■ 百聞は一見にしかず ■
阿修羅掲示板は面白いところで、
「放射能は危ない、怖い」と大騒ぎする一方で、
雑多な情報を、その価値も分からず皆さんアップしてくるので、
私の様な「低線量率放射線は安全派」に有益な情報を提供してくれます。
本日は、阿修羅で紹介されていたブログを紹介します。
福島第一原発の現場写真が満載のブログです。
東電発表の写真と、その他の写真で構成されているので、
多分、関係者のブログだとは思うのですが、
私達が知りたかった情報が満載です。
まだ私もじっくりと見ていませんが、
世間で「危険だ、安全だ」と大騒ぎする一方で、
現場の方々の苦労によって、
福島第一原発の復旧作業は着実に進んでいる様です。
http://www.anaroguma.org/komake/fukushima/photo_Dec3/index.html
燃料が格納容器内にあるのか、無いのかが話題になっています。
1) 事故後の早い時期から圧力容器、格納容器に注水した水は大量に漏れている
2) 事故後の早い時期から漏れているのだから、燃料が格納容器を突き抜けたのでは無く
格納容器の亀裂や、底部分の配管の断裂などを疑うべきである
3) 事故後再臨界が起こらなければ、燃料の温度は対数的に低下するので、
仮に格納容器の底のコンクリート上に燃料が溶け落ちていても
それが、厚さ3mのコンクリートを突き抜けるとは考え難い
4) 東電発表では格納容器の底部のコンクリートを1m程と溶かして
燃料は止まっているとされている
真偽の確認は不可能ですが、一応常識的には燃料は格納容器内に留まっていそうです
5) もし格納容器を突き抜けても、格納容器の下はさらに厚いコンクリート台座がある
6) そもそも格納容器に注水した水は、ダダ漏れなのだから、
温度が冷えた原子炉燃料が格納容器内にあろうが、
格納容器を支えるコンクリート台座の上にあろうが、大差は無い。
7) ヨウ素131などの数値から見ると、事故直後以降は再臨かの疑いは無い
■ 写真は真実を伝える ■
私は「低線量率の放射線は安全」という立場ですが、
仮に「低線量率の放射線」がICRPの主張する通りの危険性を有していても、
(実際にはICRPは危険性を主張しているのでは無く、最大の安全性を採用している)
現在の福島の放射線レベルが及ぼす健康被害は非常に軽微です。
私も被害がゼロであるとは言い切りません。
ただ、放射線以外の死亡原因と比べて、非常に低い死亡率になる事は確かです。
「微量の放射線も危険」とか「微量の放射線の方がむしろ危険」と主張する人達は、
福島の、遠距離カメラの映像を監視して一喜一憂しています。
一方、今回紹介したブログの様に、情報は公開されていない訳では無く、
マスコミ各社が「安全」を証明する様な情報を積極的に報道していないだけです。
彼らに言わせれば、「安全である事が当たり前で、そんな情報にニュース性は無い」とか、
「危険を国民に伝えるのがマスコミの使命だ」とでも言うのでしょうが、
詳細な写真を見るだけで、建築に詳しい方々は被害の状況は復旧の状況を把握できます。
「大本営発表」だとか「拙い情報は隠されている」との主張もあるでしょうが、
(その通りだとも言えますが)
少なくとも、写真自体はある程度の真実を伝えます。
■ そろそろ賞味期限の過ぎた「放射脳」 ■
ちょっと意地悪な言い方をすれば、「放射脳」の賞味期限は過ぎています。
国民は興味は移ろい易く、「危険だ、危険だ」と言い続けても
目に見えた危険が現れなければ、その内に「危機」に慣れてきます。
「誰も死なないじゃないか」とい事に気付くのです。
確かに放射線の被害が顕在化するのは5年後、10年後、20年後です。
しかし、大衆はそんなに長い時間、興味を維持する事は出来ません。
だんだんと、福島原発事故と放射線の恐怖は、「実感」から「概念」に変化して行きます。
「概念」として定着するので、「放射線は怖い」「原発は不要」という世論は
覆ることはありません。
これは「神話化」のようで現象で、「原子力安全神話」が「原子力危険神話」に変わるのです。
一方で、「神話化」した危機に人々はあまり縛られることはありません。
だんだんと、普通の生活が戻って来ます。
東京近郊で「放射線は怖い」といい続けるのは一部の人達だけになります。
一方で、福島の人達は、「現実の放射線」との戦いが半永久的に続きます。
彼らにとって「放射線」はいつまでたっても「神話化」しません。
「放射線」は庭先にも、学校の校庭にも、自分の体の中にもあるからです。
ですから、彼らはこれからも不安と恐怖を感じながら生きて行くでしょう。
■ 科学は現代の「神話」を生み出している ■
科学は「客観」の上に成立しています。
しかし科学の発展の歴史を眺めていると、
「科学が現代の神話を生み出し続けている」事に気付くはずです。
端的な例が「UFO」や「宇宙人」です。
さらには、量子力学の発展は、科学的現象を「確率的事象」に引きずり下ろします。
「この世に確かなものなど何も無い」と科学は宣言している様にも見えます。
量子力学が開いた地平は、仏教の「無常」の感覚と共感し、
「オーム真理教」の様な「科学的な狂信集団」をも生み出します。
60年代、70年代のニューウェーブのSFはそこを掘り下げており、
ロジャー・ゼラズニーなどの様に、東洋の神話をSFに持ち込んだり、
フィリップ・K・ディックの様に、精神世界と現実の境界を曖昧化した作品を生み出しています。
福島原発事故は「原子力の危険神話」を生み出し、
さらには「放射線危険神話」を補強しました。
本来、科学を否定するのは科学によるべきなのですが、
「神話化」した科学は容易に科学では否定出来ません。
より強力な「神」が出現するまで、現代の「神話」は生き続けるのでしょう。
近代科学が宗教や神を否定した背景には、
近代科学が、従来の神よりも強い力を持っていたからに他なりません。
しばらくの間「放射線は怖い」という神が、最強の地位を譲る気配はありません。
<追記>
何故私が「新型インフルエンザワクチン」や「子宮頸がんワクチン」を否定し、
「低線量率の放射線の安全性」を肯定するかと言えば、
これは、ほとんど「勘」という以外に理由はありません。
「世界的なキャンペーンが善意で行われるはずが無い」という疑いとも言えます。
世界的ななキャンペーンには、いつも「不自然さ」がつきまとうのです。
これは私の妄想の域を出ませんが、「勘」は以外に侮れないものです。