蓼科のような、自然の中を散歩すると(昔を知ってい
ると全然物足りないのだが)、いろんな感覚が刺激さ
れることを感じることがある。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、など。
こういうのが、世に言うところの散歩の効能だろうか。
知らず知らずの内に、脳が活性化すると。
たとえば、目を閉じ聴覚のみに集中したとする。
普段は意識しない、いろんな音が聞こえる。
自然の中は、実に音に溢れている。
しかもそれらの音は、決して騒音という耳障りなもの
ではない。
風が梢を揺らす音、遠くに川のせせらぎ、小鳥の鳴き
声、絶えず何かが聞こえている。
正に環境音楽の世界だ。
徐々に脳がほぐれてきた時、思索に耽る。
夢想が夢想を呼ぶ。
想像力は無限。
そん瞬間が突然訪れる。
想像が跳躍し、制御不能。
時には、脳が溶け出し、存在そのものが無化され、自
然の中に消えていく感覚。
自然と一体化。
って、訳の分からないことを書いているが、実際は夢
想というより妄想かもしれない。
妄想が妄想を呼び、肥大化すると、単なる誇大妄想。
それが想像なら、誇大想像とはならない。
想像の飛翔とか、なんとなく肯定的な表現となる。
その差はどこにあるのか。
何らかの欲が入ると妄想、そうでなければ想像、その
中間が夢想。
違うな、想像には全てが含まれる。
全体が想像で、その中に夢想、妄想が含まれる。
ということは、想像が肯定的に捉えられる時は、予め
妄想が除外されているということか。
つまり、「予め除外された想像」は美しいということ
なのだ。
と、どうでも良いことを考えながら散歩するというの
も、散歩の楽しみ。
なわけないか。
むしろ、何も考えずに、いろいろ観察するのが面白い。
或いは、自然の中では「ルソー」。
街の中では「永井荷風」。
なったつもりの散歩、これかな、極意は。
ると全然物足りないのだが)、いろんな感覚が刺激さ
れることを感じることがある。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、など。
こういうのが、世に言うところの散歩の効能だろうか。
知らず知らずの内に、脳が活性化すると。
たとえば、目を閉じ聴覚のみに集中したとする。
普段は意識しない、いろんな音が聞こえる。
自然の中は、実に音に溢れている。
しかもそれらの音は、決して騒音という耳障りなもの
ではない。
風が梢を揺らす音、遠くに川のせせらぎ、小鳥の鳴き
声、絶えず何かが聞こえている。
正に環境音楽の世界だ。
徐々に脳がほぐれてきた時、思索に耽る。
夢想が夢想を呼ぶ。
想像力は無限。
そん瞬間が突然訪れる。
想像が跳躍し、制御不能。
時には、脳が溶け出し、存在そのものが無化され、自
然の中に消えていく感覚。
自然と一体化。
って、訳の分からないことを書いているが、実際は夢
想というより妄想かもしれない。
妄想が妄想を呼び、肥大化すると、単なる誇大妄想。
それが想像なら、誇大想像とはならない。
想像の飛翔とか、なんとなく肯定的な表現となる。
その差はどこにあるのか。
何らかの欲が入ると妄想、そうでなければ想像、その
中間が夢想。
違うな、想像には全てが含まれる。
全体が想像で、その中に夢想、妄想が含まれる。
ということは、想像が肯定的に捉えられる時は、予め
妄想が除外されているということか。
つまり、「予め除外された想像」は美しいということ
なのだ。
と、どうでも良いことを考えながら散歩するというの
も、散歩の楽しみ。
なわけないか。
むしろ、何も考えずに、いろいろ観察するのが面白い。
或いは、自然の中では「ルソー」。
街の中では「永井荷風」。
なったつもりの散歩、これかな、極意は。