5年振りのさはらカーニバルである。最近はわかりやすく単純な芝居ばかりで、こういうタイプの芝居がめっきり少なくなったので、とても刺激的だった。もともと小劇場演劇って、もっと難解なものだった。なのに、最近は観客に迎合したのか、それとも、作り手があまり考えなくなったのか。底の浅いエンタメが多い。
ここで言う難解とは、ひとりよがりだったり、頭の悪い僕らにはわからないような小難しいものだったり、するのではない。とてもシンプルなことをとことん突き詰めていくことで、難しくなっていく。そんな感じのものなのだ。わざと難しいものを作ろうとするのではない。ちゃんと誠実に作ろうとするからそうなるのである。しかもそれは「頭の中」だけで作ったものではなく、「頭の外」で作ったものだったりする。そんなものなのだ。
理屈ではなく、感覚的な抽象世界って、本来、手に負えないひとりよがりと紙一重なのだが、砂原さんの内的宇宙は自己完結しないから、そうはならない。わからないことが、とても心地よい。野田秀樹を見ている時の気分に近い。でも、野田秀樹はもっとスタイリッシュで、観念的だ。男と女の違いもあるのだろう。でも、昔の芝居ってみんなこんな感じだった。渡辺えり子や、如月小春、それに青い鳥もそうだ。こういう本来のオーソドックスが、最近は少ない。だから、芝居はつまらないのだ。
砂原悟空の芝居は昔からこんな感じだった。全然変わらない。最初は遊び感覚の象徴的な楽しい芝居だが、だんだんそれが深層に及ぶ。気がつくと僕たちの意識は彼女の世界の中にある。久々に彼女らしい芝居が見られてとてもうれしかった。女性だけのキャストも、そのほとんどが初めての人ばかりだが、ベテランぞろいなので、彼女の意図をしっかり汲んで余裕の芝居を見せてくれるから、安心して見ていられる。
運び屋の2人は重い荷物を持ってえっちらこっちら行く。女は履歴書とともに、記憶もなくす。この2つのエピソードが交錯する。
履歴書をなくした女は、働かねばならない。だが、履歴書もないし、自分が誰かもわからない。そんな彼女を取り囲む女たちは、彼女を雇うことにする。この女たちは、何者たちなのか。同じ場所で働く仲間か何かなのか。なんだかよくわからない。大体この5人の関係がよくわからない。身内のような他人のような、変な感じなのだ。全く他人のような遠い親戚。女が5人にそれぞれの関係を聞くシーンがおかしい。紹介するとき「この人は姉の婚約者の、妹の友人の従兄弟で」なんて感じでまるで要領を得ない。
女は村を守るため出稼ぎに出る。しかし、もう彼女が最後の若い村人で、彼女がいなくなると、村は老人ばかりになる。やがて、誰もいなくなる。彼女はどこから来てどこに行こうとしているのか。人はやがて、歳を取り、老いて死んでいく。母から娘へ、娘からその子へと、受け継がれていく。運び屋の次郎さんと爺郎さん(音で聞いた時には、次次郎さんだと思った)の2人の運び屋が受け取ったものはなんだったのか。女は村を出て、村に帰る。人の営みって何なのだろう。クライマックスの本家の総領の誕生。次の子の誕生。ここからラストまで、怒濤の展開である。何を渡されたのか。何を失ったのか。砂原さんが見せたかったものは、何だったのか。
このいささか観念的な世界を「かわいいタッチ」で見せていくのは、ミトス時代から変わらない砂原さんのスタイルだ。でも、40代後半となり、もう子供ではなく、立派な大人の側になってしまった彼女が、始まりではなく、終わりの芝居を作る。そこに込められたものは何だったのか。視点をシフトチェンジして、見せていく世界の在り方は興味津々である。
今回はまだ少し全体の作りが緩くて、どこをどう見たらいいのか視点が定まらない。だが、きっと次回公演でははっきり大人の側から人生の終わりを見据えたドラマを見せてくれるだろう。昔ながらのやり方で、未来に向けて渡されていくものを描く。主人公の女が死んでしまっても、その思いは次の「私」に受け継がれていく。人と人を取り囲む世界との在り方。さらにはもっと大きな世界との関連。宇宙と私というテーマの中から、ちっぽけな私に何が成し遂げられるのか。ヒロインの女を演じた朧ギンカさんが、芝居の中心にいるのに、彼女の抱える問題がクリアにならないから、作品の焦点がぼやけてしまったのが、残念だが、久々に刺激的な芝居を見れてとても嬉しい。
ここで言う難解とは、ひとりよがりだったり、頭の悪い僕らにはわからないような小難しいものだったり、するのではない。とてもシンプルなことをとことん突き詰めていくことで、難しくなっていく。そんな感じのものなのだ。わざと難しいものを作ろうとするのではない。ちゃんと誠実に作ろうとするからそうなるのである。しかもそれは「頭の中」だけで作ったものではなく、「頭の外」で作ったものだったりする。そんなものなのだ。
理屈ではなく、感覚的な抽象世界って、本来、手に負えないひとりよがりと紙一重なのだが、砂原さんの内的宇宙は自己完結しないから、そうはならない。わからないことが、とても心地よい。野田秀樹を見ている時の気分に近い。でも、野田秀樹はもっとスタイリッシュで、観念的だ。男と女の違いもあるのだろう。でも、昔の芝居ってみんなこんな感じだった。渡辺えり子や、如月小春、それに青い鳥もそうだ。こういう本来のオーソドックスが、最近は少ない。だから、芝居はつまらないのだ。
砂原悟空の芝居は昔からこんな感じだった。全然変わらない。最初は遊び感覚の象徴的な楽しい芝居だが、だんだんそれが深層に及ぶ。気がつくと僕たちの意識は彼女の世界の中にある。久々に彼女らしい芝居が見られてとてもうれしかった。女性だけのキャストも、そのほとんどが初めての人ばかりだが、ベテランぞろいなので、彼女の意図をしっかり汲んで余裕の芝居を見せてくれるから、安心して見ていられる。
運び屋の2人は重い荷物を持ってえっちらこっちら行く。女は履歴書とともに、記憶もなくす。この2つのエピソードが交錯する。
履歴書をなくした女は、働かねばならない。だが、履歴書もないし、自分が誰かもわからない。そんな彼女を取り囲む女たちは、彼女を雇うことにする。この女たちは、何者たちなのか。同じ場所で働く仲間か何かなのか。なんだかよくわからない。大体この5人の関係がよくわからない。身内のような他人のような、変な感じなのだ。全く他人のような遠い親戚。女が5人にそれぞれの関係を聞くシーンがおかしい。紹介するとき「この人は姉の婚約者の、妹の友人の従兄弟で」なんて感じでまるで要領を得ない。
女は村を守るため出稼ぎに出る。しかし、もう彼女が最後の若い村人で、彼女がいなくなると、村は老人ばかりになる。やがて、誰もいなくなる。彼女はどこから来てどこに行こうとしているのか。人はやがて、歳を取り、老いて死んでいく。母から娘へ、娘からその子へと、受け継がれていく。運び屋の次郎さんと爺郎さん(音で聞いた時には、次次郎さんだと思った)の2人の運び屋が受け取ったものはなんだったのか。女は村を出て、村に帰る。人の営みって何なのだろう。クライマックスの本家の総領の誕生。次の子の誕生。ここからラストまで、怒濤の展開である。何を渡されたのか。何を失ったのか。砂原さんが見せたかったものは、何だったのか。
このいささか観念的な世界を「かわいいタッチ」で見せていくのは、ミトス時代から変わらない砂原さんのスタイルだ。でも、40代後半となり、もう子供ではなく、立派な大人の側になってしまった彼女が、始まりではなく、終わりの芝居を作る。そこに込められたものは何だったのか。視点をシフトチェンジして、見せていく世界の在り方は興味津々である。
今回はまだ少し全体の作りが緩くて、どこをどう見たらいいのか視点が定まらない。だが、きっと次回公演でははっきり大人の側から人生の終わりを見据えたドラマを見せてくれるだろう。昔ながらのやり方で、未来に向けて渡されていくものを描く。主人公の女が死んでしまっても、その思いは次の「私」に受け継がれていく。人と人を取り囲む世界との在り方。さらにはもっと大きな世界との関連。宇宙と私というテーマの中から、ちっぽけな私に何が成し遂げられるのか。ヒロインの女を演じた朧ギンカさんが、芝居の中心にいるのに、彼女の抱える問題がクリアにならないから、作品の焦点がぼやけてしまったのが、残念だが、久々に刺激的な芝居を見れてとても嬉しい。