石井聰亙と永瀬正敏が27年前に作っていた作品が、ようやく完成した。これはドイツで準備してクランクイン前日に撮影がいきなり中止になった作品だ。まさかの出来事である。
それから27年。その間石井は名前を岳龍と変えている。紆余曲折があり、仕切り直してようやく今回の完成に漕ぎ着けた。安部公房の原作を現代に置き換えるのではなく、当時のまま作る。だけどそれは原作に忠実にするということではない。原作を大事にしながら,当然自分たちの映画にする。そんな映画を夢想した。
50年前はいつのまにか,今になっている。1973年、箱男が町に現れて徘徊する。誰もが箱男の存在を無視した。そこにいるのにいないものとして振る舞う。箱男を殺そうとする男に狙われて逃げる。偽医者と看護師に拉致される。軍医が登場する。話は唐突に展開して、混迷する。
ダンボールを被った箱男はやがて、ダンボールで家を作り生活するホームレスにつながっていくのだろう。それは公園から追い出される『赤い繭』の男と重なっていく。高校生だった頃、僕は安部公房に心酔して『赤い繭』をシナリオ化した。もちろん映画化するつもりだった。(8ミリ映画だけど)あれからだって50年近くの歳月が経つ)
石井岳龍はなぜ『箱男』にこだわったのだろうか。27年。僕は彼が70年代に作った8ミリ映画はリアルタイムで見ている。あの頃、僕だって映画が作れると思った。実際8ミリで何本も作った。石井聰亙に勝てると思った。(もちろん、思った、だけ)ここには石井のあの頃のこだわりが今に続いているのだろう。70年代の高校生に強烈なインパクトを与えた安部公房は今でも刺激的だ。石井のこだわりを見極める。石井は『狂い咲きサンダーロード』を作ってプロの映画監督になつて一時代を築いた。だが2000年代になって振るわない。これはきっと起死回生の一作になる、と思った。
これはまるで素人の自主映画みたいな独りよがりな作品である。見ながら今更こんな映画を作ってどうするつもりなのか、と思った。70年代のATG映画なら一部のマニアから支持されたかもしれないけど、今は無理。決して悪い映画だとは思わないけど、これが力を持つとは思わない。時代錯誤の実験映画でしかない。これが初心に戻って自分本位の映画を目指した結果なのか。
ダンボールから覗き見する世界。ダンボール内で自閉すること。誰もが箱男を夢想するけど、箱男には意味はない。この世界が巨大な箱世界で、そこから抜け出したら、箱男だらけの世界になる。だけどこれは幻想的な映画ではない。野心的な作品ではなく、あらゆる面で中途半端な作品でしかない。シネマスコープが箱の覗き穴(窓)と重なるラストは悪くないけど。残念だった。