ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

デコッパチ

2008年05月31日 | 芸術


昨日の、BSNHKの番組はすごかった。
SL特集ということで、過去のSLの映像を紹介する
という番組だったのだが、何が凄いかというと、それ
だけを延々4時間あまり流してしまうというその番組
作りの姿勢だ。
こんな番組が成立するのも、鉄男と鉄子が復権したか
らなのだろうか。
鉄道に特別関心はないのだが、一体どんな人が見てい
るのだろうかと想像しながら、結局二時間以上も見て
しまった。

SLというのは、構造がむき出しで、音も人間の息遣
いのようで擬人化し易い。
それに、汽笛が山々に反響するものだから、一気に郷
愁が襲ってくる。
そこに「新日本紀行」のテーマでも流れたら、一瞬に
してタイムスリップだ。
トンネルに入ったときの、火の玉が車窓を走る光景と
か、映画の「フォッグ」のように煙が車内に侵入して
くる様子などなど、あまりに懐かしい思い出が蘇る。
こういうのを見て、人間にとって適度な速度というの
は存在するのだ、などと思うようになったら、その時
点で現代社会から脱落だ。

NHKが続くが、その後の「プライム10」という番
組の一言には思わず笑ってしまった。
「赤塚不二夫特集」だったのだが、その中で「松尾ス
ズキ」が現在の「ニャロメ」にインタビューするとい
う設定の場面があった(アニメで)。
そこでの一言が傑作だったのだ。
こんなこと言ってNHKとしては大丈夫なのか、と心
配になったくらい。

「ニャロメ」もいろいろな影響力があったという話の
中での一言「奈良美智の絵はデコッパチだ」(という
内容、勿論これは松尾スズキの見解だと思うが)。
いつから、デコッパチが「芸術」になってしまったの
だろう。
こんな疑問を持っている人は多いはずだ。
確信を持って疑問なのだが、イラスト、アニメをキャン
ヴァスに油絵で大きく描けば「コンテンポラリーアート」
、って違うだろうと常々思っているので、この一言に
は大きく反応してしまった。
蛭子さんの絵だって、100号以上のキャンヴァスに
油絵で描けば立派な作品となりうるのだ。
「リキテンシュタイン」がアメリカンコミックをポップアー
トにしたのは衝撃的だったが、その二番煎じのような、
しかも、普通のイラスト、どう捉えれば良いのか。
「コンテンポラリーアート」、未だ袋小路から抜け出
せず。
と、いろいろ楽しませてもらった昨日のNHKであった。
コメント

競泳水着

2008年05月30日 | Weblog


それにしても、身に付ける競泳着によってタイムが変
わるというのでは、あまりに不公平な事態ではないか。
基本的に、スポーツの建前はフェアーな戦いなのでは
ないか、と言いたいところだが、すでに現実はそうなっ
てないことも多くの人が気づいていることだ。
しかし、そういう現実を見ないで(意識的に考えない
ようにして)、ロマン主義的な見方で成立っている今
のスポーツは、その時点ですでに多くの矛盾を抱えて
いるということになる。
それが、時々今回のように顕在化する。

幻想としてのスポーツの頂点は五輪という場である。
テレビ中心のマスコミの煽りが、特にそれを支えてい
ると思うが、今回のようにあからさまに見せ付けられ
ると、その幻想が瓦解するように思われるがどうなの
だろう。
そんな現実より、兎に角有利な競泳着を使ってメダル
を取れ、という気持ちの方が強いのか。
「同じ条件で正々堂々」というものこそロマン主義だ
と思うが、そういうものは、メダルの威力の前では無
力化されるようだ。

実際は、「正々堂々」と言っても見えないドーピング
もあるし、要するに何でもありなのが今のスポーツの
世界ということだ。
スポーツが商品価値を持った時点で、こういう事態は
不可避であったと思うが(以前はそれが名誉だった)、
それは、今の大相撲の世界にも言えることだ(商品価
値のある力士に屈する現状とか)。
しかし、どこも同じような構造を抱えているものだ。
結局これは、資本主義、経済至上主義の宿命だと思う
が、この先どこまで行くのだろうか。

それより、卑近なところでうんざりするのは「バレーボ
ール」中継だ。
テレビ局の入れ込みようが尋常ではないと思うが、こ
れもひとえに視聴率が良いからということなんだろう。
唯、中継は見なければ済むが、CMが頻繁に入りるか
ら見たくもないのに見せられてしまうのだ。
そんなに皆好きなんだろうか。
好きなんだろうね。
実力的には決まってるから、日本人の好きなメダルに
は遠いと思うが、本気でいけると思い応援するのが快
感なのか。
応援風景からして鬱陶しいが、これは余計なお世話と
いうものだった。
飽くまでも、見たくなければ見なければ、という話で
ある。
だから問題はCMなのだ。
コメント

アサマイチモンジ

2008年05月29日 | 生き物 自然


家の池(田舎の家では珍しくない)には、浄化用に灯
篭形のポンプを入れているのだが、それが、暖かい季
節になると頻繁に詰まるようになる。
最初は勢い良く出ていたのが、徐々にしょぼしょぼと
なって、それこそ「ハルンケア」のお世話になった方
が、という状態になってくる。
当然、浄化の機能を果たしてないわけだから、そのポ
ンプに付いているフィルターを掃除しないといけない。
ということで、昨日その作業をした。
池から汚れで重くなったポンプを引き上げるのは、結
構な力仕事で、腰の状態が悪いと、一発で翌日から動
けなくなるという事態を招く。
それは、以前経験積みである。
汚れたフィルターを、大きな盥に入れジャブジャブと
すすぐ。
時間そのものは、小一時間といったところだ。

一通り終わり、全てを装着したポンプを再び池の中に
沈める。
沈める時は、汚れもなくなって大分軽くなって負担は
ない。
要するに、引っ張り揚げるのと沈める、それぞれの体
勢による負荷が違うので、沈める方はより楽に感じる
ということである。
勢い良く水が噴出。
最初は良いが、これが持たないんだよね。

ふと、滝つぼの水溜り(現在滝は流れていない)に目
をやると、なにやら蠢くものが。
自然に雨水がたまったものだから、全く循環していな
い放置された状態の水溜りだ。
所謂、ぼうふらの発生する環境である。
しかし、蠢くものは、ぼうふらどころの大きさではな
い。
数メートル手前でも確認できるのだから。
なんだなんだと近付く。
体調二センチでひも状の尻尾まで付いている。
尻尾が付いた蛆虫と思ってくれれば良い。
そんな生物が、50センチ四方の水溜りの中で蠢いて
いるのだ。
その数数万、嘘です十数匹でした。
多分、1000人いたら978人は気持ち悪いと言う代
物である。
確かに、見慣れない気色悪さがある。
個人的には、子供のころ、肥溜めにいたのを見て衝撃
を受けたことがある。
そのあまりのおぞましさに虐殺、と知らないとなると
ころだが、ここが今は違う。
見た目はおぞましいが、これは多分「ハナアブ」の幼
虫である。
「ハナアブ」は刺すわけでもないし、人間にとっては
害虫でもなんでもない。
ということで、放置のまま自然の状態にしておくこと
にした。
いずれ成虫になって空を飛ぶことであろう。
ちょっとした浦島気分か。

そんな、ひも付き蛆虫を観察していたところ、目の前
に黒地に白のストライプの蝶が飛来した。
「コミスジ」かな(一番ポピュラー)と思って良く見
ると、「三筋」ではなく「一文字」であった。
「イチモンジチョウ」ならこれまたポピュラーでこの
辺でも良く見かける。
が、これが「イチモンジチョウ」ではなく「アサマイ
チモンジチョウ」であることが判った。
1対5くらいで「アサマイチモンジ」の方が少ない。
昔は同じくらい普通にいたのだが、どういうわけか「ア
サマイチモンジ」だけが減少しているのだ。
まだ、きれいに撮ったことがない蝶なので、あわてて
カメラを取りに戻る。
幸い、日向ぼっこ状態だったので「アサマイチモンジ」
じっとしていた。
スーパーマクロでもばっちりだった。
満足満足。

と、本日の庭は、ちょっとした昆虫達の小宇宙であった。
写真はその「アサマイチモンジチョウ」。
流石に、ひも付き蛆虫の写真は。
コメント

Monsieur bean

2008年05月27日 | 食べ物


豆ソムリエ(自分で作って自分で認定)としては、や
はりコンスタントな豆活動(豆に活動ではない)をし
たい。
今現在ストックとして、「レンズ豆」「ヒヨコ豆」、そ
して「手亡豆」に代表されるインゲン豆が三種ある(保
存性の良さもありがたいところである)。
世界の食糧事情からすると、豆の置かれている状況は
どうなのかというのは気になるところだが、とりあえ
ず今現在は、いろんな豆を入手できる。
そして、ここのところ一番出番が多いのは「ヒヨコ豆」。
「カレー」と「ファラフェル」という、最近のお気に
入り料理に使うので自ずからそういうことになる。

その「ファラフェル」だが、四回目にしてやっと完成
度が満足行くものになってきた。
問題点は、固さ、香辛料の配分による味付けだったの
だが、基準(本場の味)を知ることによってそれは解
消した。
どんな料理でもそうだが、始めから納得いくものを作
るのは難しい。
何回かやってみないと分からない。
実践あるのみである。

何も付けずに単独で食べても美味しいのだが、そうな
ると今度は、本場の食べ方である「ピタパンサンド」
が食べたくなるのが人情である。
ということは「ピタパン」とソースが必要になるとい
うことだ。
しかし「ピタパン」(ピーターパンではない)という
のは、滅多に売っているものではない。
作り方は、パンの中でも簡単なほうらしいが、パン作
りには興味はないので自分で作るなどということはし
たくない。
それに、これは飽くまでも一般論だが、素人の手作り
パンというのは、世の中に一杯溢れているが、その多
くは焼きたてだったら何とか食べられるというもので、
その労力出来を考えたら、市販のものを食べた方が良
いと思われる。

で、簡単だと言われる「ピタパン」も、作り方が簡単
でも材料が違うとか、そんなちょっとしたことで味も
変わるから、「パン屋」のものを買った方が良いに決
まっている。
となると「ピタパン」を売っているパン屋はどこかと
いうことになる。
結局、いつものようにネットのお世話になることで落
ち着く。
最初に本場の味ということで頼んだ店の「ピタパン」は、
あまりに高いので、他の「ピタパン」を扱っているパ
ン屋を探す。
すると、一軒候補の店が見つかった。
そこの「ピタパン」は、最初の店のものとはちょっと
違うが、「ピタサンド」も店売りしているところなの
でそれなりのものであろう、と期待を込めて予想。
第一、値段が半分ほどだ。
材料費(本来が素朴なパンなのだから)を考えれば、
値段は安くないと。

というわけで「ピタパン」は注文した。
残るはソースだが、これには練りゴマが必要。
こっちは豆専門店で扱っているので、「ヒヨコ豆」と
一緒に注文するとしようか。
コメント

西部劇

2008年05月26日 | 映画


従兄弟より何やら小包が送られてきた。
すわ、借りっぱなしのヴィデオ(増村保造の黒のシリー
ズ)の催促か、と一瞬たじろいだが、そのためにわざ
わざ小包など送るわけもない。
中身を見ると、小雑誌が一つ。
それは、中央大学が出版している「中央評論」(中央
公論ではない)という雑誌であった。
全く見たこともない雑誌だ。
その262号の特集が「映画。映像と私」というもの
で、始めは、映画特集だから送ってくれたのかと思っ
た。
しかし、そういうことではなかったようだ。
その中の「あるシネ.マニアが見続けてきた西部劇」
という記事が、その従兄弟執筆によるものだったのだ。

元々書くことには無縁なのだが、なにやら行きがかり
上そういうことになってしまったということらしい。
その割にはびっしり書いてある。
相当時間をかけた、かかったことは一目瞭然。
苦闘する光景が目に浮かぶ。
それにしても、字が小さい。
今時こんな小さいのは見たことない。
見比べてみたら、文庫本(中断状態が四年目に突入し
たユリシーズⅡ)の字の六割ほどだ。
「ハッチョウトンボ」を見たとき以来の、小ささに対
する衝撃だ(嘘です)。
パソコン上の字に慣れた身にとっては、これはちょっ
ときついが、じっくり読まなくてはいけない。
ついでに、ヴィデオもいい加減返さなくては。

従兄弟は、私と違ってオーソドックスな映画好きなの
で、特にハリウッドの昔の映画に関しては相当詳しい。
公開された映画は、殆ど押さえているのではないだろ
うか。
今回は西部劇中心なのだが、チラッと見たところ、出る
わ出るわ、知らない映画のオンパレード。
西部劇ベストテンなども発表しているが、そこは「ジョ
ン.フォード」や「ハワード.ホークス」などの馴染
みの監督の作品が多い。
それにしても細かく覚えているものだ。
もし私が西部劇ベストテンを選ぶとしたらと考えても、
まず、映画そのものをあまり覚えてないし(見た数は、
嘗てテレビでやっていたのを好きで見てたので相当あ
る筈だが、中学高校の頃の相当古い話なので)、特別
西部劇に対して思い入れもないのでベストテンそのも
のが成立しない。
無理やり選んで「エルトポ」「殺しが静かにやってく
る」「黒豹のバラード」では、西部劇ファンからすれ
ば噴飯物であろう。
イーストウッドの「荒野のストレンジャー」「ペイルラ
イダー」くらいだったら大丈夫だろうか。
唯一かぶるのは、ラオール.ウォルシュの「死の谷」く
らいのものだった。

昔は、確かに「オーディー.マーフィー」などのB級
西部劇すらも楽しく見ていたのだが、これが他の正統
派の映画ファンと違うところなのだが、昔は昔で、当
時の思い入れというのが見事に消えてしまって、今は
今の見方で捉えるので、自ずから評価が変わってしま
うのだ。
だから、映画ファンの集いなどという、映画の愛に支
えられた共有空間を分かち合うことが出来ないのだな、
と、つくづく思う春の空なのである。
コメント

サッカーと手亡豆

2008年05月25日 | Weblog


昨日の「日本対コートジボワール」の前半戦は、蕎麦を
すすりながら「更科」で見る。
街頭テレビか、という使い方だが、好き勝手なことを
言いながら見るのは楽しいものだ。

久しぶりの代表戦だが、前半は、なかなか快調であっ
た。
パスが小気味良くつながり、全体にスピードがあり、
これも久しぶりだが、期待感が持てる試合振りだった。
得点した時の展開は、きれい過ぎると思うくらい見事
で(相手のキーパーは?だが)、長谷部のセンタリン
グの質も高いし、本当、この部分だけ取れば「良い」
と唸るしかないだろう。
運動量が落ちてくると、必然的に質も低下してくるか
ら、徐々に冴えもなくなって来たのだが、全体では「岡
ちゃん」サッカーは、少なくとも前よりは良くなって
いるということではないだろうか。
キーパーも「楢崎」で正解だし。
後は元「ルマンのソレイユ」の使い方か。

話は変わるが、例の「インゲン豆」は、順調におすそ
分けが進んでいる。
全体で十何キロもあるので、現在のところ四人に分け
たのだが、まだまだ潤沢で、相変わらずの「豆持ち」
の状態である。

昨日も知り合いに分けたのだが、そこで豆に関するあ
る質問を受けた。
「手亡豆」というのはどう読むのかと。
和菓子の材料なんかに表示があり、よく判らないとい
うことだった。
豆であることは間違い無さそうなのだが、そう言えば
微かに見た記憶があるような。
兎に角、聞かれたはいいが読み方が判らない。
そこで、インターネットで調べてみると、これでイン
ゲン豆と読むことが判った。
しかも白インゲン豆を指すらしいのだ。
つまり、今ここにある豆そのもののことだったのだ。
それにしても「手亡豆」でインゲン豆か。
「隠元豆」のイメージが強かったので、発想が及ばな
かった。

その後、改めて貰った豆の袋を見てみると、しっかり
「手亡豆」の表示があった。
そんなに普通の漢字だったのか。
「白インゲン」もしくは「テボマメ」と読むらしいの
だが、世の中、知らないことが身近なところに潜んで
いるものだ。
これでは、豆ソムリエ(今作った)の道は遠いと言わ
ざるを得ない。
コメント

失せ物3

2008年05月24日 | Weblog


「ヒメシロチョウ」の写真を撮るために、現場でうだ
うだやっていたら、あっという間に一時間ほど過ぎて
しまった。
昼も大分過ぎ、じゃあということで、近くの「フォルマッ
ジョ」へ行くことにした。
現場から車で五分もかからないという、実にいいロケー
ションだ。

店に入ると、先客が二組ほど。
そして、出て来た店の奥さんは、こちらの顔を見るだ
に「あの、この前忘れた...」と言う。
その瞬間全てを理解した。
散々なくなったと騒いでいたバッグは、結局ここに忘
れていたのだった。
誰かに「フォルマッジョ」に忘れたんじゃないの、と
言われた時、きっぱりと、あそこから持ってでたのは
覚えている、などと宣言したことが思い出される。
99パーセントないと思っていたのだが、1パーセン
トの可能性というものは、ちゃんと可能性としての意
味を持っていたのだ。
というより、自分の記憶のあやふさにもっと自覚的に
ならないと、ということか。

それにしても良かった。
前回来たのが、二ヶ月ほど前だから、二ヶ月ぶりの御
対面だ。
こんなことならもう少し前に来るんだった。
「ローリー.アンダーソン」のCD、そして「ピカビア」
の本。
これがどうにも惜しかったのだ。
それと本体の「プーマ」のバッグも。
ついでと言っては何だが、「デジカメ」もちゃんと戻っ
てきた。
が、これに関しては、すでにもっと性能のいいものを購
入済みなので、気持ちはすでにどうでも良くなっている。
しかし、一応動く。
メモリーカードを確認してみると64M。
こんなので嘗ては(と言ってもほんの二ヶ月ほど前ま
で)撮っていたのか。
遠い昔の出来事を思い出すかのように、視線は宙で停
止した。

すっかりご機嫌で、「コハダのカルパッチョ」と「マル
ゲリータ」(今日は生地の発酵具合が今ひとつだった)
を食す。
店内には、他の客はいなくなっていたが、その後一人
の男性客が入ってきた。
モーターサイクリストだね。
音から判断すると、「ヤマハ」だ(全く適当)。
その客は初めてらしかった。
誰々さんに紹介されて、などと話しかけている。
良くこういう光景を目にするが、この場合、話す方は
一体何を期待しているのだろうか。
特別待遇か。
そうでないならわざわざ言う必要はないと思うが。
言いたいのなら、返る時に言えばいいのだ。
その言いたい動機が今ひとつ理解できない。
そして、こういうことを言いたがる人間に限ってちょっ
と「しょぼい」という傾向があるのも事実だ。
今回もやはりそうだった。
自分の「食べ物ブログ」にでものっけるのだろうか。
写真は撮ってなったからそれはないか。

と、いろいろ収穫の多い一日であった。
コメント

ヒメシロチョウ

2008年05月23日 | 生き物 自然


近所のkより「蝶情報」あり。
彼の仕事仲間(y君)からkに、「ほにゃららが発生
した」という情報を私のほうに伝えてくれということ
で、kが電話をかけてきたのだ。
そのy君は、八ヶ岳山麓に住んでいて、周りは林であ
るという事は聞いていた。
そして、いろんな蝶がいるということも。
そう言えば以前、直接情報を教えてくれるように頼んだ
ことがあったのだ。
その第一弾が今回だったというわけだ。

で、kにその「ほにゃらら」は何かと聞いてみた。
しかし、自然関係に興味のないkは、予想通り何も分
からない。
所謂、埒が明かないという状況だ。
まあ、何かが発生していることは間違いないのだから、
行くだけ行こうと決めた。
y君の家の場所をkに説明してもらい、大体の場所は
判った。
ちょくちょく登場する、ナポリピザの「フォルマッジョ」
の近くであることは、以前より知っていた。
天気も良さそうだし、条件的には問題ない。
それにしても「ほにゃらら」は何なのだろうか。
「ウラキンシジミ」には早すぎるし、この時期だと「ヒメ
シロチョウ」かな、と一応見当はつけたが。

車で近くまでいき、後は歩く。
そこは、八ヶ岳の高原地帯で開けたところだが、その
周辺は林となっていて、そのなかを林道のように道が
通っている。
舗装も途切れ、未舗装となるが、風通しが良く鬱蒼と
した感じはなく、環境的には中々良さそうなところだ。
散歩するには絶好の環境と見た。
暫く歩き、y君の家も分かった。
さて、目指す「ほにゃらら」はどこにいるのか。
この時点ではまだ特定されていない。
適当に、その林道を歩く。
ぽつんぽつんとログハウスっぽい家があるが、殆どは
林中心の平坦な散歩道といったところだ。
単純に気持ちが良いところである。
おまけに、林の中には小川が走っている。
トンボにも良い環境だ。

そう思って、道から外れ小川沿いに歩いてみた。
いたいた、「カワトンボ」系が。
全身、金属的に光るその姿。
陽光に照らされ、一段と存在感を増す。
「ニシカワトンボ」「ヒガシカワトンボ」のどちらか
だと思う(後で<ニシカワトンボ>と同定)。
スーパーマクロで、ぐっと寄れて写真は撮れた。
多分大丈夫、と思う。
とりあえず、収穫はありだ。
ところで「ほにゃらら」はどうなった。
このままでは「ほにゃらら」で終わってしまう。
ということで、わき道も探索。
すると、ちょっと怪しい影が。
「ツマキチョウ」(これは普通種)のメスのような、小
型の白い蝶が(モンシロチョウの半分くらい)ひらひ
らしていた。
ひょっとして「ヒメシロチョウ」か。
兎に角、止まらないと判らない。
その一頭を追いかける。
飛び方はゆったりなのだが、なかなか止まらない。
道を外れ、ちょっとした藪の中に入ったのを追いかけ
る。
そうしたら、やっとある花に止まった。
やはり「ヒメシロチョウ」であった。
この蝶を見るのは、実に小学生以来のことだ。
慎重に撮る。
これで、満足。
そんな満足感に浸りながら、帰り道を行くと、先ほど、
最初に目撃した場所の反対側に、なにやら白い蝶が10
頭近く飛んでいる。
全部「ヒメシロチョウ」だった。
こんなにいたのか。
藪まで入る必要は全くなかったということではないか
(そんなのが楽しかったりするのだが)。

それにしても、この辺の環境は貴重だ。
以前は、里山に普通にいたのだが、今では特定の場所
でしか見られない。
そんな場所のひとつが、この辺であるわけだ。
「ヒメシロチョウ」、漢字で書くと「姫白蝶」だが、
見ようによっては「蛾」にも見える。
興味のない人にとっては、なんだこの「蛾」みたいな
ものはで済まされそうだ。
ということで、写真はその時の「ヒメシロチョウ」。
コメント (4)

チャンピオンズリーグ

2008年05月22日 | サッカー


早朝、5:30頃目が覚め、そう言えば、チャンピンオ
ンズリーグの決勝はどうなっているのかとテレビを付け
る(一応録画はしているのだが)。
1-1の同点で、試合は延長戦にもつれ込む。
仕方無しに、見続けることにした。
こういう試合だと、なかなか点は入らない。
両方とも、守りが堅い。
おいおい、またPK戦か、と思い始めたらその通りになっ
てしまった。
どちらに対しても思い入れはないが、チェルシーのオー
ナーが「アブラモビッチ」ということで、マンチェスターU
寄りの見方となっている。

PK戦は、全くの運によって決まるので、純粋に試合を
楽しむ場合はできれば無しにしてほしい。
これが、例えば日本代表戦などの場合は、兎に角勝っ
てほしいという気持ちが強くなり、PKであろうがな
かろうが関係なくなる。
しかし、その場合、緊張しすぎて見てられないという
のはある。
今回の場合は余裕で見られる。
傍観者的な立場である。

両者順調に決め、マンチェスターUは「ロナウド」。
なんだか外しそうな雰囲気である。
と思ったらやっぱり外した。
天を仰ぐ「ロナウド」(お約束だ)。
俄然「チェルシー」有利。
そして「チェルシー」五人目、キャプテン「ケビン.ス
ペーシー」似の(でも若い)「ジョン.テリー」。
今日も神がかり的なクリアーをした。
ここで彼が決めて神となる、なんてストーリーをチェル
シーファンであったら考えたであろう。
決めれば優勝だ。
しかし、神は残酷な運命を用意していた(これもお決
まりのフレーズ)。
「ジョン.テリー」は足を滑らせ外す(雨が降っていた)
のだ。
天を仰ぐ「ケビン.スペーシー」似「ジョン.テリー」。
ここで彼の顔が生きてくる。
「哀感」があまりに似合うのだ。

そして6人目。
「マンチェスターU」は決め、「チェルシー」は「アネ
ルカ」。
彼が外すと、今度は「マンチェスターU」の優勝。
プレッシャーが一段とかかる「アネルカ」。
蹴った瞬間、今ひとつ勢いがないと思ったが、案の定
キーパーに止められ、「マンチェスターU」の優勝が
決定。
もし「マンチェスターU」が負けていたら「ロナウド」
の責任となるところだったので(結果として)、彼は
プレッシャーから開放され嬉泣き。
一方の「ケビン.スペーシー」は、責任を感じ、監督に
慰められているのだが顔を上げられない。
あまりにドラマチックな。
ここにまた、新たな伝説が誕生した(絶対誰かが言って
るはず)。

PK戦というのが、そもそもそういうものを生む制度で
あるので、こういう話は事欠かない。
できれば、最後はサドンデスでやってほしい。
最初から見ていると、疲労も重なりPK戦のドラマでし
びれて、「もう最高」、なんてことになっているんだろ
うね。
コメント

2008年05月21日 | 食べ物


「何とか好き」には、自然とその「何とか」が集まる
ように世の中は出来ているようだ。
最近「豆好き」と言っていたのだが、突然、大量の豆
の持ち主となった。
重さにして15キロくらいあるのではないか。
買ったわけではなく(買うにしては多すぎ)、もたら
されたのである。
その豆というのは、「白いんげん豆」で、ある廃業す
る和菓子屋さんが使っていたもの。
それがいらなくなったので、「豆好き」の磁場に引き
寄せられて、私のところに落ち着いたというわけだ。
これも、豆好き宣言したおかげである。
こういうものが自然と集まるためには、そういう意思
表示を普段からしておくのが大事なのだ。
そうすると、何かしらの機会が生じた場合、あそこに
行けば喜ばれる有効活用されるということになって、
結果集まる機会も増えてくるということなのだ。

「白いんげん豆」と言えば、懸案の「カスレ」には欠
かせない豆だ。
「カスレ」も、作る宣言をした割にはまだ実行してな
いのだが、これは神のお導きかもしれない。
そう言えば、「カスレ」のための「コンフィ」の「ラー
ド」(知らないと何のことだか分からない)も、最
近大量に入手したのだった。
これも、いらなくなったものが入ってきたのだ。
その「ラード」は、1斗缶。
18キロもある(正確には18リットルで脂だから目
方はそれより少ない)。
「コンフィ」そのものは、以前に作った「ほろほろ鳥」が
あるので今回はまだ使わないが、「コンフィ」作りに
は事欠かない環境が整ったことになる。
本当は、2キロもあれば充分なのだが。

材料の多さから見ば、営業か、というものである。
しかも、例えば「ほろほろ鳥のコンフィを使ったカスレ」
などというメニューは、滅多にフランス料理屋でもお
目にかかれない、というか、存在すること自体が疑問だ。
何故かというと、「ほろほろ鳥のコンフィ」そのもの
があまりないので。
そんな「ほろほろ鳥のコンフィを使ったカスレ」、今現
在まだ幻のメニューであるが、要するに、状況としては
さっさと作れということなのだろう。

ヒヨコ豆を使った「ファラフェル」は、食べたくなって、
この間作った。
味的には、ほぼ決まってきた。
完全野菜の、健康にも良さそうな食べ物で、しかも美味
しい(好みに合っている)。
それから考えると、「カスレ」は対極的な食べ物だ。
動物性脂たっぷりの、こってり味、しかし美味しい。
「しかも美味しい」と「しかし美味しい」とでは意味合
いが変わってくる。
しかしの場合、そこにはある葛藤が含まれる。
今の時代、動物性は悪であるので。
まあ、結局は「美味けりゃ良い」なんだが。


コメント

遷都祭

2008年05月20日 | Weblog


しつこく「せんとくん」だが、あまりの不評ぶりに、
有志が、新たなキャラクターを公募するるという動き
に出たようだ。
それにしても、この嫌われぶりも凄い。
大方は、不気味という印象を持つようだが、個人的に
は「不気味」というより「ちょっと変」という感じを
受ける。
角を取れば「一休さん」みたいで、決して可愛くない
というものではない(古い漫画のセンスだが)。
しかし、一休さんに角が生えたらどうなるか。
元が漫画っぽい一休さんなので、シュール(芸術性を
感じさせる)な印象ではなく、やはり脱力的なチープ
な感じの「変」なのである。
絶対、愛すべきキャラクターにはなりえないが、一目
見たら忘れられないインパクトは持っている。
そう考えると、ある意味、強力なキャラクターである
と言える。
作者の意図がそういうことであるのなら、大成功だ。
だから名前も「ぬるぼう」にすれば良いのだ。
しかし、そうなると、文化的コードから逸脱するという
ことになってしまうのか。
カウンターカルチャーの世界だったら良かったのに。
いずれにしろこの先も、ちょっと「せんとくん」から
は目が離せない。

ところで、肝心の「遷都祭」に関しては、「せんとくん」
ばかりが話題になって、今ひとつ周知されていないの
ではないだろうか(私も含め)。
「平城京」(今は、教科書ではへいぜいきょうと発音ら
しい)に都が移ったのが710年で、その1300年記
念が2010年。
それに向けての記念祭ということらしい。
ということは、「せんとくん」もまだ2年は頑張れる
わけだ。
話は「せんとくん」ではなく「平城京」だ。
こういう記念ものには常に感じることだが、1300年
というのはそもそも記念なのか。
単に、100年単位で区切って勝手に記念にしている
だけのことだろうに、と思うが、そう言ってしまったら
記念という概念そのものが成立たなくなるので、13
00は記念ということで話は進めよう。
公式ホームページには次のようなことが載っていた。

「今年も5月3日(土・祝)、4日(日・祝)に、
平城宮跡において、『平城遷都祭』が開催され
ます。
 都のスケール感が体感できる第一次朝堂院跡
「大和食の体験館」において、奈良が発祥であ
る酒、醤(ひしお)、葛餅づくり、なまなれず
しなどの食の体験や、「ものづくりの館」では、
木簡、竹水鉄砲、凧づくりなどいにしえの遊び
の体験、奈良の有名店を含む60店舗が出店の
「うまいもん・こだわりもん広場」、「天平衣
装記念撮影」など、五感で楽しめる内容です。」

どうやら毎年やっているお祭りのようだ。
ただ、「都のスケール感が体感できる」という表現は
如何なものか。
この場合、「スケールが体感」でいいだろうに。
また脱線しそうだ、話は「遷都祭」。
要するに、今ひとつ京都に比べ集客力が弱い奈良が
考えた起爆剤的イベントが、2010年の「遷都祭」
であるということのようだ。
京都に比べるとあまりに地味なのが奈良。
ここは一つ派手に、ということなのだろう。
その地味なところこそが一番の魅力でもあるのだが、
そういうのは集客力がないのも残念ながら事実。
間違いなく、2010年は観光客は増えるだろう。
しかし、奈良の良さを本当に味わう人がその中にどれ
ほどいるのかというのはかなり疑問だ。
「浄瑠璃寺」などはいつでも行きたいと思っているが、
人が多いと行きたくないし、観光とのバランスという
のは難しい問題である。
コメント

うたかた

2008年05月19日 | Weblog


昨日の「せんとくん」だが、一部で「ぬるぼう」と呼
ばれているらしい。
この名前だったら支持したい。
「ぬるぼう」、言い得て妙である。

ところで、日本の「国際緊急援助隊」だが、生存者を
発見するのは相当難しい状況のようだ。
どうにか発見して、一人でも助けてもらいたいという
のは、多分、多くの日本人が感じていることかと思う。
現場の人間が一番そう思うはずだから、今は、疲労も
重なり、焦燥感徒労感が一杯の状態かもしれない。
生存の分かれ目である72時間というのは、今回の場
合決定的だったのか。
それと、建物の構造が、生存するための空間を作るよ
うなものではないのが災いしているように思える。
日本でもそうだが、被災地に乗り込む政治家のパフォー
マンスなんか邪魔なだけなのだから、救助の実効性を
優先して全てを進めるべきだ。
しかし、本当に大変なのはこれからだろう。

どうも災害というのは、基本的にどこか他人事である。
これは、何も災害に限ったことではなく、不幸全般に言
える話でもある。
前提として、「自分には不幸はこない」というのが常
にある。
それは、そう思わないと日常を安心して送れないとい
う人間の特質であると思うが、実際は、不幸はいつで
も襲ってくる用意が出来ている、のである。
その現実を忘れるために、人間はいくつもの娯楽を作
り出した(と言えなくもない)。
全ては「うたかたの夢」。
なんてことを思うのも、これまた人間の特質であるの
だ。

って、一体何を言いたいのか。
駄目だ、頭が働かない。
これでは、頭が「うたかた」である。
というわけで、今日はこれで終わりどす。

コメント

せんとくん

2008年05月18日 | 芸術


その後、「せんとくん」(或いは遷都君か)の問題はど
うなったのだろうか。
問題と言っても、どうにかなるということでもなく、
要するに住民が納得できたかどうかということだけで、
あの愛すべき「せんとくん」が、他のもに変わるとい
うことではないのだろうから、解決する手立てもない。
予算を大分使ったから、新たな予算を当てるというこ
とはするはずもない。
その、大きな予算を使ってあれか、というのが一番腹
立たしいのだろうが。
多分、時間が経てば諦めるということで終結だ。
関係者は、じっと、収まるのを待つのみ。

それにしても、あの「キャラクター」にあれだけの予
算を使うか、とは多くの人が思うことではないか。
一般公募すれば、予算もかからず、一応民主的な方
法で決まったということで、あまり文句は出ないだ
ろうに。
はっきり言って、「せんとくん」は「ゆるキャラ」であ
る。
「きもかわいい」というところにも一歩及ばず、「キッ
チュ」とも言えず、何とも中途半端な「キャラクター」
である。
同じ受けないという点で、芸術的(一番受けないが)と
も違うし。
それで、あまりに変なので作者の他の作品を見てみたら、
まるっきり同じセンスだった。
つまり、あれが作者の持ち味だったのだ。

基本的に「キャラクター」は、意図としては「サンリオ」
辺りのものを狙うのだと思う。
つまり、より多くの人に「可愛い」と思わせるような。
しかし、現実は、「しょぼいもの」に満ち溢れている。
なかなか受けるものを作るのは難しいのだろう。
世の中「ゆるキャラ」の方が多い。
では、その「ゆるキャラ」の条件とは何か。
まず、作る側は大真面目というのが第一条件。
次に、彼らには現代的センスと芸術的センスが欠けて
いる、或いはずれているというところが必要。
だから、臆面もなく「ダジャレ」でネーミングをして、
垢抜けない色彩センスと、どこかで見たような、しかし
微妙に変な造形(中国辺りにも多い)のもを作る。
飽くまでも、受けると思っているところが愛おしい。
B級SF映画に登場する「異星人」あたりが、一番「ゆ
るキャラ」のセンスに近いのではないだろうか。
誕生のメカニズムも共通するように思う。

それを愛おしいと思う気持ちが「ゆるキャラ」という
言葉の誕生を生んだのだが、この「ゆるキャラ」を楽
しむためには、それなりの文化も必要である。
つまり、そこには、造形だけを見るのではなく、そこに至
る過程までも含めて、つまりそれを生み出す土壌、文化
を楽しむという視線が必要になってくるのだ。
これは、誰にでもというものではない。
多くは、その造形のみに目がいって、その表面的な部分
を問題にしてしまう。
人間、楽しむためには余裕が必要なのだ。
とは言っても、他人事なので面白がられるが、住民であ
れば、やはり、納得いかないかな。
とりあえず話題にはなったから、その点では大成功だか
らプラスマイナスゼロ。
という問題でもないか。
コメント

バッハ

2008年05月17日 | 音楽


「グレン.グールド」など見たお陰で、彼の「バッハ」
を聴きたくなり、実に十五年ぶりくらいにクラシックの
CDを買ってしまった。
CDそのものは、五六年前に、チェリストから貰った「フォ
ーレ」があるが、購入したのは本当に久しぶりである。
今回購入したのは「平均律グラヴィーア曲集」と「イタリア
協奏曲などはいったもの」の二枚だ。
この「平均律...」は、他の奏者のものを持ってい
るのだが、比較するのも良いかと思い選んだ。
しかし、その奏者というのが「キース.ジャレット」。
ジャズの人間である。
演奏そのもはクラシックに忠実にしているのだが、如何
せん畑違い、特別すばらしいというものでもない。
結局は、色物的CDの部類であろう。
そう言えば、購入の動機も、その色物性に釣られたの
だった。

ただ、「グレン.グールド」と「キース.ジャレット」に
は大きな共通点があることも事実だ。
その演奏スタイルではない。
音楽性に関してでもない。
それは、演奏する時に、二人とも唸るということであ
る。
これだけは似ている。
反面、これは目障りでもあるとも言える点だ。
こんなことが似ていても、本質には全く関係ない。
唸り声がピアノに同調して、未知なる音楽の出現、何
てことになったら良かったのに。
話を戻そう。

で、「バッハ」であるが、実は持っているクラシック
のCDの半分は「バッハ」なのだ。
そもそもクラシックを聴くようになったのも、「バッ
ハ」に興味を持ったからだ。
「始まりはいつもバッハ」、なんてね。
その後、「ミニマルミュージック」を好きになったの
も、この「バッハ」が影響していると思う。
「ミニマルミュージック」のルーツは「バッハ」を代
表とする「バロック」。
それを完成させたのが「サティ」。
更に発展させたのが「スティーヴ.ライヒ」など。
というのが、一応私見であるのだが。

こう書くと、如何にもクラシックに通じているかのよう
に感じられるから、ブログは止められない。
CDの全体の半分が「バッハ」と言っても、全体が十
枚だったらどういうことになるか。
全てで5枚だ。
枚数で決まるものでもないが、相当の初心者というか、
それだけでは中々語ることも出来ないだろう、という
のが普通の認識であろう。
全体の7割が「バロック」、と言っても二枚だけ。
これじゃあね、ということにどうしてもなる。
が、尤もらしく書けば書けてしまうから、困ったもの
である。

実際は、「バッハ」が20枚くらい。
つまり全体では、40枚くらいか。
要するに、クラシック全般には全く通じていないのだ。
だから、未だに「パルティータ」の意味も判らない。
「バッハ」の曲名もちゃんと覚えてない。
だから、聞き覚えがある曲がかかっても、あのアルバ
ムに入っているものだ、ということぐらいしか判らな
い。
しかし、「バッハ」の音楽が好きであるということは
事実なのだ。
コメント

松本のギアナ高地或いはガラパゴス

2008年05月16日 | 生き物 自然


昨日の続き。

蓼科から松本は、車で約一時間半(勿論高速など使わ
ない)。
そして「クロツバメシジミ」のいる河原に到着。
この「クロツバメシジミ」というのは、全国的にも数
を減らしている蝶で、今では、限られたところでしか
見られない。
食草が、「ツメレンゲ」という条件的に難しい植物な
ので、その「ツメレンゲ」の減少に伴って「クロツバ
メシジミ」も数を減らしているのだ。
その条件と言うのは、日当りの良い、石ころ交じりの
水はけの良い土壌ということなのだが、その条件に、
ちょうど、昔ながらのゆるい石積みの堰堤などが当て
はまるのだ、河原も含めて。
だから、コンクリート護岸になると、当然それらは生
きられなくなるということなのだ。

それにしても、この河原の植生は、ちょっと異質な感
じがする。
見慣れない植物(ツメレンゲも含め)が多いのだ。
これは、周りの植生(田園地帯)との連続性がないこ
とによるものではないか。
つまり、周囲とは堰堤によって遮断され、独自の生態
系が発展した。
ちょうど、「ギアナ高地」のように。
ちょっと大袈裟ではあるが、メカニズム的には同じよ
うに思う。
だから、河原に下りると、何だか違う惑星に降り立っ
たような感じを受ける。
これも、一種の異界というものだろうか。

「ツメレンゲ」は、直径5センチほどの、まだ赤ちゃ
んくらいの状態だ。
数は結構多い(限られた範囲に集中的に)。
しかし、お目当ての「クロツバメシジミ」は、風も強
いしとてもいそうにない雰囲気だ。
まだ発生してないのかもしれない。
そんな惑星を、なにかいないか探索する。
虫類は、時たま、蛾が飛び立つくらいだ。
それでも、暫く植物などを撮影してると、足元の地面
から黒白の蝶のようなものが飛び立った。
色的大きさ的には「クロツバメシジミ」なのだが、飛
び方がまるで蛾のようで、直ぐに地面に激突するかの
ように止まるのだ。
早速確認する。
「クロツバメシジミ」に間違いなかった。
どうやら、風が強すぎてそういう飛び方になったよう
である。
必死に、地面の草に飛ばされないようにしがみついて
いた。
同じような状態のものが、他にも数頭確認できた。
発生はしていたようだ。
これから10月まで、何回か発生を繰り返すのだ。
しがみついているので、スーパーマクロで寄っても逃
げない。
その点は良いのだが、被写体が揺れること揺れること。
ただでさえ、ぶれないことに自信がないのに。

ということで、「ヒメギフ」は駄目だったが、「クロツ
バメシジミ」は成功という一日となった。
写真は、その時の「ツメレンゲ」。
多肉植物で、昔育てていたサボテンを思い出すような
姿である。
コメント