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映画・演劇のレビュー

満塁鳥王一座『エレクトラ』

2008-03-31 22:12:32 | 演劇
 登場人物がそれぞれの立場から証言していくことを通して見えてくる事実を描く。このアプローチはとてもおもしろい。普通の芝居の作り方はしない。役者たちの会話や、対立というからみあいはほとんどない。それぞれのモノローグが、絡み合って1本の芝居を構成していくことになる。福島県からやって来た満塁鳥王一座の大阪初上陸作品である。

 作、演出の大信ペリカンさんを中心とするこの集団は、前述の方法で既に3本の作品を作ってきたらしい。今回はその第2弾として上演された作品の再演。ギリシャ悲劇『エレクトラ』をモチーフにする。とても新鮮な作品だと思った。裸の劇場という今回の企画意図をよく汲み取ったとてもシンプルで美しい舞台もいい。白と赤だけで構成されたほぼ素舞台。たった一脚の椅子を効果的に駆使して造形されたとてもスタイリッシュな空間の中で、5人の男女がひとつに事件の謎に迫る。

 おもしろい作劇だとは思うが、その面白さが同時にこの作品の欠陥でもある。素材とスタイルという2つの制約の中で、この芝居は自由度を失っている。『エレクトラ』でなくてはならない必然性が感じられない。素材が作品世界を狭めたのだ。その結果、作品自体も柔軟性を欠くことになった。さらには、スタイル自体が内容を凌駕してしまっている。

 5年前父が不慮の事故で死に、彼が経営していたスーパーが人手に渡った。今ではここは町のコミュニケーションセンターとなっている。ここで市民講座が開かれる。この5年間、ずっと父の死の原因は母のせいだと思い彼女を責め続けてきた姉。姉はすぐに家を出て行ったが、今も母と暮らしながら、なんとかして母と姉とを和解させようと心砕く妹。そんな中悲劇は起こる。

 この舞台には登場しない母と姉の相克がこの作品のテーマなのだが、それを妹の視点から描く。さらには周囲の人たちの証言を通して見せる。その見せるべきもの、それが明確にはならないのが気になる。作品の核心部分が空白になったまま、その周囲だけで世界が完結してしまっているのだ。

 大信さんはわざとそんな作劇をされているのかも知れないが、それでは芝居として物足りない。敢えて封印した母と姉の対決を、妹の全く無意味な殺人に転嫁してしまったラストが物語るもの、そこにある人の心の闇をもう少し踏み込んであぶりだしてくれたならこれは傑作になったかもしれない。

 

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