この映画について、まず何から書けばいいのだろうか。あまりに多すぎて反対に言葉に詰まってしまう。思ったほどいい映画ではなかった。だが、そう書くと、それってどれだけ期待したのか、とも思ってしまう。堤幸彦監督の当たり外れの大きさは今までの作品で既に証明済みだろう。だが、今回はなんとなく『明日の記憶』を思わせる、そんな予感がしたのだ。だから、期待は高まるばかり。だが、今見てきた映画からは、確信犯的な中途半端さを感じた。だから、微妙なのだ。これは凄い、と素直には言い切れない。そのことを中心に書いていこう。
原作を読んだ時も、その緩さにちょっと躓いてしまった記憶がある。長編小説としては、中途半端で、とても優しい小説だが説得力に欠けると思った。小説としてもそうなのにそれを映画化したりしたなら、ますますその欠陥が増幅されるのではないか、と危惧した。ファンタジーにはしきれない内容である。主人公達の痛みをどこまで描ききれるか、は大きな問題だし、優しさだけでは解決できない部分をいかに描くのか。困難を極める。
まず、包帯をいろんなところに巻きつけるという行為は、ドラマの核にはならない。包帯を巻かれた様々な風景が映像として提示されるが、その風景にどれだけの感動があるのか、これでは分からない。彼らの撮る写真に説得力を期待するのではないが、それらの写真がこの映画のドラマを動かしていかないことには話にならない。あまりに簡単に人々が乗せられていき、ちょっと都合が良過ぎないか、なんて思った。さらには、だいたいあれだけの包帯を巻き続けていたなら、周囲の人に通報され補導されてもおかしくないはず。かなり、大掛かりなことまでしてるのに、何もなく上手くいくなんて、そんなはずはあるまい。だいたいこんな地方都市で、これだけ目立つ行為をするのである。そこは映画だから、は許されない。
だが、話のほうに、1歩踏み込んでいくと、彼らがそれぞれ抱える心の痛みが、とてもさらりと描かれ、それが反対にひとりひとりのヒリヒリする痛みとして心に残る。さりげなさが映画に深みを与えている。しかし、見ていてあまりに、そっけなく、作者は無関心ではないけれど、敢えて流して見せようとしているように見える。ドラマとしては、大きなうねりもなく、ただ淡々と一つ一つのエピソードも流すように見せるばかりだ。そこに作者の基本姿勢を感じる。
こんなふうになんだか釈然としないのである。いろんな意味でこの映画はスタート時点で欠陥を抱えている。しかし、この欠陥だらけの物語だからこそ描けれるものもあると思うのだ。だいたい物語にも、人間にも、完璧なんてないし、完璧なものなんて、気持ちが悪い。
最初から完璧を放棄して、逃げ道ばかりを作るのはどうだか、と思うが、不完全は承知の上で、そこにある可能性を最大限に引き出していく映画の作り方があってもいいと思うのだ。
主人公のワラ(石原さとみ)は、《包帯クラブ》の活動を通して、こんなにどうでもいいようなことなのに、してるうちになんだか自分の中で力が漲っていくのを感じる。
ワラの親友で、いつもいつも同じような失恋を繰り返すタンシオ(貫地谷しほり)は端から見れば全く学習しないバカに見えるだろうが、本人はいつも精一杯生きている。そんな彼女を否定することなんて誰も出来ない。
この世の中は理不尽なことだらけである。どうして、父は母と自分たちを棄てて若い女のもとに行ったのか。よく分からない。エリートコースを進むテンポ(関めぐみ)が、高校を出たら就職するというワラを非難する。大学に行かないことはそれだけで社会の脱落者になる、と。ならば、高校さえ行けなかった佐藤千亜紀(役名忘れた)は問題外なのか。かって仲良しだった四人が壊れていったこと。もう1度絆を取り戻したいと願ったこと。そんなささやかなことがこの映画の根底にはある。そして、それはささやかなことではなく、本質的なことなのだ。
この4人と彼女たちの仲間になった2人の男の子たち。ギモ(田中圭)のエピソードも痛い。小学校の時、担任の男性教師にいたずらされ続けたことを誰にも言えず今まで生きてきたこと。さらには、自分のホモセクシャルな性癖を酔った勢いで喋ってしまうこと。あまりの衝撃に言葉も出ない。しかも、そのシーンの後、一切そのことには映画は触れることはない。
主人公たち6人だけではない。このサイトにアクセスしてきて、包帯を巻いて欲しいと願う全ての人たちの人生まで、引き受ける。たかが包帯ひとつで人生が変えられるか、という問いかけに対して、彼らは胸を張ってイエスと言う。その潔さが素晴らしい。
逆上がりが出来ない小学生には、人生がないのか。郊外の廃屋に連れ込まれて暴行された女性の心と体の傷は癒されないのか。
みんながみんなそれぞれの痛みを抱えて生きている。
テンポの自殺を食い止めた後、映画はもう一人の主人公であるディノ(柳楽優弥)のドラマへと突入する。ここでも中3の頃の事件は曖昧なまま語られ、その後1年間彼の中でも封印されたままだったことが知らされる。ワラは知ったかぶりして、彼を励ましたりはしない。そんなこと、できるわけはない。刺傷事件に於ける3人の関係性。そこにはいじめではないが、お互いに対する思いやりのなさ、無意識の中で、傷つけあっていたものが、事件にまで進行していくことの怖さが描かれる。このどうしようもない痛みがこの映画のテーマである。刺されたのは自分だったのかもしれないし、もしかしたら刺したのも自分かもしれない。いつも仲良くじゃれあっていたのに、どこかでお互いに、イライラする気持ちを内に秘めていた。自分たちは本当の意味での友だちではなかったのかもしれない。
3人はいつも一緒だった。その日も3人で遊ぶはずだった。でも、その日自分は一緒に遊べなかった。ゲームに夢中になっていたひとりを、もう一人の少年が刺した。殺意はいったいどこからやってきたのか。彼は病んでいた。そのことに誰も気付かなかった。でも、病んでいたのは彼だけなのか。そうではあるまい。
このエピソードにも明確な答えはない。作者は、これ以上彼らの内面に踏み込まない。ただ、1年ぶりに刺されて半身不随になったままの少年をディノが訪ねていくシーンで映画は終わる。主題歌の『強くなれ』という歌が心に沁みる。このストレートなメッセージが、この映画の作者からのたったひとつのメッセージだ。
クレジットが終わった後に、もうひとつのエピソードが用意されてある。大人になり、戦場カメラマンとなったディノが、難民の母子にカメラを向ける。ある意味、とってつけたようなラストだ。これもあまり上手いとは言えまい。しかし、これはひとつの答えだと思うのだ。包帯クラブで、写真というものの可能性に目覚めた彼が写真で世界と向き合い、世界を変えたいと思う。これはこれで潔い。
だらだらなんだかまとまりないことを書いてきた。かなり疲れた。うまくいえないが気になる。そんな気持ちをそのまま書いてみた。これでもまだ、かなり言葉が足りない。
原作を読んだ時も、その緩さにちょっと躓いてしまった記憶がある。長編小説としては、中途半端で、とても優しい小説だが説得力に欠けると思った。小説としてもそうなのにそれを映画化したりしたなら、ますますその欠陥が増幅されるのではないか、と危惧した。ファンタジーにはしきれない内容である。主人公達の痛みをどこまで描ききれるか、は大きな問題だし、優しさだけでは解決できない部分をいかに描くのか。困難を極める。
まず、包帯をいろんなところに巻きつけるという行為は、ドラマの核にはならない。包帯を巻かれた様々な風景が映像として提示されるが、その風景にどれだけの感動があるのか、これでは分からない。彼らの撮る写真に説得力を期待するのではないが、それらの写真がこの映画のドラマを動かしていかないことには話にならない。あまりに簡単に人々が乗せられていき、ちょっと都合が良過ぎないか、なんて思った。さらには、だいたいあれだけの包帯を巻き続けていたなら、周囲の人に通報され補導されてもおかしくないはず。かなり、大掛かりなことまでしてるのに、何もなく上手くいくなんて、そんなはずはあるまい。だいたいこんな地方都市で、これだけ目立つ行為をするのである。そこは映画だから、は許されない。
だが、話のほうに、1歩踏み込んでいくと、彼らがそれぞれ抱える心の痛みが、とてもさらりと描かれ、それが反対にひとりひとりのヒリヒリする痛みとして心に残る。さりげなさが映画に深みを与えている。しかし、見ていてあまりに、そっけなく、作者は無関心ではないけれど、敢えて流して見せようとしているように見える。ドラマとしては、大きなうねりもなく、ただ淡々と一つ一つのエピソードも流すように見せるばかりだ。そこに作者の基本姿勢を感じる。
こんなふうになんだか釈然としないのである。いろんな意味でこの映画はスタート時点で欠陥を抱えている。しかし、この欠陥だらけの物語だからこそ描けれるものもあると思うのだ。だいたい物語にも、人間にも、完璧なんてないし、完璧なものなんて、気持ちが悪い。
最初から完璧を放棄して、逃げ道ばかりを作るのはどうだか、と思うが、不完全は承知の上で、そこにある可能性を最大限に引き出していく映画の作り方があってもいいと思うのだ。
主人公のワラ(石原さとみ)は、《包帯クラブ》の活動を通して、こんなにどうでもいいようなことなのに、してるうちになんだか自分の中で力が漲っていくのを感じる。
ワラの親友で、いつもいつも同じような失恋を繰り返すタンシオ(貫地谷しほり)は端から見れば全く学習しないバカに見えるだろうが、本人はいつも精一杯生きている。そんな彼女を否定することなんて誰も出来ない。
この世の中は理不尽なことだらけである。どうして、父は母と自分たちを棄てて若い女のもとに行ったのか。よく分からない。エリートコースを進むテンポ(関めぐみ)が、高校を出たら就職するというワラを非難する。大学に行かないことはそれだけで社会の脱落者になる、と。ならば、高校さえ行けなかった佐藤千亜紀(役名忘れた)は問題外なのか。かって仲良しだった四人が壊れていったこと。もう1度絆を取り戻したいと願ったこと。そんなささやかなことがこの映画の根底にはある。そして、それはささやかなことではなく、本質的なことなのだ。
この4人と彼女たちの仲間になった2人の男の子たち。ギモ(田中圭)のエピソードも痛い。小学校の時、担任の男性教師にいたずらされ続けたことを誰にも言えず今まで生きてきたこと。さらには、自分のホモセクシャルな性癖を酔った勢いで喋ってしまうこと。あまりの衝撃に言葉も出ない。しかも、そのシーンの後、一切そのことには映画は触れることはない。
主人公たち6人だけではない。このサイトにアクセスしてきて、包帯を巻いて欲しいと願う全ての人たちの人生まで、引き受ける。たかが包帯ひとつで人生が変えられるか、という問いかけに対して、彼らは胸を張ってイエスと言う。その潔さが素晴らしい。
逆上がりが出来ない小学生には、人生がないのか。郊外の廃屋に連れ込まれて暴行された女性の心と体の傷は癒されないのか。
みんながみんなそれぞれの痛みを抱えて生きている。
テンポの自殺を食い止めた後、映画はもう一人の主人公であるディノ(柳楽優弥)のドラマへと突入する。ここでも中3の頃の事件は曖昧なまま語られ、その後1年間彼の中でも封印されたままだったことが知らされる。ワラは知ったかぶりして、彼を励ましたりはしない。そんなこと、できるわけはない。刺傷事件に於ける3人の関係性。そこにはいじめではないが、お互いに対する思いやりのなさ、無意識の中で、傷つけあっていたものが、事件にまで進行していくことの怖さが描かれる。このどうしようもない痛みがこの映画のテーマである。刺されたのは自分だったのかもしれないし、もしかしたら刺したのも自分かもしれない。いつも仲良くじゃれあっていたのに、どこかでお互いに、イライラする気持ちを内に秘めていた。自分たちは本当の意味での友だちではなかったのかもしれない。
3人はいつも一緒だった。その日も3人で遊ぶはずだった。でも、その日自分は一緒に遊べなかった。ゲームに夢中になっていたひとりを、もう一人の少年が刺した。殺意はいったいどこからやってきたのか。彼は病んでいた。そのことに誰も気付かなかった。でも、病んでいたのは彼だけなのか。そうではあるまい。
このエピソードにも明確な答えはない。作者は、これ以上彼らの内面に踏み込まない。ただ、1年ぶりに刺されて半身不随になったままの少年をディノが訪ねていくシーンで映画は終わる。主題歌の『強くなれ』という歌が心に沁みる。このストレートなメッセージが、この映画の作者からのたったひとつのメッセージだ。
クレジットが終わった後に、もうひとつのエピソードが用意されてある。大人になり、戦場カメラマンとなったディノが、難民の母子にカメラを向ける。ある意味、とってつけたようなラストだ。これもあまり上手いとは言えまい。しかし、これはひとつの答えだと思うのだ。包帯クラブで、写真というものの可能性に目覚めた彼が写真で世界と向き合い、世界を変えたいと思う。これはこれで潔い。
だらだらなんだかまとまりないことを書いてきた。かなり疲れた。うまくいえないが気になる。そんな気持ちをそのまま書いてみた。これでもまだ、かなり言葉が足りない。
原作半分チョイまで読みました(゜゜○)
ぅ~ん。確かに内容のわりに長い気がします。 はぃ。(笑