『アーチィスト』のミシェル・アザナビシウス監督によるチェチェン紛争を描く戦場映画。どうしても撮りたかったという切実な想いが溢れている。だが、作品としては少し甘過ぎて、感動には至らない。これがリアルなドラマというよりも、よく出来たお話として作られているからだ。
ロシア兵により、両親と姉を殺された(と思う。だが、姉は死んでない。ラストで感動の再会を果たす。そういうよく出来た筋書きがこの作品の甘さに思える。)少年はまだ赤ん坊の弟を抱えて家から逃げ出す。しかし、さすがに赤ん坊の面倒は見れないから、ロシア人っではない家庭に預ける。単身(というのは、嘘で、たまたま通りがかったトラックにピックアップしてもらうのだが)町へとやってきて、保護される。
両親の射殺によるショックから声を失った彼が、周囲の人々の親切に支えられ、やがて回復するまでが描かれる。この映画がフレッド・ジンネマンの『山河遥かなり』(1947年)という古い映画のリメイクだということを、今しがた知った。この作品がなんだか古臭いのはこういう昔の映画のストーリーラインを使用しているからか、と納得。この映画の甘さの原因もそこにあるのだろう。
でもミシェル・アザナビシウス監督は、敢えてそういうストーリーをここで使用した。『アーチィスト』を作った人だから、古典を古いものとして退けない。それどころか、積極的に援用する。この映画が描く戦争の悲惨は普遍的な問題で、それを解決するのは人の善意しかない。根本的な解決を政治に委ねるわけにはいかない。そんなことしても、何の解決もなされないことは歴史が証明している。だからこそ、善意なんていう曖昧なものに頼るのだ。「誰か」が手を差し伸べるのではなく、「あなた」が差し伸べるべきなのだ。そんな優しさの結晶が平和への道、とでも言わんばかり。それでいい。
だが、映画はそんなメインとなる甘いお話と並行して、ロシア人の青年が軍隊に入れられ、そこで徐々に殺人マシーンへと変貌していくさまが描かれていく。こちらはドキュメンタリータッチだ。フィクションとノンフィクション、監督はこの二つの要素を対比させることで、映画に膨らみを持たせるだけではなく、そこにこそ本来の意図を奏でる。映画のラストシーンは、彼が主人公の少年の両親殺害現場を撮影するファーストシーンにつながる。悲惨な現実を乗り越える心温まるお話と、その悲惨な現実を生み出すリアルなお話。このふたつの要素がこの映画に混在することで、そこに作者のねらいが浮き彫りになる。
ロシア兵により、両親と姉を殺された(と思う。だが、姉は死んでない。ラストで感動の再会を果たす。そういうよく出来た筋書きがこの作品の甘さに思える。)少年はまだ赤ん坊の弟を抱えて家から逃げ出す。しかし、さすがに赤ん坊の面倒は見れないから、ロシア人っではない家庭に預ける。単身(というのは、嘘で、たまたま通りがかったトラックにピックアップしてもらうのだが)町へとやってきて、保護される。
両親の射殺によるショックから声を失った彼が、周囲の人々の親切に支えられ、やがて回復するまでが描かれる。この映画がフレッド・ジンネマンの『山河遥かなり』(1947年)という古い映画のリメイクだということを、今しがた知った。この作品がなんだか古臭いのはこういう昔の映画のストーリーラインを使用しているからか、と納得。この映画の甘さの原因もそこにあるのだろう。
でもミシェル・アザナビシウス監督は、敢えてそういうストーリーをここで使用した。『アーチィスト』を作った人だから、古典を古いものとして退けない。それどころか、積極的に援用する。この映画が描く戦争の悲惨は普遍的な問題で、それを解決するのは人の善意しかない。根本的な解決を政治に委ねるわけにはいかない。そんなことしても、何の解決もなされないことは歴史が証明している。だからこそ、善意なんていう曖昧なものに頼るのだ。「誰か」が手を差し伸べるのではなく、「あなた」が差し伸べるべきなのだ。そんな優しさの結晶が平和への道、とでも言わんばかり。それでいい。
だが、映画はそんなメインとなる甘いお話と並行して、ロシア人の青年が軍隊に入れられ、そこで徐々に殺人マシーンへと変貌していくさまが描かれていく。こちらはドキュメンタリータッチだ。フィクションとノンフィクション、監督はこの二つの要素を対比させることで、映画に膨らみを持たせるだけではなく、そこにこそ本来の意図を奏でる。映画のラストシーンは、彼が主人公の少年の両親殺害現場を撮影するファーストシーンにつながる。悲惨な現実を乗り越える心温まるお話と、その悲惨な現実を生み出すリアルなお話。このふたつの要素がこの映画に混在することで、そこに作者のねらいが浮き彫りになる。