習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

金蘭座『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』

2010-05-06 20:24:43 | 演劇
 今、この40年近くも前に描かれた革命についての物語を、山本篤先生が、金蘭座とその子供たちである金蘭会高校演劇部を率いてリメイクすることの意義は、もう今さら問うまでもない。山本先生の拘りは変わらない。

 だが、この山本先生の変わることのない情熱は一歩間違えば、『地獄の黙示録』のカーツ大佐と重なってしまう。(まぁ、それは、半分冗談なのだが)何も知らない周囲の人たちは、彼を裸の王様のように受け止めるかもしれない。女の子たちの中で、彼女たちを導き自分の芝居を目指す彼のやり方がそんな誤解を生む可能性は充分ある。金蘭座にしても彼の劇団というわけではない。

 とはいえ、カーツと山本先生の違いは明白であり、それは天と地ほどにも違う。この踏み越えては成らない一線を守りきることは狂気と正気の境界線なんていう単純なものではない。ぎりぎりまで極めて、譲ることなく踏みとどまること。それが何より大切なことなのである。

 今回の芝居の主人公である将門にはそれができなかった。だから彼は狂気に陥り、滅んでいく。彼を信じて、きちんと踏みとどまる周囲ものたちをも巻き込み、破滅に導く。

 学生運動の時代、革命を夢見た人たちは、やがて挫折して散っていった。そして、日本は緩やかに破滅の道をたどり続ける。もう後戻りはできない時代のゆきどまりの中で、それでも夢を諦めないで生き続ける山本先生と金蘭座の戦いはこれから先も休むことなく続いていくのだろう。

 金蘭座が成熟していくためには、オリジナルだけではなく、こういう古典に挑み、それを極めて現代的な作品として、金蘭流にアレンジして提示するという試みは必要なことであった。改めて今を生きる我々にとって何が必要なのかを、この作品は問う。その問いかけに我々もきちんと向き合わなければならない。
 
 今、もう一度、原点に戻って、清水邦夫のこの作品に取り組んだ山本先生の挑戦をこれからも見守っていきたい。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 午前十時の映画祭 | トップ | 『四川のうた』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。