7人の役者たちが動かないから、観客のほうが動いたりする。同時多発で、芝居が始まるので、自分が選んだもの以外の、他の5つは見ることができない。大体僕なんか最初は椅子から立たなかったので、最初は何も見れてない。いくらなんでも、このままではこの芝居に参加できないよ、と不安になって、途中から動き始めたのだ。もちろんちゃんとテキストも貰った。(それぞれのブースでは芝居の台本も置かれてある。)
今回の会場であるジャン・トゥトゥクーには、定められた客席はない。役者たちは自分の場所で自分の芝居を演じるから観客が移動しなくては何も見ることはできない。だが、そこでは無言の役者が静止しているばかりだ。本人が録音した音声が流れる。無言の役者は音声が途切れると動き出す。お話を見る、という本来の芝居から遠く離れて、この奇妙なパフォーマンスを目撃することとなる。
演じられる劇自体には意味はない。劇自体の意味とか内容とかが大事なのではなく、彼らがそこにいて、そこで精一杯に生きているということ自体に深い意味があるのだ。それを感じられたならいい。芝居を見るというよりも、そこに人の営みを見つめる。観客はそれを感じる。
観客は自由に動いていい。というか、動いて感じて欲しい。観客の姿も含めて芝居全体を構成する。中にはちゃんと役者と化している観客もいる。このスペースに集まる観客と役者たちが作り上げる。さらには、このスペース、ジャン・トゥトゥクーを作り上げたオーナーである出口弥生さんのお話(たぶん)までもが、作品の中に組み込まれる。とある劇団の話として語られる。それがアグリーである必要はない。
ラストの3・11を象徴的に描くドラマはこの作品全体のまとめとして提示されるのではない。それは始まりである。人々の営みを描くこの劇は、人がいかに生きていくのかを描くことを第一に考える。それが震災と津波によって、さらには原発事故により、どう損なわれ、無残なものとなったかにつながる。だが、見せたいのは、災害ではなく、そこからどう生きていくか、だ。
今回の会場であるジャン・トゥトゥクーには、定められた客席はない。役者たちは自分の場所で自分の芝居を演じるから観客が移動しなくては何も見ることはできない。だが、そこでは無言の役者が静止しているばかりだ。本人が録音した音声が流れる。無言の役者は音声が途切れると動き出す。お話を見る、という本来の芝居から遠く離れて、この奇妙なパフォーマンスを目撃することとなる。
演じられる劇自体には意味はない。劇自体の意味とか内容とかが大事なのではなく、彼らがそこにいて、そこで精一杯に生きているということ自体に深い意味があるのだ。それを感じられたならいい。芝居を見るというよりも、そこに人の営みを見つめる。観客はそれを感じる。
観客は自由に動いていい。というか、動いて感じて欲しい。観客の姿も含めて芝居全体を構成する。中にはちゃんと役者と化している観客もいる。このスペースに集まる観客と役者たちが作り上げる。さらには、このスペース、ジャン・トゥトゥクーを作り上げたオーナーである出口弥生さんのお話(たぶん)までもが、作品の中に組み込まれる。とある劇団の話として語られる。それがアグリーである必要はない。
ラストの3・11を象徴的に描くドラマはこの作品全体のまとめとして提示されるのではない。それは始まりである。人々の営みを描くこの劇は、人がいかに生きていくのかを描くことを第一に考える。それが震災と津波によって、さらには原発事故により、どう損なわれ、無残なものとなったかにつながる。だが、見せたいのは、災害ではなく、そこからどう生きていくか、だ。