劇団50周年記念公演だ。50年劇団を維持し続けるだけではなく、常に攻めの姿勢を崩さないあり方が素晴らしいと思う。演出の熊本一は、今の劇団大阪の精力的な活動をしっかり支えているのだろう。
今回の50周年作品は、公募で選んだ。これは「劇団50周年記念戯曲募集大賞受賞作」である。自分たちの今からをその先までを見据えて、その土台を築き上げる礎となる、そんな台本を広く公募で集める。常に新しい出会いを求めていく姿勢。そこから始まる冒険。劇団大阪は劇団として今何をするべきなのかが明確な集団なのだ。
今回敢えて谷町劇場を公演場所に選んだ。ほんとうなら記念イベントとして大々的に大きな劇場を使ってもよかったはずだ。でもそうはしない。それどころか、コロナ禍でなくても、彼らはここを公演場所に選んだのかもしれない。ここはホームなのだという強い意志を感じた。ここでなら自由に芝居を作られる。そんな意気込みがあふれてくる、みずみずしいお芝居だった。小劇場だからこそ可能な表現がそこにはある。小さな空間で客席と舞台との間に距離がない。そんな密な共感(共空間)を大事にした。コロナ禍でも小劇場で芝居ができる。ここでしか見せられないそんな芝居を見せよう。そんな思いが伝わる。
岡田鉄兵のこの戯曲は甘い。でも、このハートウォーミングは悪くはない。このくらいの甘さが今の時代には必要だ。みんな心が弱くなっている。この現実の中で、心が折れてしまいがちだ。だからこそこんな優しさが必要なのだろう。リアリズムの芝居ではなく、こんなことがあればいいのに、というそんな芝居を。メルヘンとまではいかないけど、ある種の夢のような出会いと別れ。(いや、別れではない。これは始まりだ)主人公の青年だけではない。彼が出会えた家族、そして彼の実家にいる両親も含めたみんながそれぞれ必死になって自分のことだけではなく相手のことも考えて生きている。そんな姿が伝わる。それは終盤に一瞬登場する死んでしまった息子にだって言える。一生懸命に生きた。だからその先に未来がある。これはそんな気持ちにさせられる芝居なのだ。
熊本演出は、気負うことなく彼らに寄り添う。夫婦を演じた上田啓輔、津田ひろこが絶妙な掛け合いを見せる。いささかオーバーアクトで暴走気味だが、かまわない。演出がちゃんとドライブしてくれるから安心してやれる。主演の五期会から客演した村井祥吾(彼の母親役の高升君枝も客演だ)がいいのは、彼が出しゃばらないからだ。この家のお客さんとしての立ち位置(同時にこの芝居の客演としての立ち位置)をちゃんとわきまえている。この家族は部外者である彼を自然に受け入れる。そういう関係が見事に生きた。だからこれはバランスのいい芝居になっているのだ。お話にはいささか無理があるけど、芝居自身には無理はない。
この作品のあと、劇団はさらに今回の「劇団大阪50周年記念戯曲募集」で佳作となった作品に取り組むようだ。大賞受賞作だけではなく、応募してくれた作品を大事にしようという姿勢も素晴らしい。しかも、そちらの演出は山内佳子さんだ。50周年はベテラン演出と若手演出のコラボである。こういうふうな取り組みができる劇団って素敵だ。