昨年4部作として上演した『新選組』を、今回再演するだけではなく、さらに2章を追加して6部作として完結させる画期的なプロジェクト。2作品を同時上演するというアイデァも面白かったが、4作品とも主人公を変えて新選組の4人のお話として上演した。もちろんそれが同時に新選組自身のクロニクルになるというスタイルだ。昨年見た時にも書いたが、4作品にはどうしてもばらつきが出来て、完成度には差が出た。トータルな作品としても瑕瑾があったのが、残念だったが、今回の再演ではきっとそこも微調整がなされているはずだ。残念だが、今回は昨年見た1章から4章までは見ることができなかったので、そこは想像するしかない。
さて、今回の完結編である。5章は「志士たちの悪夢」と題される。それまでの近藤勇、芹沢鴨、土方歳三、沖田総司という個人名を冠したタイトルではない。それは最終章である6章も同じだ。(「志士たちの面影」)あきらかに今回は群像劇だ。個の視点から描いた昨年までの4作品とは違うという意志表示である。近江屋事件から五稜郭の戦いまでを描き、新選組の終焉を切り取る。今回は最初から狙いは「挽歌」である。昨年の立ち位置とは微妙にスタンスを変える。感動的なドラマを提示するのではなく、彼らのたどった道筋を淡々とした描写で綴ろうとした。事実の記録だ。
だから芝居は少し退屈になる。感情移入しにくい。だが、それもまた、作、演出の大塚雅史はわかった上でしている。役者たちは昨年以上にアンサンブルを要求される。誰かにスポットを当てるのではなく、誰もに、当てる。その結果散漫な印象さえ与えることになるが、そんなことは気にしない。新選組という夢を描くことがこの作品のねらいだった。4人だけではない。志士たちがここに集い、この国の未来をかけた戦いに参加する。いや、そんな大げさな話ではない。これは自分が自分らしく生きるための戦いなのだ。名もない百姓たちが武士として生きる。自分の力を信じて新選組の旗のもと、歴史の檜舞台に打って出る。生きるための闘い。
各話は同じスタイルで統一される。それは今回の終ノ章でも同じだ。5話は沖田と坂本龍馬の友情を軸にした。それを新たにメンバー入りした伊藤甲子太郎たちがオリジナルメンバーである近藤、土方と対立していくというドラマと交錯させて描いていくという図式だ。内部から崩壊していく組織と、時代の要請のなかで自分たちを見失っていく。
そして、ハイライトは最終章であろう。五稜郭の戦いをクライマックスにして感動的なドラマとして幕を閉じるのではない。鎮魂歌として、時代のなかで埋もれていく姿を描こうとする。新選組という仇花を愛おしむように描くのがいい。
華やかなダンスシーンを満載したショウは大胆な殺陣と相乗効果を発揮してBSPにしかできない作品世界を作り上げる。だが、それだけではこれだけの長編を支えきれない。今回のねらいはあくまでもドラマ部分の充実だったはずだ。そのためにこれだけの長さが必要だった。だが、個に焦点を集めることで、全体が散漫なものになった、という一面は否めない。
そこで今回の最終章は、これは群像劇である、という部分を前面に押し出す。だが、そうすると、終着点が難しくなった。歴史の中で埋もれていく彼らをどう描くのか。大きな夢を抱き生きた彼らの生きざまをある種の普遍として提示してそこに観客がそれぞれの自分の人生すら重ね合わせることが出来たなら、成功だ。それはまず、BSPという集団のドラマに重なる。この芝居を通して「若者たち」がそれぞれ自分自身と向きあうことができたならいい。この作品はその域に達したか。これを見た観客の感想が聞きたい。
芹沢鴨を演じた田渕法明が素晴らしかった。彼を主人公にしたエピソードが白眉だったことは前回確か書いたはずだが、今回作品全体の幕引きとして、6話で彼が再び登場して、松本良順を演じる。彼の演じたこの2つの役が作品全体をきちんと支える役目を果たしたのは見事だった。全体の主人公は近藤勇ではなく彼だったというところに作者の意図が反映されている。