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映画・演劇のレビュー

くじら企画『密会』に寄せて

2010-10-21 20:41:35 | 演劇
 
 以下は10月30日のくじら企画『密会』上演後のアフタートークに配布してもらう文章。当日は古賀さんと馬場さん、田口さんというスペースゼロ演劇賞の選考委員をしていたメンバーがそろって、ゼロの頃の大竹野の話をする。とても楽しみだ。

 それはともかくとして、どうしても古賀さんに依頼された文章が書けなかった。大竹野について、書けなかったのだ。いつもとまるで違う文章で恥ずかしいのだが、無理してなんとか書いてみた。


 『大竹野のこと。』  (広瀬泰弘)

 大竹野について何か書くのは苦手だ。というか、苦手とか得意とか、そういう問題ではない。昨年夏、大竹野が亡くなって、そのショックから立ち直れない。もちろんそれは僕だけではないし、僕なんかよりもっと衝撃を受けた人はたくさんいる、はずだ。そんなことはわかっている。僕はどちらかというと、ただの傍観者だ。その渦中にいて現実をしっかりと受け止める勇気はなかった。

 だから今もその事実をリアルに受け止めることはできない。30年以上、途切れることなくいつも一緒にいて、つまらない話をしたり、遊んだりしてきた。彼は、演劇人である前に、まずは、ただの「友だち」である。

 彼が芝居をやり始めてからは、一番最初の観客のひとりとして、一番最後の芝居まで、1本も欠かすことなく見てきた。芝居の後には、直接思ったことをあれこれ喋った。好き勝手言った。自分が感じたことを感じたままに話す。それを真摯に受け止めてくれる。

 高校の頃は自分が1年先輩だったから、たったそれだけのことで先輩風吹かせて、30年以上先輩ずらしてきた。演劇人である「大竹野正典」である前に、ただの友人である大竹野であることが終始優先する。そんなふうにして付き合い続けるはずだった。

 僕たちは同じ高校で3年間を過ごし、(3年目はOBとして毎週のように高校に行っていた)8ミリ映画を作ったり、バカなことをして過ごした。そんな思い出話の数々をここに書いても仕方がないが、「関西の小劇場演劇の世界で活躍した大竹野正典」という誰もが知っている存在である彼よりも、誰もが自分の人生の中で、それぞれが持っている「ただの友だち」としての彼の事ばかりしか、思いだせない。だから、この文も書くのは嫌だった。古賀さんから「当日は話足りないでしょうから、文を書いて配りましょう」と言われて、何度も書こうと思ったけれども、まるで書けなかった。締め切りがきたのに、1行も書いてなかった。このブログでも、一切触れてない。それはあくまでも個人的な話だからだ。ここでは個人的な話は一切書かない。それが僕の方針だ。

 スペースゼロで古賀さんが大竹野のことを高く評価して下さったときは、とてもうれしかった。あの大竹野を自分たち以外の、しかもちゃんとした大人が評価して下さる日がくるなんて、夢のようだった。その後、ひょんなことから自分もスペースゼロ演劇賞の審査委員になり、客観的に大竹野の芝居を推すことが出来るようになった。第3者として彼の芝居を評価できることが、うれしかった。1990年代は、毎週末にゼロで芝居を見ることが、生活の一番大きなイベントだったかもしれない。

 だが、本当を言うと、大竹野の芝居を見るときだけは他の芝居を見るときと同じスタンスではいられない。保護者の気分になる。だから、そうならないように出来るだけ距離を置いて見るようにしてきた。客観的にならなくては、贔屓の引き倒しになってしまう。

 今回上演される『密会』は安部公房の同名小説がモデルになっている。高校時代、思いっきり安部公房に嵌まった。教室で国語の授業で『赤い繭』を読んでからのことだ。『壁』からその当時の最新作だった『密会』まで余すところなく読んだ。あの頃、大竹野も影響を受けたのだろうか。よくは憶えてないけど。

 子どものころから、ずっと同じように付き合い続ける友だちは、数えるほどしかいない。個人的な話だが、昨年島田くんが死んで、その直後に大竹野が死んで、数少ない昔からの友人が少なくなった。まだ50歳なのに。ここまで書いてきて、やはり書くべきことではなかった、と思う。ただの思い出話でしかない。しかも、何一つ語るべきことは語れていない。

 

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