DVを受けている女性が、初めて夫に対して、反抗し、反対に彼を殴り殺した。彼女は公園のベンチで放心したまま、座っている。
そこから彼女の地獄巡りが始まる。そしてそこからの帰還を描く物語のはずなのに、芝居はここから、全く思いもかけない芝居となる。まるで印象が違う世界に突入するのだ。あまりに明るくノーテンキなので、これがDVの話であったことすら忘れてしまうくらいだ。
しかも、彼女はここで出逢った人たちと深くコミットしていかない。彼女は風景のようになり、彼らを見つめていくだけなのである。能面のような無表情で彼らの姿、行為を見ている。
エネルギッシュな彼らを見て、自分の今までの環境、自分がしたことを振り返っていく、ということすらしないので、彼女がこの芝居の主人公であることすら忘れてしまうくらいだ。
そして、芝居自体も忘れてしまっているようなはしゃぎ方を見せる。芝居はヤクザ3人組と音楽家夫婦の見せる音楽ショーの趣きすら見せていく。そんな中で、彼女は完全に異物である。
彼女をこの世界に導いた女は、彼女と5人の間に入り、とても微妙な立ち位置を見せる。なかた茜がとても自然にこの女を演じる。自己主張するでもなく、存在を消すでもない。この両者の間に入り、ヒロインを自然に彼らの世界へ溶け込ませる。というか、そんな心配すらしていないようにさりげなく導く。
芝居は、外側にあるDVの話と、内側にある音楽によって楽しい気分になっていくという癒しの話が、完全に分離したように描かれていく。それは一見この芝居の欠陥のように見える。しかし、そうではない。
人の心はそんなに簡単なものではない。優しい人たちと出逢って、心の傷が癒されていく、というよくあるドラマは、ただの理想でしかない。現実はもっと過酷である。
この芝居のヒロインは、場所と時間を与えられただけである。この無意味にも見えるお遊びのような空間で、おもちゃのような5人と出会い、彼らの自由気ままに見える生き方に触れ、彼女の中で何かが、ほんの少し変わっていく。それだけが、この芝居で描かれる。それだけのために全精力をつぎ込んで、この芝居は作られている。
魔人ハンターミツルギ演じるヤクザが、主人公の夫と同じように胸を刺されて死んでいく。現実の夫は死なずに今も生きており彼女の誕生日に離婚届を贈ってくる。なのに、ミツルギは死んでいく。いい人が死に、悪い奴が生き残る。それもまた人生、とでも作者は言っているのか。
残された組長ともう一人の組員は町を出て行き、音楽家夫婦もここを去る。みんなここから居なくなり、なかた茜のOLだけが残る。その時初めて、もしかしたらあの5人は幻でしかなかったのかもしれない、ということに気付く。考えて見れば、この芝居自体がベンチに座る主婦(服部まひろ)と通りがかったOL(なかた茜)による二人芝居であり、そこに強引に5人の物語が割り込んできたというスタイルを取っているとも読める。
2人は芝居の中でお互いの事を何も話さない。なぜ夫を殺そうとしたのか、という事件の核心を成す部分は見事なまでに一切描かれない。事件を起こした当事者の女と、偶然彼女と出会った部外者の女。2人の出会いと別れが公園のベンチで描かれるだけだ。そこには何のドラマもない。だが、この出会いによって女はもう一度生きていこうと決心する。この芝居は、そんな2人の間に生じる友情を、2人の物語としてではなく、公園のベンチで生じた魔法のような出来事として見せていくのだ。
ラストシーンはアラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンの『さらば友よ』を思わせる。煙草を差し出し2人で最後の一服を吸うシーンがハードボイルドしていてカッコいい。
「落ち着いたらもう一度ここに来てもいい?」と主婦だった女は聞くが、拒否される。OLは「もう、そのときには、わたしもここに居ないかもしれない」と言う。夫に苦しめられてきた女が1人になり、生きていく覚悟をするまでの話だが、前述のラストに至っても終始ヒロインが笑顔を浮かべることはない。その頑なさがこの作品を成功させている。
今までのニュートラルとは全くテイストが違う作品に仕上がっていたことを嬉しく思う。提示したテーマを敢えて、突き詰めて描くのではなく、柔らかいオブラードで包みこむような優しさとして見せる。傷みよりも温もりへとスライドしていく芝居作りは、作者の成長と成熟を感じさせる。
そこから彼女の地獄巡りが始まる。そしてそこからの帰還を描く物語のはずなのに、芝居はここから、全く思いもかけない芝居となる。まるで印象が違う世界に突入するのだ。あまりに明るくノーテンキなので、これがDVの話であったことすら忘れてしまうくらいだ。
しかも、彼女はここで出逢った人たちと深くコミットしていかない。彼女は風景のようになり、彼らを見つめていくだけなのである。能面のような無表情で彼らの姿、行為を見ている。
エネルギッシュな彼らを見て、自分の今までの環境、自分がしたことを振り返っていく、ということすらしないので、彼女がこの芝居の主人公であることすら忘れてしまうくらいだ。
そして、芝居自体も忘れてしまっているようなはしゃぎ方を見せる。芝居はヤクザ3人組と音楽家夫婦の見せる音楽ショーの趣きすら見せていく。そんな中で、彼女は完全に異物である。
彼女をこの世界に導いた女は、彼女と5人の間に入り、とても微妙な立ち位置を見せる。なかた茜がとても自然にこの女を演じる。自己主張するでもなく、存在を消すでもない。この両者の間に入り、ヒロインを自然に彼らの世界へ溶け込ませる。というか、そんな心配すらしていないようにさりげなく導く。
芝居は、外側にあるDVの話と、内側にある音楽によって楽しい気分になっていくという癒しの話が、完全に分離したように描かれていく。それは一見この芝居の欠陥のように見える。しかし、そうではない。
人の心はそんなに簡単なものではない。優しい人たちと出逢って、心の傷が癒されていく、というよくあるドラマは、ただの理想でしかない。現実はもっと過酷である。
この芝居のヒロインは、場所と時間を与えられただけである。この無意味にも見えるお遊びのような空間で、おもちゃのような5人と出会い、彼らの自由気ままに見える生き方に触れ、彼女の中で何かが、ほんの少し変わっていく。それだけが、この芝居で描かれる。それだけのために全精力をつぎ込んで、この芝居は作られている。
魔人ハンターミツルギ演じるヤクザが、主人公の夫と同じように胸を刺されて死んでいく。現実の夫は死なずに今も生きており彼女の誕生日に離婚届を贈ってくる。なのに、ミツルギは死んでいく。いい人が死に、悪い奴が生き残る。それもまた人生、とでも作者は言っているのか。
残された組長ともう一人の組員は町を出て行き、音楽家夫婦もここを去る。みんなここから居なくなり、なかた茜のOLだけが残る。その時初めて、もしかしたらあの5人は幻でしかなかったのかもしれない、ということに気付く。考えて見れば、この芝居自体がベンチに座る主婦(服部まひろ)と通りがかったOL(なかた茜)による二人芝居であり、そこに強引に5人の物語が割り込んできたというスタイルを取っているとも読める。
2人は芝居の中でお互いの事を何も話さない。なぜ夫を殺そうとしたのか、という事件の核心を成す部分は見事なまでに一切描かれない。事件を起こした当事者の女と、偶然彼女と出会った部外者の女。2人の出会いと別れが公園のベンチで描かれるだけだ。そこには何のドラマもない。だが、この出会いによって女はもう一度生きていこうと決心する。この芝居は、そんな2人の間に生じる友情を、2人の物語としてではなく、公園のベンチで生じた魔法のような出来事として見せていくのだ。
ラストシーンはアラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンの『さらば友よ』を思わせる。煙草を差し出し2人で最後の一服を吸うシーンがハードボイルドしていてカッコいい。
「落ち着いたらもう一度ここに来てもいい?」と主婦だった女は聞くが、拒否される。OLは「もう、そのときには、わたしもここに居ないかもしれない」と言う。夫に苦しめられてきた女が1人になり、生きていく覚悟をするまでの話だが、前述のラストに至っても終始ヒロインが笑顔を浮かべることはない。その頑なさがこの作品を成功させている。
今までのニュートラルとは全くテイストが違う作品に仕上がっていたことを嬉しく思う。提示したテーマを敢えて、突き詰めて描くのではなく、柔らかいオブラードで包みこむような優しさとして見せる。傷みよりも温もりへとスライドしていく芝居作りは、作者の成長と成熟を感じさせる。