途中休憩なしの3時間15分。とんでもない大作である。そして前2作と同じように基本的にはモノローグ劇で、主人公の打上花火が全編出ずっぱりになるのは、彼女の内面の物語として作られてあるからだ。極端な言い方をすれば曼珠沙華も含めて全員がコロスのようになっているのだ。
「マクベス」を劇中劇も含めてベースとして使ったり、ゴトーが出てきたりと様々なテキストの引用、濫用もあるが、それらはひとりの女性の魂の軌跡としての、この壮大な物語の枠内に組み込まれていく。基本的には3本の作品は同じスタイルである。そんな3本がトータルなものとして僕らの胸に迫ってくる。これは7時間に及ぶ大長編でもあるのだ。
今回の大阪のおばはんの話は、『明月記』と違い猥雑で様々なイメージが錯綜する作りになっている。あらゆるものをごった煮にして描く。韓国語と日本語、さらには英語までが入り乱れて科白のかなりの部分はわからないまま進展する。ストーリーを追うことに何の意味もない。ただ熱い塊としてこれを受け止めればいい。
圧倒的な練習量なくしては成立しえない芝居である。そして、お話に逃げることをしない作りになっている。だから、これが生半可な練習量ではないということは痛いほど伝わってくる。それなくしてこの芝居は無意味なものになるのだ。この芝居のライフラインはそこに尽きる。この芝居が感動的なのは役者たちの存在感と計算尽くされた劇作りにある。
『レットイットビー』と『ヘイジュード』というあまりに有名なナンバーに象徴させて、普遍的な心情を歌にして聞かせる。打上花火の独唱は我々へのメッセージであると同時に彼女自身に向けての応援歌にもなりうる。それが合唱ではなく独唱であるところも大切だ。力強い歌声が、この広い舞台の上でのちっぽけな彼女の姿とともに描かれる。ラストで例によって大雨の中、傘をさし、静かに上手にはけていくその姿も印象的だ。たったひとりでこの世界を敵にまわして生きていく心細さが作品の根底にはあり、それは前2作とは根本的に違うものに見える。しかし、根底にあるものはおなじだ。女、男、そして人間そのもの、その3つの側面から同じことを見せた7時間に渉る膨大な魂の物語が幕を閉じる。
この芝居は、彼女をこの広い世界の中に、ひとりぼっちにして翻弄することにより、より深い孤独に突き落とそうとする。ただ彼女を追い詰めていくことのみが目的であり、観念的なストーリーもそのための仕掛けである。そこから彼女が自分という砦を守るために立ち尽くす姿が描かれる。テントという異空間を舞台にして演劇という手法で物語ではなく人という生き物を見つめる。芝居が本来持つ熱のようなものを久々に感じさせるそんな舞台だった。
「マクベス」を劇中劇も含めてベースとして使ったり、ゴトーが出てきたりと様々なテキストの引用、濫用もあるが、それらはひとりの女性の魂の軌跡としての、この壮大な物語の枠内に組み込まれていく。基本的には3本の作品は同じスタイルである。そんな3本がトータルなものとして僕らの胸に迫ってくる。これは7時間に及ぶ大長編でもあるのだ。
今回の大阪のおばはんの話は、『明月記』と違い猥雑で様々なイメージが錯綜する作りになっている。あらゆるものをごった煮にして描く。韓国語と日本語、さらには英語までが入り乱れて科白のかなりの部分はわからないまま進展する。ストーリーを追うことに何の意味もない。ただ熱い塊としてこれを受け止めればいい。
圧倒的な練習量なくしては成立しえない芝居である。そして、お話に逃げることをしない作りになっている。だから、これが生半可な練習量ではないということは痛いほど伝わってくる。それなくしてこの芝居は無意味なものになるのだ。この芝居のライフラインはそこに尽きる。この芝居が感動的なのは役者たちの存在感と計算尽くされた劇作りにある。
『レットイットビー』と『ヘイジュード』というあまりに有名なナンバーに象徴させて、普遍的な心情を歌にして聞かせる。打上花火の独唱は我々へのメッセージであると同時に彼女自身に向けての応援歌にもなりうる。それが合唱ではなく独唱であるところも大切だ。力強い歌声が、この広い舞台の上でのちっぽけな彼女の姿とともに描かれる。ラストで例によって大雨の中、傘をさし、静かに上手にはけていくその姿も印象的だ。たったひとりでこの世界を敵にまわして生きていく心細さが作品の根底にはあり、それは前2作とは根本的に違うものに見える。しかし、根底にあるものはおなじだ。女、男、そして人間そのもの、その3つの側面から同じことを見せた7時間に渉る膨大な魂の物語が幕を閉じる。
この芝居は、彼女をこの広い世界の中に、ひとりぼっちにして翻弄することにより、より深い孤独に突き落とそうとする。ただ彼女を追い詰めていくことのみが目的であり、観念的なストーリーもそのための仕掛けである。そこから彼女が自分という砦を守るために立ち尽くす姿が描かれる。テントという異空間を舞台にして演劇という手法で物語ではなく人という生き物を見つめる。芝居が本来持つ熱のようなものを久々に感じさせるそんな舞台だった。