これはなんと城崎温泉にて制作された芝居で、大阪経由東京行きとなる。カムヰヤッセンの北川大輔さんが、新しく立ち上げた個人ユニットで、城崎国際アートセンターが企画を募ってその審査に合格した作品。この現地滞在による制作上演というのって凄い。東京公演は来週18日からになる。東京より、一足お先にこの秀作を見ることが出来たことになる。うれしい。
ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』(僕たちの世代にとっては、とても懐かしい作品になるのではないか。今の子供たちも、これを子供時代に読まされるのだろうか?)を下敷きにして、そこに自分の(作、演出、主演の北川さん)これまでの人生をトレースして見せる。ちょっと恥ずかしいようなお話なのだが(自分のことを「神童」と呼ぶし)北川さんは敢えてこの自伝的作品を真正面から見せる。そこには中途半端なテレやハニカミはない。(本当はあると思うけど、中途半端にこれをやると、絶対につまらない独りよがりなものになるから絶対にそうはしない)
途中からこれはもう『車輪の下』じゃないじゃないか、という突っ込みも入るけど、(そこで笑わせるけど、本当はシリアスだ)最後まで、最初の姿勢は変えない。基本コンセプトに揺らぎはない。もし、妥協するとこの作品自身の存在意味を失くすからだ。神童でいいし、それがただの普通の人になっていくというある種の定番に堕する。そのことが大事なのだ。その中でどう戦うかがこの作品のテーマとなる。
3人の役者が北川さんを演じる。特に今の自分を自分自身で演じていく部分が素晴らしい。自虐的になりかねない展開を敢えて選んだ以上最後まで自分と向き合っていく。そして最後までハンス(『車輪の下』の主人公ね)を並行して見せる。
凡人になった彼が芝居と出会い、さまざまな体験を経て、今日に至る。この作品を作ろうとする彼の姿から芝居は始まり、そこに追いつく。幼い日、あんなにも傲慢で、自分に自信を持っていたのに、今では見る影もない。きついこともたくさんある。それぞれの時代のたくさんの友だちを失い、やがて恋人すら失って、それでもここにいる。
ラストで再び幼いころに戻って母とふたり、展望台から夜明けのまちを見る。タイトルにもなっているシーンだ。とても素敵なエンディングである。自分のこれまでの生き方をこんなふうに肯定できるって素晴らしい。もちろん、この先いろんなことがあったけど、こうして芝居をして、仲間と一緒にこの舞台に立っているという喜びが、そこからはしっかり伝わってくる。芝居と現実が重なり合う不思議な空間が現出する。
ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』(僕たちの世代にとっては、とても懐かしい作品になるのではないか。今の子供たちも、これを子供時代に読まされるのだろうか?)を下敷きにして、そこに自分の(作、演出、主演の北川さん)これまでの人生をトレースして見せる。ちょっと恥ずかしいようなお話なのだが(自分のことを「神童」と呼ぶし)北川さんは敢えてこの自伝的作品を真正面から見せる。そこには中途半端なテレやハニカミはない。(本当はあると思うけど、中途半端にこれをやると、絶対につまらない独りよがりなものになるから絶対にそうはしない)
途中からこれはもう『車輪の下』じゃないじゃないか、という突っ込みも入るけど、(そこで笑わせるけど、本当はシリアスだ)最後まで、最初の姿勢は変えない。基本コンセプトに揺らぎはない。もし、妥協するとこの作品自身の存在意味を失くすからだ。神童でいいし、それがただの普通の人になっていくというある種の定番に堕する。そのことが大事なのだ。その中でどう戦うかがこの作品のテーマとなる。
3人の役者が北川さんを演じる。特に今の自分を自分自身で演じていく部分が素晴らしい。自虐的になりかねない展開を敢えて選んだ以上最後まで自分と向き合っていく。そして最後までハンス(『車輪の下』の主人公ね)を並行して見せる。
凡人になった彼が芝居と出会い、さまざまな体験を経て、今日に至る。この作品を作ろうとする彼の姿から芝居は始まり、そこに追いつく。幼い日、あんなにも傲慢で、自分に自信を持っていたのに、今では見る影もない。きついこともたくさんある。それぞれの時代のたくさんの友だちを失い、やがて恋人すら失って、それでもここにいる。
ラストで再び幼いころに戻って母とふたり、展望台から夜明けのまちを見る。タイトルにもなっているシーンだ。とても素敵なエンディングである。自分のこれまでの生き方をこんなふうに肯定できるって素晴らしい。もちろん、この先いろんなことがあったけど、こうして芝居をして、仲間と一緒にこの舞台に立っているという喜びが、そこからはしっかり伝わってくる。芝居と現実が重なり合う不思議な空間が現出する。