前作『文明ノ獣』は今年一番の作品だった。それだけで十分満足なのに、年末にもう1本レトルト内閣の新作が見られる。そんな僥倖はそれが『智恵子抄』を題材にした作品と知り、ほんの少し不安になる。もちろん智恵子と光太郎を主人公にした「ただの文芸作品」だなんて思わない。だが三名刺繍さんが真正面からラブストーリーを紡ぐなんて、そんな王道をレトルト内閣がするなんて、「いやなんです」と思わず、書いてしまう。
でも、そんな心配はただの杞憂に終わる。レトルト内閣の快進撃は止まらない。それどころか、前作を経て、もうなんでも大丈夫の域に達した感じだ。ストーリー性を重視するスタイルは踏襲するが、従来の音楽劇としての側面も前面に出して、自由自在。詩集『智恵子抄』を歌詞にして、いくつもの歌がどんどん挿入されていく。いつもながらの目まぐるしい展開も素晴らしい。現在と過去。ふたつの時間を往還して、二組の男女の愛のドラマが並行して描かれていく。
ふつうの主婦が、夫から送られた『智恵子抄』に触発されてその詩に曲を付ける。そんななんでもないことから、話は始まる。奥さまの手習い事であるカルチャーセンターでの発表会。そこでの出来事。だが、それが彼女を狂わせていく。幸せな生活だったのに、少しずつおかしくなる。主婦仲間から疎んじられる。創作がうまくいかない。しばらくの間、夫の弟が同居することになる。なんでもないような出来事の積み重ねにも見える。しかし、それらがやがて彼女の心を蝕んでいく。そんな彼女の話は、同時進行で描かれる光太郎と智恵子の話と完全にリンクしていく。
智恵子が絵に目覚め、東京に行き、光太郎と出会い、恋をする。お互いがお互いを求め、尊敬し、愛し合い結ばれる。理想の恋。しかし、徐々に二人の心はすれ違う。芸術活動がふたりを繋ぎ、ふたりを離す。彼のために自分を見失う。自らの才能を諦め、彼の支えになろうとする。しかし、無理が心を狂わせ、やがて、壊れていく。誰もが知っているお話を、ただの純愛物語にはしない。愛し合うことは傷つけあうことにもなる。
彼女はなぜ諦めたか。自らの才能に限界を感じたからか。愛に猛進して自分を疎かにしたのか。本当のところは、わからない。芸術家のカップルはお互いをライバル視した時、負けたほうが惨めになる。夫唱婦随でいいと、諦めるには、あまりに悔しい。
夫婦である前にまず、ひとりひとりの人間なのだ。まずは、自分の道を生きたい。その時、お互いがサポートできたならいい。浮気という事実があったかどうかなんて、どうでもいい(そこを明確にはしない)のだが、相手を信じられなくなった、という心の弱さが自分を傷つける。
智恵子の心が壊れていく過程を描く部分は、定番なので、あまり面白くはならない。この作品のポイントはそこにはない。お涙頂戴のお話ではなく、自分の心との、内面の戦いの物語になるのが素晴らしい。福田恵は智恵子の狂気を自然のまま演じる。彼女の見せる平常心が、この作品をここまで感動的なものにした。これはなんら特別なお話ではないのだ。誰にでもある、どこにでもあるお話。でも、とても困難なお話。そのことをサポートするためにもうひとつの現代のある夫婦の話がある。佐々木ヤス子演じる主婦の話が同じ比重で描かれることで智恵子の問題がより明確になった。史上最高のラブストーリーの誕生である。