劇場公開時に見たかったけど見逃した映画が配信されたのを発見するとうれしい。さっそく見る。公開時は小泉今日子がプロデュースした映画だということが大々的に報じられ宣伝されていたけど、本編を見るとプロデューサーとして豊原功補の名前が一番に出ていた。調べると、「豊原功補、小泉今日子、外山監督らが立ち上げた映画制作会社・新世界合同会社の第1回プロデュース作品」とある。俳優が主体となり、自らが出演するわけではなく、純粋に自分が見たい(あるいは、作りたい)映画の製作を手掛けるなんてあまり前例はないのではないか。
これは若手監督である外山文治監督が、村上虹郎と芋生悠を主演に迎えて放つ絶望的な逃避行を描く恋愛映画。翔太は和歌山にある高齢者施設に演劇の指導でやってくる。そこで働くタカラと出会う。ドキュメンタリーのような描写から始まる。そして事件は祭りの日に起こる。刑務所に入っていたタカラの父親が出所して彼女のもとにやってくる。
なんで逃げているのか、自分たちにもわからない。父親を殺してしまった(かもしれない)女と、その現場に立ち会ってしまった男。逃げても必ず捕まる、そんなことわかりきったことだし、不可抗力だから、きちんと話したなら罪は軽くなるはず。でも、彼らは一目散に逃げた。ここにいたくはなかった。彼女はあの薄汚い男から離れたかった。自分の人生を奪った男のせいで警察に捕まるなんて絶対に嫌。それは冷静な判断ではなく一時の激情。そんな感情に身を任せて手をつなぎ飛び出す逃避行が描かれる。数日間の旅を通してふたりは自由を手に入れる。だけど、それは幸せではない。何日かで確実に終わる短い旅だ。愚かでバカ。だから海で「こんなことで人生を棒に振ってしまった、」と虹郎が彼女に言う。もちろんそれは本心からではない。
父親から性的虐待を受けてきた彼女の傷みを彼は受け止める。人生に絶望してきたふたりがそれでも「もう一度生きていこう」と思う。絶望的な数日間の未来のない旅を通して、お互いがお互いに生きるための「何か」を捕まえたのではないか。
彼女が高校時代の彼を知っていた、ということを彼が知るラストの切ないエピソードが胸に沁みる。すれ違っただけの出会いと別れ。教室で撮影していた映画。あの頃から彼は映画俳優を目指していた。そのことを彼女は知っていた。ほとんど説明はない。ふたりの現在しか語られない。それだけにこの終盤の回想シーンは貴重だ。
映画が始まって30分以上が過ぎたところでタイトルの『ソワレ』という文字が出る。彼女の父親を刺して逃亡したふたりが湖(海だったかも)のほとりで佇むシーンだ。夕闇が迫る。ここからふたりの旅は始まる。逃亡劇になったところから映画はなんだかのんびりしてくるのが不思議だけど、監督はきっとそれがやりたかったのだろう。傷ましい過去からの逃亡は、ふたりだから甘くて優しい。