劇団大阪がこの作品を取り上げたのは42年前に遡る。もちろんその時も熊本さんの演出だ。1981年の初演から始めて今回で6度目になるらしい。当時40歳だった熊本さんも82歳。作者の近石さんはすでに90を超えている。彼女が不惑を迎えた頃に書かれた戯曲を、同じく不惑だった熊本さんが演出した作品をまだ20歳を過ぎたばかりだった僕は残念ながら、見ていない。でも、劇団大阪がシニア演劇を始めて4年目に作られた5度目の再演に続いて今回、たぶんこれが最後の再演となるだろうこの作品を目撃できたことをとてもうれしく思う。
正直言うと、シニア劇団としての6年前の初演時には、まだいろんな面でムリがあり、芝居として立ち上げるだけで精一杯という印象だったが、今回の作品は見事リベンジを果たしている。演出の覚悟がスタッフ、キャストに浸透して、作り手の強い意志を感じさせる作品に仕上がった。老人の老後の手慰みではなく、第二の人生に芝居を選び、そこに自分たちの今持てるすべての力を注ぎ込んだ。これは確かな指導者のもと、シニアが一丸となって挑む大作である。
ただ、彼らはもう70代、やがては80代になる。この先芝居を続けることは困難になる。セリフだってなかなか入ってこないはず。悲しかなプロンプの助けを借りなくては成り立たない。でも大事なことはそこではない。役の人生を引き受け、自分の実人生をそこに重ね合わせ演じるなんていうある種のズルさが、作品の力になる。シニア劇団だからこそ可能なアプローチだ。役と同じ実年齢の役者たちが、自信を持って演じる。そこに今回キャストとして3人の若手が入ったのも心強い。2人は老人たちを介護するホームのスタッフを演じ、1人はメインキャストである源造の孫を演じた。すべてをシニアが演じるのではなく、若い力の助けを借りて作品を完全なものにする。そして若い彼らはシニアからいろんなことを学ぶ。そういう関係性すら美しい。
これは何も起こらない話である。老人ホームの日常のスケッチを2時間40分もの長さの作品にした。そこから生きる意味を問いかける。Wキャストだが、メインは2班とも兼ねてある。ただし主人公の鈴木ふみ役は2人が演じた。僕が見た立葵班は葛野好子が好演している。(あじさい班の安田久子版も見たかった!)舞台美術も素晴らしい。シンプルだが一切手を抜かず丁寧に作り上げてあり、小劇場ながらキャパ400席程の空間に立つキャストをフォローする。そんなしっかりした美術に守られて役者たちは生き生きと広い舞台で伸び伸びと演じることが出来たのは大きい。役者が動きやすい舞台美術は大事だ。しかも手練れの役者が重要なポジションを担い初心者レベルの役者も安心して芝居が出来ているのもいい。これもまたアンサンブルの見本だろう。ここでは、芝居の上手い下手なんか意味をなさない。どんな人もこのホームに入って来たら平等であるのと同様に、どんな役者もこの芝居においては平等だからだ。
自分の実人生を全うすること。老後を悔いのないように過ごすこと。余生ではなく、本当の人生を生きる覚悟。それが芝居の基調低音となり、このなんでもないスケッチを綴る芝居は幕を閉じていく。春から夏までの短い時間を背景にして、人生100年をそこに重ねる。ホームでの夏祭りのシーンから、ヒロインふみによる独白につなぎ芝居は終わる。見事なフィナーレだ。