のツアーなんかだと、3星クラス以上のホテル
が多いので、勝手に誤解して「星付だけど大したこと
無かった」などと感想を漏らす。
ツアーで利用するホテルのレストランなど、大体しょ
ぼいからそれは事実なのだが、星の意味が違うという
事実もしっかり認識しないと。
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スパゲッティー3

2006年07月08日 | 食べ物


いろんな食材を使って、どう組み合わせたら美味しく
なるかと多々試みてきたが、一回だけ劇的に旨くなっ
た経験がある。
あるものを使ったら、それまで今ひとつだったのもの
が明かに旨くなったのだ。
それは「フェンネル」。
日本名だとウイキョウ。
よくスモークドサーモンなんかに添えられている、松の
葉みたいなあの香草だ。

あれは、ツナ缶のツナを、スパゲッティで美味しく食
べる方法はないかといろいろ試していた時だ。
トマト味にしたり黒オリーヴを使ったり、ケイパーを
使ってみたりといろいろやってみたが、どれも不味く
はないが旨くもならないといったレベルだった。
勿論、バジルとかオレガノなどの香草も試した。
そこで、以前イタリア関連のテレビで「いわしのパスタ」
にフェンネルを使ってるのを思い出した。
フェンネルと言えば、畑に自生している。
正確には、はるか前に種を蒔いたものが勝手に毎年育
っている。
いまやアゲハチョウの餌として活躍してるだけだ。
それを早速適当にちぎって使ってみたのだ。
そしたら、劇的な変化が起こったというわけだ。
ツナの生臭みが、フェンネルによってきれいに解消さ
れたのだ。

フェンネルなんてそう使う機会もなく、畑の雑草のごと
くなっていたのだが、適材適所。
香草というのは、本当使うべきところで使うとその実力
を発揮するものだ、とその時実感した。
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スパゲッティ2

2006年07月07日 | 食べ物


今でこそ、どんなスーパーにもエクストラヴァージンオリ
ーヴオイルは売っているが、20年ほど前は、限られ
たスーパーにしか置いてなかった。
だからそれらを入手するためには、わざわざナショナル
アザブスーパーなどの、輸入食材豊富なスーパーへ行く
しか道はなかった。
それからすれば今は隔世の感だ。
オリーヴオイルは近所にあるし、専門的なものは、い
ながらにしてすぐに入手できるのだから。
インターネットの普及で、個人的に一番うれしいのは
この点だ。

で、オリーヴオイルはすっかり普通の食材になって、
パスタを食べる機会も必然的に増えた。
簡単にできて、満足度も高いし、基本的なものさえ用
意していれば、いつでもできるのがまた嬉しい。
最低限、にんにくとオイルさえあれば良い訳だから。
後はその時々の野菜とかベーコンとか。
それともう一つ是非ほしいのはアンチョビだろう。
これを使うと使わないでは、かなり旨さが違う。
最近は手軽さでアンチョビペーストを使っている。
以前は、瓶入りとか缶詰を使っていたが、熟成度が微
妙に違うのと、使いかってが今ひとつなのですっかり
ペースト派だ、今は。

そして最後に、仕上げに使うチーズがあれば、殆ど完
璧ではないか。
パルミジャーノの塊をその都度擂って使えば、香りも
いいし、よく売っている緑の容器のパルメザンなど使
う気になれなくなる。
より熟成度の高いパルミジャーノレッジャーノなら更
に良いし、羊のペコリーノロマーノなんかも適している。
というより、ペコリーノに関しては、しょっぱすぎて擂っ
て使うしかなかったというのが真相だ。
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スパゲッティ

2006年07月06日 | 食べ物


今一番よく使ってるのは、正確にはスパゲッティーニ。
スパゲッティより細めのやつだ。
単に茹で時間が短くてすむと理由でだが、あと超アル
デンテでも、暫く置いとけば超じゃなくなるからとい
う理由も少しある。
つまり、ゆで時間のタイミングずれても(飽くまでも
早めの方に)何とか調整できるからというものだ。

以前は、芯があるくらいのアルデンテは「ちょっと」
であったが、これが不思議なもので慣れてくるとそっ
ちの方が好きになってくる。
すると徐々にエスカレートして、どこまでのアルデン
テなら許せるか、とついつい実験的になってくる。
仕舞いには、ポキッと折れるのではないかというとこ
ろまで行く。
結局、極端なところまでいってほどほどに収まるとい
う、市場原理みたいなものがここでも働いて、標準的
な(何が?)ところで満足するようになる、というか
なった。

なかなか茹で方一つでも楽しませてくれるパスタの世
界だが、「紋切り型辞典」的には、「茹で方一つでも
奥が深いのがパスタの世界」てなことになるんだろう
ね。
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自分探しの旅

2006年07月04日 | Weblog
中田の言葉だが、どうもこの言葉には違和感がある。
同じような言葉に「本当の自分」というのもある。
どちらも「紋切り型辞典」にでも載りそうな言葉だ。

それに対して「本当の自分という病」と言ってる人も
いる。
これは、確固たる本当の自分(理想化された自分)と
いうものが存在しているという前提の、ある種の幻探
しではないかと。
それだけ今の自分がしょうもなく、そこから逃げたい
がためのめの方便、それを美化した言葉ではないかと。
そうなのだ、変に美化するから自己陶酔的いやらしさ
を感じるのだそれらの言葉からは。
最初から現実逃避したい、と言えばすっきりする。
表向きは甘いなどと言われるかもしれないが(心の底
では羨ましいなどと思っているはず)。

アイデンティティーという言葉も同じだが、いつから
それらの言葉で表されるものが実際にあるということ
になったのだろう。
「本当の自分」などと考えてる自分も本当の自分の一
部だし、大体嘘の自分というものがあるのか。
そもそも嘘と本当というのははっきり分けられるもの
なのか。
つまり、元々曖昧なものなのだから、それをすっきり
させようとすること自体無理があるのだ。
心理学は多分そういうことを解明したいのだろうが、
どうしても「血液型占い」と同じように、単純化類型
化の限界が、いかがわしさを伴って露呈する。
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野獣死すべし

2006年07月03日 | 映画


またまたギャオネタ。
今松田優作特集をやっている。
その中に「野獣死すべし」があった。
以前観たことがあるが(面白いとは思わなかった、と
いうよりつまらなかったという印象)ちょっと観よう
かという気分になり、再び観てしまった。
結果、やはり面白くない。

そこで、面白くない理由を考えてみた。
まずは全体の印象。
安っぽい香港映画。
次に、主演の松田優作が演技過剰。
異常さを表現するためだろうが、その加減がちょっと?
この部分は、松田ファンからすると魅力のようだが、
そうでない人から見ると辛いものがある。
それとストーリー展開の無理無理さ。
これは、日本映画全体にいえることだが、嘘っぽすぎ
る。
所謂「リアリティーがない」というやつだ。
突っ込みどころが満載、と別の楽しみ方もできるが、
これは飽くまでも救済措置的映画の楽しみ方。

根本的に、ハードボイルド路線は、日本では難しいので
はないか。
何故なら、日本にはハンフリー.ボカートはいないから。
それで思い出すのは、高倉健主演の「ゴルゴ13」。
あれを観たときはあまりの安っぽさに呆然とした。
健さんも「網走番外地」以外だとこんなことになって
しまうんだ、と映画の怖さを実感したものだった。

唯、日本にも、ハードボイルド路線で成功した役者が、
例外的に一人いた。
市川雷蔵だ。
森一生監督の「ある殺し屋」などは、日本のフィルム
ノワール作品の傑作と言えるのでははないか。
良い監督と良い役者の幸福なマリアージュ。
そんな奇跡的出来事(どうも大袈裟だ)が、過去には
あったということだ。






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伊藤若冲

2006年07月02日 | 芸術


昨日、「美の巨人たち」という番組は、「京都ルネッ
サンス」という切り口で、円山応挙、伊藤若沖、曾我
蕭白、長澤蘆雪、与謝蕪村、池大雅を取り上げていた。
「京都ルネッサンス」なる言葉も初めてだが、同時期
にこれだけの「芸術家」が京都にいたことも初めて知
った。
曾我蕭白、長澤蘆雪などは名前を聞いたことがある程
度の認識だが、それにしても1750年から1800
年までの京都は一体どうなってんだ。

実際、この中で実物を見たのは応挙と若冲しかない。
そしてたっぷり見たのは若冲だけ。
多分、次週若冲の個人コレクションを取り上げると思
うが、ジョン.プライスというアメリカ人がその人で、
若冲の主なものは殆ど彼のところにいってしまった。
浮世絵と同じ運命を辿ってしまったのだ。
日本人がその良さを分からず、外人が注目するという。
しかしこのことは結果的には良かったのかもしれない。
価値の分からない日本人がぞんざいに扱って散逸させ
てしまうより、少なくとも良い状態で保存されたのだ
から。
感謝しても良いくらいだ。
で、このプライスコレクションの若冲展が、五六年前
京都で開かれ、それを見たので若冲に関しては馴染み
があるというわけだ。
そして個人的には、過去十年の展覧会ベストワンがこ
の「若冲展」だった(そんなに他のを見てないが)。

代表的な、軍鶏などの絢爛たる絵はそれはそれですご
いが、個人的に感動したのは、野菜の涅槃図とか昆虫
のいる池の風景とかの水墨画、そしてポップアートを
思わせる象のドット絵画などだった。
兎に角型にはまらないその感覚の新しさは、すごいの
一言。
印象派の100年以上前に、すでに印象派を超えた画
家が日本に存在していた事実は、驚嘆に値する。



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コーヒーミル

2006年07月01日 | Weblog
既出の、アンティーク雑貨というジャンルが日本で確
立する前に、実は一つだけ持っているものがあった。
それがコーヒーミルだ。
初めてパリに行った時に(27年前)買ったものが、調
度今で言うアンティーク雑貨にあたるものだったのだ。

アンティーク市で有名な、クリニャンクールで買ったの
だが、ここは所謂正統派のアンティークが多いところ
で、ガラクタ的なものは少ない。
写真のコーヒーミルも、店舗ではなく、通路で数個持っ
ていた人間から、なんだか怪しいなと思いながらも、
その形に惹かれ購入したものだ。
真鍮製で、錆は出るがそれも味の一つで、頑丈なつく
りの、結果的には一番良い買い物だった。
値段も、今の感覚で三四千円だったと思う。
何故一番良い買い物だったかと言うと、今でもほぼ毎
日使っているという「役に立ってる度」が際立ってい
るから。

基本的に、自分自身はコレクター的要素は少ないと思
う(無い訳ではないが)。
集めだしても、必ず途中でばかばかしくなってしまう
のだ。
そこで、集めるよりは使う、と方向転換する。
飾りだったら二三個あれば十分だし。
ただ、他のコレクターの執念に感動することはある。
それが、他人にとっては無価値な、たとえば靴に挟まっ
た石ころの蒐集とかだと、その無意味さにシンパシー
さえ感じる。

で話はコーヒーミルだが、飾りとしても面白いし、毎
日活躍してるしと、自分にとっては正に理想的な「も
の」だったのではあるまいか(ちょっと大袈裟)。


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