中村義洋監督が湊かなえのミステリーに挑戦した意欲作だ。主人公の井上真央が前半の1時間、登場しない。この画期的な構成は原作を踏襲したのだろうが、後半になり腰砕け。満を持しての彼女の登場から、お話がどんどん膨らんでいかなくてはならないはずが、ただただ、事件の解決で終わる。説明なんかいらないのだ。これは原作のつまらなさだろうけど、そこを中村監督ならちゃんとクリアしてくれると期待しただけに残念だ。
井上真央演じる容疑者は失踪する。彼女の不在のまま、お話が始まり、進展する。ストーリーテラーは綾野剛演じるTVディレクターだ。彼が事件の真相を追う。井上は実は、前半戦も、脇役としてだが、証言者たちの告白の中でときどき登場する。
白ゆき姫を殺したのは誰か。犯人探しがこの映画の目的ではないことは最初から明白だろう。しかも、井上真央が犯人であるわけはない。自らの潔白を晴らすために彼女が奮闘する、というようなお話ではないことも、明白だ。では、何が描かれるのか。それは、誰もの中になる悪意、である。殺された女だけではなく、その周囲の誰もが抱える闇。それを描く群像劇、その中心にいて常に不在の存在。それが井上真央だ。彼女がただの巻き込まれ型のヒロインではないことは明らかだが、彼女の中にあるみんなを代弁するような闇と映画が向き合う時、これは素晴らしい作品へと進化したはずだ。
私は悪くないと言い切れるか。ただの可哀想な被害者か。そうじゃない。殺された女を追い込んだのは彼女だ。もちろんそんなのは言いがかりでしかない。勝手に女が彼女を気に入らないからと追い詰めただけだが、そこにはそんな気分にさせる「何か」があったのかもしれない。誰もが認める美人で表面上は誰もにいい顔をして、人気者。そんな女の影になり、地味で目立たない女。そういう図式を越える「何か」を、この映画は提示しなくてはならない。
幼なじみの親友と疎遠になったのはなぜか。この映画のヒントはそこにある。ラストでそのふたりの友情がよみがえるかのようなエピソードが提示される。だが、騙されてはならない。ふたりはあれ以来一度も会ってない。あの、ラストの後、再会するかどうかも、わからないのだ。殺された女と、小学生の時の親友との共通項はどちらも一番きれいだと言われていたこと。白雪姫は王妃に殺される。その理由は彼女が王妃よりも綺麗だったから。一番きれいだから。ということは、井上真央はその「一番きれい」の横にいた人。
井上真央演じる容疑者は失踪する。彼女の不在のまま、お話が始まり、進展する。ストーリーテラーは綾野剛演じるTVディレクターだ。彼が事件の真相を追う。井上は実は、前半戦も、脇役としてだが、証言者たちの告白の中でときどき登場する。
白ゆき姫を殺したのは誰か。犯人探しがこの映画の目的ではないことは最初から明白だろう。しかも、井上真央が犯人であるわけはない。自らの潔白を晴らすために彼女が奮闘する、というようなお話ではないことも、明白だ。では、何が描かれるのか。それは、誰もの中になる悪意、である。殺された女だけではなく、その周囲の誰もが抱える闇。それを描く群像劇、その中心にいて常に不在の存在。それが井上真央だ。彼女がただの巻き込まれ型のヒロインではないことは明らかだが、彼女の中にあるみんなを代弁するような闇と映画が向き合う時、これは素晴らしい作品へと進化したはずだ。
私は悪くないと言い切れるか。ただの可哀想な被害者か。そうじゃない。殺された女を追い込んだのは彼女だ。もちろんそんなのは言いがかりでしかない。勝手に女が彼女を気に入らないからと追い詰めただけだが、そこにはそんな気分にさせる「何か」があったのかもしれない。誰もが認める美人で表面上は誰もにいい顔をして、人気者。そんな女の影になり、地味で目立たない女。そういう図式を越える「何か」を、この映画は提示しなくてはならない。
幼なじみの親友と疎遠になったのはなぜか。この映画のヒントはそこにある。ラストでそのふたりの友情がよみがえるかのようなエピソードが提示される。だが、騙されてはならない。ふたりはあれ以来一度も会ってない。あの、ラストの後、再会するかどうかも、わからないのだ。殺された女と、小学生の時の親友との共通項はどちらも一番きれいだと言われていたこと。白雪姫は王妃に殺される。その理由は彼女が王妃よりも綺麗だったから。一番きれいだから。ということは、井上真央はその「一番きれい」の横にいた人。