ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

舟を編む 共喰い

2014年04月13日 | 映画

 

 

日本映画の「舟を編む」を見る。評判はかなり良かったと記憶している。映画は、辞書編集部員が十何年かけて「大渡海」という国語辞書の改訂版を完成するまでのお話で、言葉に対する愛に満ちた人々の奮闘振りが、主人公の恋も絡めながら描かれている。そんな地味な話にも拘らず二時間を越える長編である。唯、そんなに長いとは感じさせない。ということは、それなりによくできているということでもある。例えば、一見軽薄そうなオダギリジョー演じる先輩部員の良い人ぶりに泣かされたり、主人公松田龍平の、後の妻になる宮崎あおい演じる全くリアリティーのない板前さんの楚々とした佇まいに惚れ、いい人ばかりのファンタジーの世界にすんなり入り込めればかなり楽しめるだろう。所謂、心に沁みる良い映画と言えるのかもしれない。

唯映画としてみると、同じく日本映画の「共喰い」と較べると映画の力と言うものは大分弱い。DVやらセックス依存症のどうしようもない親父の血を受け継いだ少年の、自分の中に認められるそのどうしようもない親父の血に悶々とする日常という「舟を編む」とはあまりに対照的などろどろした世界は、ちょっと軽く楽しむというわけにはいかないが、監督の青山真治はそのどろどろをこれでもかとあざとく描わけでもなく、洗練された映像によってうまい具合に見せてくれる。最終的にはその親父の殺人事件にまで発展するという、内容もかなりひどいのだが、見終わってからいやーな感じに囚われることはない。映画として見た場合、評価は「共喰い」>「舟を編む」である。

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春の河原

2014年04月12日 | Weblog

 

電車で向かったのは梓川の河原。色んなムシムシも見られるシーズンになってきたので、ちょっと覗いてみたいと思ったのだ。天気もよく条件としてはいい。しかし、暖かいはずなのだが、風には微かな冷機を感じポカポカ天気と言い切ることもできない。この時期は寒いのか暖かいのか本当はっきりしない。

河原には、様々な雑草が花盛り。これらの花は小さくしかもありふれていて、且つ雑草などと一括りにされているので殆ど見向きもされないが、よく見れば魅力的な姿形をしている。

 

これはありふれたものではないが。

 

さてムシムシの方はどうかというと、数は多くはないがいろいろ出てきている。まずは越冬組のヒオドシチョウ。

 

 

次は一瞬たりとも止まらないナナホシテントウ。

 

 

カメムシも。これはジュウジナガカメムシか?

 

 

そして芋虫ストラップに良さそうな何かの幼虫。食欲旺盛だった。

 

 

この時期の河原も色々楽しめるなり。

 

 

 

 

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電車でGO

2014年04月11日 | Weblog

 

 

鉄男君に倣い電車の一番先頭に立つ(と言っても二両編成のローカル列車)。行く手に聳えるのは北アルプス。こういう風景を見られるのは先頭に乗った者の特権である(というほど羨ましがられるものではないが)。そして目ざとく見つけたのがこれ。

 

 

殆どの人は何も関心を示さないこの表示、実は二年前にも同じ写真を撮っていたのだ。それがこちら。

 

 

今回と前回では一箇所変更されているのだ。二年前に、この表示だと運転手は男性限定となるのどうのとブログに書いたのだが、その元となったheが、今回はhe/sheに変更されていたのだ。このブログを見たから、というのは考え難いが、多分同じような指摘を受けたのだろう。しかし残念ながら、もう一つのこちらの方までには配慮は至らなかったようである。

 

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鷹の巣参り

2014年04月10日 | 生き物 自然

 

先週発見した鷹の巣を見に行く。今回も巣に近付くと、突然巣から飛び出した。警戒しての行動だろうか。しかし上空を旋回している風でもなく、一体どこに行ってしまったのかその姿は見えない。諦めて戻ろうとした時、畑を挟んだ向こう側の木の梢を見ると、微かに鳥が止まってるような形を認めた。距離にして50メートルくらいだろうか。そこで150ミリのカメラで撮って確認して見る。やはり目当ての猛禽類(先週は多分ノスリであろうと推測したが確証はない)であることは間違いない。巣を離れて見晴らしのいい木に止まっていたのだ。早速近付こうとそちらに向かって歩き出す、が、その木まで二三十メートル位の地点で再び飛び去ってしまった。どうもこちらの様子を窺ってたようである。警戒心は相当強いようで、しかも子育てが始まる時期でもあるので尚更なのだろう。結果、鮮明な写真は撮れず、ノスリなのかツミなのかサシバなのかは未だに分からず。尤も、写真を見て判定するだけの知識はないので同じことなのだが。そんなことよりもう少しマシな写真を撮りたいだけなのだ。

現時点で精一杯の写真

それを拡大すると

 

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ビオトープも原点回帰

2014年04月08日 | Weblog

 

 

ビオトープアネックス(ポリバケツ)を室内から屋外に移動。最終的にはビオトープに合流させるのだが、その前に、今年はビオトープの大掃除をしようかと思っている。底に溜まっている砂泥を全部浚って(浚渫の浚はさらうと読むことを今変換して知った)、新しい砂に入れ替えきれいにしようと思ってるのだ。4年間で、ヘドロもたまりアオミドロなどの余計なものも増えたのでそれらをを一掃し、原点のシンプルなものに戻そうと言うわけだ。過去、いろいろ試した末の結論としては、ビオトープも水と砂だけで充分というもので、これは蕎麦はセイロ、ピザはマルゲリータ或いはマリナーラに限る、というのと同じことなのである、ん?

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都会の象徴

2014年04月07日 | Weblog

 

 

最近この田舎にスターバックスがオープンした。都会では新たに出店しようにも飽和状態で、自ずと候補地は地方となる図式に則っての出店だ。以前、同じ県の県庁所在市が、都会の象徴としてのスターバックスがほしくて誘致運動したなどという、如何にも田舎者的な発想のエピソードがあったが、今でもその構造は健在で、当地のスターバックスはオープン直後から大盛況の模様。わざわざ行く店か、と個人的には思うのだが、根本的に都会に対する憧れを持ってる田舎の人間には未だ有効のようである。尤も、所謂都会的イメージのあるチェーン店の開店直後はいつもこんな状態で、一通り終るとぷっつりというのがいつものパターンである。直ぐに飛びつくがリピートはしないというのが田舎人間の特性である。単に物見高いだけとも言えるのだが。

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春の雪

2014年04月06日 | Weblog

 

 

今朝はうっすら雪が積もっていた。梅の花に雪というのも珍しくないので、この時期の雪というのも考えてみれば毎年のことである。そこで一句(他に書くことが浮かばない時はこのパターンなり)。

春の雪 蕾がかぶる 帽子かな

 

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迷彩柄

2014年04月05日 | Weblog

 

 

カモフラージュ柄の木肌。因みにカモフラージュはフランス語で、camouflageと書く(というのを今確認)。このスペルだとカムフラージュの方が近そうだ。

で、この木だが、同じく迷彩柄で有名なスズカケノキ(別名プラタナスというのを今確認、という風にネットで調べると直ぐ分かるのだが、その時はへーっと思っても直ぐ忘れてしまうのがこれまたネットの特徴)と違うのかは分からない。山の中なので、街路樹で使うようなこの木があるとも思えないのだが。いずれにしろ迷彩柄がみごとなことに変わりはない。

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越冬組み

2014年04月04日 | 生き物 自然

 

昨日のノスリを見に行くために上った土手には、越冬明けのキタテハが飛んでいた。いるのは先月から確認してるが今回が初撮り。このキタテハ、兎に角土手好きで、土手という土手全部にいるのではないかと思うくらいだ。一体冬の間はどこに隠れているのか。

 

 

そして庭には、相変わらずこれも越冬明けのホソミオツネントンボが日向ぼっこ。

 

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巣を発見

2014年04月03日 | 生き物 自然

先週行った高原の池に再び行くと、この一週間で氷はすっかり解けていた。

 

 

その帰り、車で走ってる時に何気なく空見上げると、猛禽類が一羽、青空を気持ち良さそうに旋回していた。

 

 

どうせトンビだろうと暫く見ていると、どうも姿が違う。トンビにしては小太りで、そうなると尾羽を確認しなくてはと、ずっと目で追う。どうやらノスリのようだ(推定というか他は未だ見たことがないので知らない)。結構低空を滑空するので、これはシャッターチャンスかと車を脇に止め土手を上り、その上の畑で待ち構えた。が、こうなるとなかなかいいところには出てくれない。その内姿も見えなくなり引き上げようとして、ふと林の方に視線を向けると、木と木の合間に巣のようなこんもりしたものが見えた。ひょっとして巣だろうかと近付くと、益々巣のように見える。暫く目を凝らし観察してると、突然そこから猛禽類が飛び立った。そんな瞬間を写真で撮ることなど出来るはずもなく、呆然とそれを見送るだけだった。周りは畑で、民家がポツンポツンとあるような環境で、林も奥深い密集した状態ではなく同じようにポツンと取り残されたような林だ。こんな身近な所に巣を作っていいものだろうか、と疑問に思いながらも、良いものを発見した喜びにちょっと浸った一日であった。

 

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鯨食

2014年04月01日 | 食べ物

 

調査捕鯨が違法判断でいよいよ鯨食文化も終焉を迎えようとしている。確かに、調査の名目だけで何百頭の鯨を獲るのはなかなか理解はされないだろうし、根拠が希薄だと日本人からしても思う。実際、一般的な日本人の食文化にどれほど鯨が入り込んでいるかを考えると、今は殆どないと言ってもいいのではないだろうか。居酒屋に尾のみがあると頼んでみるか、位の関わりかと思う。日本人の中でも、鯨イコールウォッチングの対象という位置づけになりつつある。食べる対象から見る対象。つまり、鯨文化はすでに変ってしまっているのだ。鯨を殺すのは可愛いそうという理屈だけでは納得できないだろうが、現実、鯨は食べものではなく自然界の畏怖するものの象徴になりつつある。

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