佐藤泰志の原作小説映画化第6作。こんな地味な作家の小説がこんなにも大切にされ映画化されるなんて奇跡だろう。それくらいに彼の作品は気鋭の映画作家を刺激する。これまでの5作はいずれも秀作揃いだった。そんな佐藤映画だったのだが、今回は少し乗れなかった。いままでの函館発の映画から舞台を東京近郊へと移したことが影響した、というわけではない。監督の力量不足というわけでもない、はずなのだ。これは今油が乗り切っている城定秀夫監督作品である。
では城定秀夫監督作品は僕に合わないということなのだろうか。たぶんそこだろう。僕が彼の映画が好きではないから、それだけの理由かもしれない。ごめんなさい。彼はどんな題材でも器用にこなす。だけど、なんだか浅い。今年の3作品がいずれもそうだった。3本とも及第点の映画だがそれ以上のものではない。今回も決して悪い映画ではないけど、いつも通りのこの作品世界に乗り切れないまま2時間が過ぎていく。
佐藤泰志の小説は今までだっていつも同じ。もどかしい話ばかりで今回だけ違うものではなく今回も同じなのに、それが今回だけは乗り切れないのが不思議だ。ダメ男の話。ここには特別なことは何もない。ストーリーは単調。でも、それは今までの5作も同じだ。なのに、これまでの作品が面白かったのは、そこに緊張感があったからだ。それが今回はない。主役のふたりは悪くない。彼らの抱える不安ややりきれなさがちゃんと伝わる。でも、それがどこにつながるのかが見えないのだ。ただなんとなく今の自分をなぞるだけ。映画は先に進まない。
売れない作家と、離婚して行き場のない女。ふたりが同居して過ごす時間。それが淡々と描かれていく。自らの闇と向き合い出口もなく彷徨う停滞した時間。ちゃんとお互いと距離を取りながら、それぞれはひとりずつで暮らす。(女には息子がいるから彼女はひとりではないけど)妻に逃げられた男と、夫から追い出された女。(しかも、この男の妻とこの女の夫が懇ろになっている)棄てられた者同士が同居して、やがて傷をなめあうという定番の展開になるのは必至だろう。でも、そこに彼らの今の感情がきちんと描かれていて、お互いが求めあうことになるその先が見えてきたなら納得がいくのかもしれないけど、それはない。この作品はそんな宙ぶらりんなふたりを描いているのだから、これでいいはずなのだ。だが、それがなんだか、ただただもどかしい。ただの予定調和にしか見えない。
リアルじゃないのだ。男は女とその息子に家を明け渡し、家の前に立つプレハブの小屋で生活をし小説を書く。風呂と冷蔵庫だけは母屋に行くがそれ以外は接しない。(トイレもプレハブにはないはずだが、そこは描かれない)夜になるとフラフラと家を出ていく女。それを見守る男。お互いの生活には干渉しないけど、お互いの存在が気になる。そんなふたりの関係性を描いていくことで見えてくるものがここには描かれるはずなのだ。しかも緩衝材として子供の存在もある。こんな設定で描かれるそんな3人のお話は絶対に面白くなるはずだった。なのに、見終えたとき、なんだか空漠とした気分しか残らない。なぜだろうか。わからない。