ドーンセンター開館20周年記念企画「ドーンフェスティバル2014」のメインを担う公演にふさわしいとても華やかで感動的な舞台だった。ドーンセンターのホールをここまで上手く使いきった芝居は初めてではないか。6話からなる短編連作なのだが、さまざまな女性たちがそれぞれの時代を精いっぱいに生きた姿が感動的に描かれる。見終えて胸がいっぱいになった。
構成、演出が樋口ミユ。その事実にも、感動している。彼女がこんな芝居を作る。6人の関西を代表する気鋭の劇作家の描く7人の女性たちの小さなドラマを、これだけのスケールで見せていく。制約をものともせず、そこを逆手にとって、壮大な物語として綴る。時系列に並べられたばらばらの6つのお話が、ちゃんと順番に見せられる。でも、心配したようには、単調にはならない。それは、まず、個々の作品に力があるからだが、それ以上に演出の姿勢が一貫しているからだ。そこにぶれがあったなら、これはバラバラな作品になり、収拾がつかなくなる。特定の誰か、ではなく、どこにでもいる誰か、というスタンスを崩さない。へんな偉人伝にされたなら、この串団子方式のオムニバスは、単調でつまらないものとなる。さらには、誰それの作品はおもしろいけど、誰それの作品はつまらないという、コンクールにすらなりかねない。樋口さんはそうはさせない。しかも、強引に自分の作品としてグイグイ個性を押しだしてくる、ということもしない。それどころか、ここまで樋口色の薄い彼女の演出作品を見たことがない。ある意味で今回、作家ではなく、職人に徹した。プロとして、この仕事を請け負い、ちゃんと仕立てた。
大阪で生きた女性たちが大阪に留まらず、世界を目指す。大阪のシンボル通天閣をイメージして、そこから全体を作り上げる。奥行きのある舞台空間は張り出しで客席の5列目までにも至る。左右の残された客席は、開演後、ホールの後ろから登場した役者が座る。実はそこまでもがこの芝居の舞台だったのだ。八百屋になった中央の舞台で芝居は進行する。だが、もちろん、そこだけにはとどまらない。左右の空間や、奥。手前左右の客席。すべてを使う。だが、あくまでも中心となるのは、手前から舞台奥へと至る中央へと連なる道だ。彼女たちはこの道を歩いてきた。この長く険しい道を歩いて生きて、死んだ。わたしの前にはあなたがいる。私の後にも、誰かがいる。そういうふうに繋がっている。そのとき時系列で並んだ6つの物語は、ひとつになる。この舞台美術(柴田隆弘)が作品のテーマをちゃんと語る。さらには華やかな衣装。それはちゃんと時代を表現して、でも、そこにとどまらない。時代を超越したイメージを喚起する。原色を縦横に使い、デザインされたそれは、彼女たちの生きざまをちゃんと伝える。
15分から20分で終わる1つ1つのエピソードに奥行きを与えるのは、そういう数々の仕掛けに他ならない。台本のお話の再現だけでは、不十分だから、その余白を埋める。だいたい70年80年の人生をたった20分以内のエピソードに象徴させ表現するなんて不可能だ。わかりきった話。だから、作家たちはピンポイントで攻める。それを、彼女たちの人生へと還元するのが演出家の役目だ。さらには、今を生きる女性たちの物語へと。樋口さんは見事にその任を果たした。あっぱれだ。
構成、演出が樋口ミユ。その事実にも、感動している。彼女がこんな芝居を作る。6人の関西を代表する気鋭の劇作家の描く7人の女性たちの小さなドラマを、これだけのスケールで見せていく。制約をものともせず、そこを逆手にとって、壮大な物語として綴る。時系列に並べられたばらばらの6つのお話が、ちゃんと順番に見せられる。でも、心配したようには、単調にはならない。それは、まず、個々の作品に力があるからだが、それ以上に演出の姿勢が一貫しているからだ。そこにぶれがあったなら、これはバラバラな作品になり、収拾がつかなくなる。特定の誰か、ではなく、どこにでもいる誰か、というスタンスを崩さない。へんな偉人伝にされたなら、この串団子方式のオムニバスは、単調でつまらないものとなる。さらには、誰それの作品はおもしろいけど、誰それの作品はつまらないという、コンクールにすらなりかねない。樋口さんはそうはさせない。しかも、強引に自分の作品としてグイグイ個性を押しだしてくる、ということもしない。それどころか、ここまで樋口色の薄い彼女の演出作品を見たことがない。ある意味で今回、作家ではなく、職人に徹した。プロとして、この仕事を請け負い、ちゃんと仕立てた。
大阪で生きた女性たちが大阪に留まらず、世界を目指す。大阪のシンボル通天閣をイメージして、そこから全体を作り上げる。奥行きのある舞台空間は張り出しで客席の5列目までにも至る。左右の残された客席は、開演後、ホールの後ろから登場した役者が座る。実はそこまでもがこの芝居の舞台だったのだ。八百屋になった中央の舞台で芝居は進行する。だが、もちろん、そこだけにはとどまらない。左右の空間や、奥。手前左右の客席。すべてを使う。だが、あくまでも中心となるのは、手前から舞台奥へと至る中央へと連なる道だ。彼女たちはこの道を歩いてきた。この長く険しい道を歩いて生きて、死んだ。わたしの前にはあなたがいる。私の後にも、誰かがいる。そういうふうに繋がっている。そのとき時系列で並んだ6つの物語は、ひとつになる。この舞台美術(柴田隆弘)が作品のテーマをちゃんと語る。さらには華やかな衣装。それはちゃんと時代を表現して、でも、そこにとどまらない。時代を超越したイメージを喚起する。原色を縦横に使い、デザインされたそれは、彼女たちの生きざまをちゃんと伝える。
15分から20分で終わる1つ1つのエピソードに奥行きを与えるのは、そういう数々の仕掛けに他ならない。台本のお話の再現だけでは、不十分だから、その余白を埋める。だいたい70年80年の人生をたった20分以内のエピソードに象徴させ表現するなんて不可能だ。わかりきった話。だから、作家たちはピンポイントで攻める。それを、彼女たちの人生へと還元するのが演出家の役目だ。さらには、今を生きる女性たちの物語へと。樋口さんは見事にその任を果たした。あっぱれだ。