ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

ミュンヘン

2006年11月30日 | 映画


ここのところ、ちょっとしたマイシネマブームがきて
いる。
勿論極私的な話で、こういうものは周期があって、途
絶えるとぷっつりの世界だから、いつまたすっかりご
無沙汰になるかは予断を許さない(という大袈裟な話
ではないが)。

今回は、大手チェーンの「蔦屋」ではなくローカルチェ
ーンのレンタル屋。
こちらの方もお久しぶり。
当然のこと期限切れのカードを提出し、更新手続き。
しかし、ここの更新手続きあっという間。
更新料もなしでそれは良いのだが、いかんせん品揃え
が。
嘗ては、飛ぶ鳥落とす勢いで活気があったのだが、大
手の進出以来失速気味だ。
その頃は、ヴィデオもかなり充実していて、監督別に
かなりの数があった。
「ピーター.グリーナウェイ」「マカベイエフ」なん
てところも、殆ど揃えていた。
「小津安二郎」だけでも20本はあったし、使い勝手
が非常に良かったのだ(十年前は)。

ところが今は、ヴィデオの数は当時の三分の一ほど。
当然削られるのは、こちらの興味のあるような映画。
つまり借りたいものが無い状態。
しかも、DVDがまた少なく、全体のヴィデオの2割
ほど。
すっかりロストワールド化してしまった。
祇園精舎の鐘の声が。
残念。

で、仕方なしにというか、選択肢が少ない中選んだの
はスピルバーグの「ミュンヘン」。
ここに来るまでは、全く頭の隅になかったものだ。
それなりに話題になった映画、か?
その度に言う気がするが、個人的にスピルバーグの評
価は高くない。
が、一応どんなものか見てみるか、という気になった
のだ。
それで、いざ見ようとしたとき、いつもと同じでは面
白くないと思って、前半は英語字幕でいくという暴挙
に出た。
これは別に予め前半と決めたわけではなく、結果的に
前半だけになったということで、つまり、それが限界
だったということなのだ。
字幕のスピードにとても追いつかないし、読もうとす
ると画面が全然見えなくなってしまうのだ。
あまりに疲れて、途中から普通に日本語字幕にした。
DVDだと変な機能があるから、こんなこともついつ
いしたくなってしまうのだ。
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レンタル

2006年11月28日 | Weblog
「ミスティックリバー」「ミリオンダラーベイビー」を
返しに行くついでに何か借りようかと思ったが、借り
たいものが見つからずそのまま帰ってきた。
どうも「蔦屋」の陳列は判りづらく、何がどこにある
かさっぱりだ。
監督別にしてもらうのが一番なのだが、一般的には主
演別或いはジャンル別ということになってしまうんだ
ろう。

仕方ないのでその足で車検に出していた車を引き取り
に行った。
恐る恐る納品書を見ると16万5千円という数字が目
に飛び込んできた。
なにー16万5千円と。
部品交換と、今回からリサイクル料(1万5千円)と
いうものが含まれてこういうことになってしまったの
だ。
まあ、リサイクル料というのは仕方ない。
その他で15万か。
気分が一気に盛り下がる。
こちらの予想金額は13万程だったのでその差3万。
ったく、とため息ひとつ。

こういう時は気分を変えて、というか愚痴の一つも
ということで蕎麦を食べに行く。
いつもの「田舎蕎麦」(挽きぐるみの)を食べ、蕎麦
湯をすすりながら主人に車検代のことを報告する。
すかさず「なんでそんなにするの」と驚きの一言をも
らう。
リサイクル料とか何とかかんとかと説明する。
二人で、「全く車もお金がかかるよ」と嘆息。
と主人が「インターネットの任意保険でどのくらい安
くなる」と聞くので「少なくとも1万は安くなるよ」
と答える。
自分の場合、半額近くまでなって如何に代理店の手数
料が高いか実感したので、前から勧めていたのだ。
そこで、まずは見積もりをすることを勧め、店を後に
した。
一歩外に出ると、気温は高めなのだが、雨に濡れた路
面が妖しく光り、冷たい空気がまるで身体に忍び込む
ようだった。

と断腸亭風日記でした。
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ミリオンダラーベイビー

2006年11月27日 | 映画


よく引き合いに出していた、ロバート.アルトマンも
死んでしまった。
ついでに(という表現もおかしいが)ジャズシンガーの
アニタ.オデイも。
あと、フィリップ.ノワレ。
次から次と有名どころが消えていく。
だいぶ老けが目立つイーストウッドは大丈夫か。
決して作品は老化してないので、まだまだ作品を撮り
続けてほしい。

ということで、最新三部作(誰かが言っていた)の見
てない残り「ミスティック.リバー」「ミリオンダラ
ーベイビー」を見ることにした。
とっくに期限が切れていたカードを持って「蔦屋」に
行き、もうDVDが主流なんだ、と改めて確認し、少
々面倒くさい更新手続きをこなしそのDVDを借り、
観賞と相成った。

「ミリオンダラーベイビー」に関しては、アカデミー賞
も受賞で相当話題になったので今更なのだが、個人的
には「ミスティックリバー」の方が好きだ。
それにしても、全ての作品に共通しているのだが、イ
ーストウッドの映画には気品がある。
「詩情が充溢」と表現したくなるような世界。
これ見よがしにならない表現は、もって生まれたセン
スの良さではないだろうか。
「ミスティックリバー」の内容など、相当ひどい話で
(少年誘拐監禁とか殺人)、ある意味救いようが無い
のだが(特にティム.ロビンスがあまりに哀れ)、す
ぐにその世界に引き込まれる。
しょぼい映画特有の平板さがない。
物語を物語るだけ、という映画にはなっていないのだ。

それにしても不思議なのは、どう見てもハリウッド映
画のアンチテーゼのような映画を撮り続けるイースト
ウッドが、アメリカで少なからず評価されているとい
う最近の状況。
かつては、自分の映画が、ヨーロッパ或いは日本など
でしか評価されないということを嘆いていたなどと聞
いた事があるが、最近すっかり様変わり。
一体この変化はどうしたことか。
アメリカに何が起こっているんだ。
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セルティック

2006年11月26日 | サッカー


先日、チャンピオンズリーグの「セルティック」対「マン
チェスターU」の再放送があったので、深夜にも関わ
らず見ることにした。
中村のフリーキック一点で勝利した試合だ。
「セルティック」の試合などめったに見られないし、
中村のフリーキックも見たいと思っていたので、ちょ
うど良かった。

格から言えば圧倒的に「マンチェスターU」だから、
殆ど押されっぱなしという展開になるのは予想通り。
前半の中村は、球に触れる機会も少なく、相手のプレッ
シャーからか結構ミスパスも多い。
「セルティック」の攻撃も、単純にロングボールを
FWのフェネホール.オフ.ヘッセリンクにあてる
だけというゴールの匂いのしない展開。
「マンチェスターU」も押してる割には決定的なチャ
ンスが少ない。
得てしてこういうときは、フリーキック一発で決ま
るものだ(結果が分かってるから言ってるだけだが、
こういうのを帰納法的解説という)。

後半は、「セルティック」も良い形が作れて、前半
よりはゴールの匂いがする。
中村もボールに触れる機会が多くなった。
そして三十分過ぎのフリーキックだ。
競技場の雰囲気は最高潮。
現場にいたらさぞかし、という状況だ。
サポーターの祈りの姿が、微笑ましいというか必死
だ。
そして決まる。
スタジアムは揺れる。
歓喜の渦の中心にいる中村。
こういうときに味わうのは、絶頂感或いは陶酔か。
神になった瞬間だ(必ずこんな大袈裟な表現を使う評
論家がいるはずだ)。
しかし、こんな経験をしたらやめられないだろうね。
何万人もの祈りを一身に受け、それに応える。
その一体感は、本人しか味わえない特権。
歌手が、ライヴでファンの熱い視線を浴びて陶酔する
のと同じか。

さて中村だが、ここのところの活躍で、日本代表に呼
ばれない方がおかしい、という論調になってきている、
サッカー業界では。
運動量が問題視されていたのだが、本人も意識して自
分なりに改善しようとしている。
ここは一つ代表で頑張ってもらいますか、オシムさん。
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崖っぷち犬

2006年11月25日 | Weblog
一体何のことかと思ったら、崖のコンクリート糊の縁
で、身動きの取れなくなった犬のことだった。
惹句としては上手い、と思った。
で、主役の犬だが、一週間ほど飲まず食わずの状態で、
レスキュー隊も出動して何とか助けようとしていたの
だが、なかなか上手くいかず、これが、マスコミの格
好の題材となったわけだ。

こういうものの常で、一斉に注目が集まる。
つまり、「固唾を呑む状況」という状況になる。
当然野次馬は集まり、各局のレポーターも集合という
いつもの光景が展開される。
インタビューでは、心配そうに見守る近所の人が「早
く助かってほしいですね」というお決まりの台詞を言
い、スタジオではしたり顔のコメンテーターが「本当
にそうですね」と応える。
そして、無事救出されるとすかさずコメンテーター或
いはキャスターが「世知辛い世の中、こういう話題は
ほっとしますね」と締める。
これを茶番と見るか。

ほっとけば死ぬ運命にある野良犬を助けることは、良
いことというか、かわいそうの反対であることは間違
いない。
はっきり良いことといえないのは、もし野良犬が飼わ
れずにそのまま野良犬という状態で放たれたら、いろ
んな問題が起こりうるから。
今回の場合は、飼い主希望が殺到しているから問題な
いが。
この場合、たまたま注目されて飼われるという運命に
なったから良いが、こういう話題から感じる本質的な
違和感は消えない。

その理由は、自己完結ドラマとして終わる、その時だ
け消費される情報の一つとして、予定通り消費されて
いくそのことにある。
終われば皆ころっと忘れるのだ。
良い話だったね、という記憶が残るだけ。
それがきっかけで、犬などを捨てたりしなくなるとい
う風には、まずならない。
そしてもう一つはマスコミの姿勢。
取り上げるのなら、日々人知れず処分されるこの崖っ
ぷち犬の何十倍の犬に関してだろう。
たまに、思い出したようにアリバイ的に取り上げるが、
本質的な問題はこちらにあるのだから、恒常的に扱う
べきものだと思う。
セレブ犬だどうのと、純血種ばかり持ち上げるのも問
題だし(個人的には雑種が一番かわいいと思う)、や
ることの欺瞞性がいちいち気になる。
ボランティアで捨て犬を飼っている施設に対して、局
の方でなんらかの援助でもしていれば少しは見なおす
が。
レポーターにタレントを使って、予定通り泣いて、は
いっOK、が大体の落ちではないだろうか。
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ヌーヴォーからムール

2006年11月24日 | 食べ物


身の色に関しても、特徴であるオレンジが鮮明なもの
から、クリーム色に近いものと、微妙に違う。
多分個体差が激しい貝なのだろう。
店によっては、相当しょぼいものも出てくる。
貝殻だけはでかいが、中身は蜆か?というものや。
おまけに臭ったりしたら、それこそ踏んだり蹴ったり
だ。
基本的には、獲れる場所で新鮮なものを、というのが
貝類全般の理想だろう。
しかしそんなことは言ってられない。

で、今回のムール貝はどうだったか。
たのんだのは0.5キロ(あとは1キロがある)。
数にして十二三個。
前回は、それこそブリキ製のようなバケツで出てきた
が、今回は鋳鉄製でちょっとおしゃれになっていた。
見かけは大分小さく、なんかケチってきたんじゃない
の、と一瞬思った。
肝心のムール貝も、印象としては、中身の大きさが前
回の三分の一(容積にすると)。
ちょっと違うな、と一言。
ベルギー式のようにポテトはつかないので、別に頼ん
だポテトを食べつつムール貝を食べる。
味は悪くない。
身も小さいのだが、ぷりっとしてしょぼしょぼにはな
っていない。
しかも、改めてポテトが合う。
ヌーヴォーをぐいっと飲み、ムール貝を放り込む。
これは、合わない。
やっぱ、ビールにしとけば良かった、と少々後悔。
それか、ここでの定番シードルにでもしとけば..。

その後、一個だけじゃりっとして泥臭いのに当たった
が、他はノープロブレム。
しかも、前回飲みきることが出来なかったスープが、
今回は程よい塩味で、タイムの効きも丁度で、美味し
く飲みきることが出来た。
量も見かけよりあり、結果的には充分だった。
まあ、なんだかんだ言っても満足だったということだ。
そして、グラス二杯だけですっかり効いてしまったア
ルコール虚弱体質は、更に拍車がかかっているな、と
改めて確認して、店を後にしたのだった。

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ボージョレヌーヴォー

2006年11月23日 | 食べ物


久しぶりに(此処のところこの出だしがちょっと多い
気がする。導入部として使い勝手が良いのでついつい
使ってしまうのだが、少々安易かも。これからは禁じ
手にするか)ボージョレヌーヴォーを飲んだ。
正確には、ボージョレー.ヴィラージュ.ヌーヴォー。
もっと正確には、Beujolais Village Nouveau。
最後に飲んだボージョレ、いつだったか全然思い出せ
ない。
多分、十年振りくらいだろう。
大体、ワインそのものが、最近すっかりご無沙汰なの
で、ボージョレがどうのこうのという状態ではないの
だが、やはり久しぶりのボージョレヌーヴォーは、決
して美味いものではなかった(そもそもが記念ものな
のだから、味がどうのこうのというのは野暮な話とい
う気もするが)。

しかも、一緒に食べたのがムール貝のビール煮。
そのビールが、ベルギーもののなんとかかんとか。
だったらビールで食べろよの話なのだが、その時はボ
ージョレヌーヴォーの磁場に囚われてしまったのだ。
季節の縁起物を、ついつい買ってしまう心境と同じ
(多分)。
ムール貝にボージョレヌーヴォー。
合う訳ないか。

場所は例によって「オ.クリヨー.ド.ヴァン」。
ここで以前食べたムール貝が(そのときはワイン煮)、
身が厚くぷりっとしててかなり美味かった、残りのス
ープが、タイムの香りと塩気が強く飲み干せなかった
ことを除けば。
このムール貝、ベルギーの名物料理らしく、季節にな
ると、それこそバケツに盛ってばくばく食べるらしい。
最近は、パリにもその有名店の支店があるらしく、結
構な人気ということだ。
付け合せは、たっぷりのフライドポテト。
シンプルな調理法とポテトの組み合わせ(どこかフィ
ッシュアンドチップスを思わせる)。
ポテト好きとしては嬉しい限り。
余談だが、フィッシュアンドチップスも、変な味付け
をしない分、イギリスものでもどうにか美味しく食べ
られるレベルになっているんだろうね(偏見に基づく
推測)。

ムール貝というと、ちょっと気取ったようなイメージが
あるが、日本では紫貽貝といって、どこにでもいる謂わ
ば雑貝みたいなものではないだろうか。
かなり汚い環境でも生育できるし。
桟橋なんかの柱に、びっしり付着している光景をよく目
にする。
だからこそ、その生育環境によって味の違いが大きいの
かもしれない。
身の出来かたも。

つづく。
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鮭のパスタ

2006年11月21日 | 食べ物


先日、残りのバジルを一括処理するために、ジェノベー
ゼを作ったのだが、なかなか利用する時が無く、さっ
さと使わないとまた黴黴になってしまうなどと思って
いた。
しかし、時は到来した。
鮭の塩焼きがあったので、これならジェノベーゼを使っ
てパスタに出来ると思い、早速作ったのだった。

今の鮭は、大体が甘塩なので、こういう使い方には適
している。
ほぐした身を用意して、取り敢えず鮭の味見をしてみ
る。
大丈夫なようだ。
たまに生臭いのがあるから油断できないのだ。
後はジェノベーゼとにんにく、そしてオリーヴオイル。
慎重ににんにくを焦がさないように炒め・・・・。
中盤省略。
最後にジェノベーゼを合わせ、はい出来上がり。

以前ジェノベーゼを作ったときは、たっぷりのバジル
は良かったのだが、松の実がなくて代用でアーモンド
を使ったのだが、そのアーモンドが問題で、フードプ
ロセッサーでは限界があり、硬いぶつぶつがどうにも
解消されず、舌触りの悪い今ひとつのジェノベーゼと
なってしまった。
結局、あまり使うことも無く、気付いたら黴だらけで
廃棄という残念な結果となった。
今回はちゃんと松の実を用意して、万全の態勢で臨ん
だ。
ところが、肝心のバジルが思ってたほど無く(数日の
遅れで一気に萎れてしまったのだ)、どうかなと思っ
ていた。
しかし、大丈夫だった。
鮭のパスタ、今回初めて作ったのだが、なかなかいけ
ることが分かった。

ここにまた一つ、新たなパスタメニューが登録された
のだった。

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クリント.イーストウッド

2006年11月20日 | 映画


もう少しイーストウッドの話を。

「父親たちの星条旗」でひとつ気になったところがあ
る。
小隊の一員であるイギーという兵士に関することだ。
どうも悲惨な死に方をしたようなのだが、その場面は
出てこなかった。
壕の中で殺されたようではあるのだが、具体的なシー
ンは描かれてない。
この部分は、日本側からの視点で撮った「硫黄島から
の手紙」で描かれているのではないかと推測したが、
どうなんだろう。
全く、個人的な興味の話なのだが。
それとこれもあまり関係ないが、「硫黄島」は、以前
はイオウジマと呼ばれていたらしい。
どうも、どちらが正しいとは言えないようなのだ。
映画の中ではイオオウトウと発音され、決してイオウ
アイランドではなかったところが、ちょっと可笑しか
った。

で、イーストウッドに関してだが、個人的には(何度も
言った気がするが)、アメリカではロバート.アルトマ
ンと並ぶ数少ない有能な監督だと思っている。
例えば有名どころの、今回プロデュースしたルーカスじ
ゃなくて・・・・。(今・・・のところで確認、スピルバーグ
だった。度忘れにもほどがある。ついでに昨日のク
リストファーウォーケン似の役者の名前も確認。バリ
ー.ペッパーというらしい。)
そのスピルバーグだが、上手いとは思うが、決して良
い監督ではない(飽くまでも個人的な基準での話し)。
イーストウッドとはちょっとした、実は大きな違いが
ある。
黒澤明と小津安二郎の違い、というより、黒澤明と森
一生の違いと言った方がより適切か。
まあ、この辺のところは深く追求せずで、そう個人的
には思っているということで。

イーストウッドの他の作品では、今ひとつ知られてな
いが「荒野のストレンジャー」「センチメンタルアドベ
ンチャー」という、小品だけど忘れられない良い映画
もある。
「荒野のストレンジャー」なんて亡霊ガンマンの話だ
(その後「ペイルライダー」に続く)。
考えてみればふざけた話なのだが、詩的なムードさえ
漂う不思議な映画になっている。
よく言われる、映画のリアリティー。
これって一体何なのだ、と思わず考えてしまうような
作品を作るイーストウッドは、やはりただ者ではない
のだ。

訂正)
イオウトウとイオウジマが全て逆でした。
完全にトホホな記憶違い。
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父親たちの星条旗

2006年11月19日 | 映画


何はともあれ、本編が始まった。
予告編でお疲れ状態、果たして大丈夫かと思ったが、
どうやら杞憂に終わった。
音にも徐々に慣れ、スクリーンの大きさにも慣れ、人
間よくしたもので適応するんだこれが(と言う程大袈
裟なことでもないが)。
二時間以上の映画だが、長いと感じることは無かった。

生き残った兵士の回想から始まって、徐々に当時の状
況が明らかになっていくという、大まかな展開で話は
進む。
戦争の真実というか現実を、抑制したトーンで描いて
いくクリント.イーストウッドの監督としての実力に
関しては、最早疑いはないが、それより、あの歳で今
でもこんな映画が作れてしまうことにびっくりなのだ。
それに、クリント.イーストウッドが今何故硫黄島な
のか、ということも考えさせられることである。

戦争を体験した人は戦争について語りたがらない。
戦争を知らない人は多くを語る。
死んでいくのは現場の人間で、戦争を仕掛けた人間は
安全な場所で、ほくそえみ理屈を捏造。
欺瞞に欺瞞を重ねると、いつしかそれが正義という結
晶に変わる。
そして、現場では生き残る唯そのために戦う。
そんな戦争の現実を描くことがこの映画のテーマかも
しれない。
しかし、映画というのはテーマが全てではない。
瞬間瞬間の感動でもあるのだ。
まあ、とにかく論理(物語)からこぼれ落ちたところ
に、真の面白さがあるのだ(ちょっと違うか)。

いくつか印象に残ったシーンをあげる。
まず、上陸するところ。
「プライベートライアン」に似ているシーンだ。
しかし「プライベートライアン」は、戦争の悲惨な現
実・・血肉が飛び散る・・を描きたいがための、ある
意味見世物的な演出だった。
しかし「父親たち・・・・」では、当然の現実として
の一シーンとして描かれる。
これ見よがしではないのだ。
それと、先発隊が荒涼とした島を徐々に進んでいくシ
ーン。
日本兵がどこにいるのか分からず、恐怖が最高潮に達
するところなど、どんなホラー映画も太刀打ちできな
いほどのホラーなシーンだ。
一転して、英雄として祭り上げられた兵士が、ヤンキ
ースの連中に歓迎されるところなど、馬鹿っぽさ満載
でまるでパロディーのようだった。
戦場との対比が抜群だ。

あと、この映画の特筆すべき点は、有名スターが出て
こないところだ。
スター映画にしない潔さ。
知っていたのは、ロバートパトリック(ターミネーター
2の刺客)と、プライベートライアンにも出ていた、あ
のスナイパー役の、クリストファーウォーケンを一回
り細くしたようなあの役者くらいなものだ。
もしこれにトムクルーズやメルギブソンなんか出てた
ら、見に行く気しないものね。
イーストウッドは偉い。

コメント

硫黄島

2006年11月18日 | Weblog
本当に久しぶりの映画館。
地元では、前回が「許されざる者」だったから、実に
十三四年ぶりということになる。
奇しくも、今回も同じクリント.イーストウッドの「父親
たちの星条旗」。
実情は、地元で見たい映画が、クリント.イーストウ
ッド位しかやらないという悲しい現実があるだけのこ
と。
その割には「ミリオンダラーベイビー」が未見とはど
ういうことだ、と自分自身に突っ込むことは忘れない。

地元でのレイトショーも初体験。
なんだか緊張しながら券を買う。
一応シネマコンプレックススタイルなので、いくつかスク
リーンがあり、少々戸惑いながらもお目当てのところ
に入る。
なんで、ここまでくるのに緊張しないといけないのか、
と自分に苦笑。
観客の男女の割合は、一対四で女性が多い。
と言ってもそこは田舎、全部で十二三人。
これでも結構入ってる方ではないかと、勝手に想像。

いよいよ映画が始まり、予告編が次から次と紹介され
ていく。
全く普通の展開なのに、すっかりビデオとパソコンに
慣らされた体は、大きなスクリーンとでかい音につい
ていけない。
こんなにうるさかったか、と過去の体験を思い返すが、
鮮明に思い出せない。
これではまるでディズニー(行ったことは無いが)だな。
音と映像でびっくりさせる。
予告編を見て、期待してしまうのも無理はない。
本編は、テンポがない分予告編より面白くないのが普
通なのだが。
映画の面白さとディズニー(行ったことは無いが)の
面白さは異質なはずなのだが、最近はディズニー的映
画が多すぎる、などとまたまたどうでも良いことを考
えながら「父親たちの星条旗」が始まるのを待つ。
予告編でこんなに疲れて大丈夫か。

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マカロン

2006年11月17日 | 食べ物


これも、昨日の豆大福と一緒にもらった京都土産だ。
何ゆえ京都土産で「マカロン」なのか、ということは
この際置いといて「マカロン」だが、自分にとっては
初ものだった。
ここ数年人気菓子であることは知っていたが、食べる
機会が無く、いつかは食したいと思っていたものだ。
今回もらったのは「プチマカロン」で、標準的なもの
より大分小さい。
中のクリームによって色も違い、見かけはカラフルな
石鹸の容器の詰め合わせみたいだ。

京都通の知人によると、なにやらパリのものと同じ味
だとか。
「ラ.デュレ」というマカロンで有名な店があるので、
そこの店と同じものを作っているということなのかと
聞くと、「なんだかよく分からない」と返答。
京都には詳しくてもその辺のことには通じてないから、
まあしょうがない。
こちらはいただいたものを、ありがたく食せば良いだ
けのことだ。

で、初のマカロンはどうだったかというと、正直なと
ころ「うん?」なのだった。
多分、前日のものだったので、焼き立てとは大分違う
と思う。
それと、プチであることも。
ある程度の大きさがあった方が美味しいだろう。
ただ、クリームの甘さが「ちょっと」というのはあっ
た。
結局、今回だけで、「マカロン」に対する評価は決め
られないというのが結論だった。
他のところのものを食べてみないと。
できれば「ラ.デュレ」のものを。

それよりフランスものだったら、「クイニーアマン」の
方が食べてみたい。
「マカロン」より「クイニーアマン」の方がどう見ても
名前が良いだろう(自分だけか?)。
「クイニーアマン」、なんだか切れのある役者みたいだ。
「アンソニー.クイニーアマン」。
コメント

豆大福

2006年11月16日 | 食べ物


京都通の知人より、京都土産の「豆大福」をもらう。
何を隠そう、餡子ものではこの「豆大福」と「鯛焼き」
が二大好物なのだ。
そして、京都「ふたば」の豆大福は、その中でも上位
に位置している豆大福だ。
「並ぶ店」として有名だが、並んでまでして食べたい。
と言いたいところだが、それはどうか。

一般的に並ぶ店は、「並ぶ」イコール「美味しい店」イ
コール「並ぶ価値あり」ということになっているが、
経験上そうではないことは分かっている。
過去、並んでまでして食べて、もう一度並んでみよう
と思った店は皆無だ。
同程度の味なら、並ばなくても他にあるのではないか
というのが結論だ。
どれも、不味くは無いが、並んでまでして食べたい味
かというと首を傾げざる得ない。

それで思ったのは、並ぶ店に並ぶというのは、その行
為が、あたかも美味しいものを食べるための儀式にな
ってるのではないかということ。
これもある種のお祭りか。
参加した時点で、その目的の殆どは達成している。
すでに情報としての「美味しいもの」は脳で準備して
いるので、後は追体験するだけ。
始めから美味しいことになっているので、勿論美味し
いと思って店を後にする。
情報を食べて満足。

で、話は戻って豆大福だが、十分くらいだったら待つ
か。
それ以上だと、「豆大福を買うために待つ人」という
客観的状況に耐えられないかもしれない。
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読書2

2006年11月14日 | 芸術


一つだけ忘れていたものがあった。
「ユリイカのピカビア特集」。
この本が、読みかけの本として存在していた。
これは、「ユリシーズ」と違って、小説ではないので、
中断してても全く問題ない。
いろんな人が(本人も)ピカビアについて語った本な
ので、それぞれの文章も長くなく、いつでも読めるの
で、最近はお出かけのときの友となっている。
但し、内容は決して分かりやすいものではない。

例えばアンドレ.ブルトンの次のようなもの。
・・・私が思うには、それらは視覚的なものだけに
   固有の法則とはならないであろう。そしてい
   かなる芸術作品も、視覚的なるもの同様、あ
   らゆる点でその法則に従うなどということは
   ないのである。なぜなら実際のところ、作品
   はもはや、程度の差こそあれいずれも見事な
   やり方でよせ集められた色彩の中にも、近く
   遠くから現実に触れる線の戯れの中にも存在
   していないからである。類似は、それがぼん
   やりしか認められない場合であっても、もは
   や存在していない。解釈という名の冗談はあ
   まりにも長い間存続しすぎた。

あるいは、アポリネールの「フランシス.ピカビアへ」
という文章は。
・・・プラクシテレスは帯製造人だ
   君の右足の親指は
   罵倒した
   ヴェネツィアに三人の仲間を持つ騎士を
   小アジアあるいはシャンパーニュで
   そこでは牡鹿たちが間抜けな奴等を運んでくる
   どういった御仁のためかは皆さんご存知だ
   そして君がタンゴを踊るなら
   私ニ触レテハナラナイ

と、分かったような分からないような内容が詰まって
いるのだ。
こんな本を持って、例えばお気に入りのカフェ「オ.
クリヨー.ド.ヴァン」あたりで読んでいる図という
のは、如何にもの世界なのだが、そんな如何にもの
世界で、分かったような分からないような気分になる
のも、ちょっと快感であったりするから困ったもんだ。
   
コメント

読書

2006年11月13日 | 芸術


読書の秋と言われても、読まない人は全く読まないの
が本だ。
習慣化してないと、なかなかきっかけもなく、歳をと
ればとるほど縁遠くなるものだ。
周りを見回しても、所謂読書好きという人間はあまり
見当たらない。
斯く言う自分も、以前書いたが、ジョイスの「ユリシ
ーズⅡ」から全く進んでいない。
その間他の本はというと、記憶に残らないような本を、
数冊読んだような読まないような。
全然はっきりしないほど、この一年、いや、二年かな、
本と関わってない。

こんなことでいいのか、と思うことはしばしばなのだ
が、いかんせん読む気が。
パソコンをいじっている今がその時だ、とも思うが、
なんだか作家気分に浸って、はい終わりの日々なので
ある。
全く、パソコンていうのも良いのか悪いのか。
目には悪い。
これだけは、断言できるが。

そもそものきっかけは「ユリシーズ」にある。
あまりに読み辛いのだ。
長編などは、その文体のリズムがすんなり体に染みこ
んで来ると、心地よく進む。
その本の世界を体験する、という感覚をつかむことが
出来る。
「ユリシーズ」の場合、それがどうも。
ここは、きっぱり放置した方が良いかもしれない。

ならば、他の読みやすい本にすればということになる
が、その読みやすいというのにひっかかる。
どうも生来のひねくれた性格が災いする。
例えば、以前、「ヘルマンヘッセ」のプチプチブーム
があった時、確かガーデニングブームと機を一にした
頃の話だが、「庭仕事の愉しみ」という本が、ちょっ
とした話題となって(と思うが)、ヘッセが再注目さ
れた。
ヘッセを読んだこと無い私に、ヘッセ好きが、「車輪の
下」とか面白いから読んだ方が良いと言う。
しかし、それ以前にこういう話を聞いていた。
ヘッセの次の段階に読むのがトーマス.マン。
すでにトーマス.マンの「魔の山」を読んでいた自分
としては、いまさらヘッセか、という気分だった。
しかも、「魔の山」はかなり面白く、長編小説の記念
すべき第一歩になったものだ、自分にとっては。
で結局、ヘッセは読まずじまい。

こうやって、自分の基準で対象を狭めていくのだが、
問題は、そこに必ず偏見が含まれるということだろう。
しかし、これがなかなかすんなりとは改善されないわ
けだ、分かってはいても。
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